潰瘍性大腸炎 内科・外科治療体験と生活習慣をアドバイス
外科治療(T期)
2003年1月1〜5日
年末年始を病棟で過ごすなんて、初日の出を病室の窓から見ることになろうとは。
年末あたりから、体の状態が改善していくにつれて、看護師内輪で課題となってきたことが、
「ストーマのケアをいつから患者(=私)自身にやらせるか」
ということだった。
年末に一度だけ、担当の看護師から、「装具の張り替えとか、いつから練習しましょうか?」と聞いてきたので、「まだ退院もはっきりしない状況じゃ練習する気になれません。お腹の傷もまだとっても痛いし」と一蹴。
このころ、ナースステーション内では、”装具の張り替え練習させる派”と”もうしばらく様子を見てみる派”に意見が分かれていたそう(これは、担当の薬剤師さんから聞いた後日談)。
年始は、3,4日のカルテの記載はなし。
年末30日にはお腹に刺さっているチューブを一つ抜き、イレウスチューブも抜去。年始3日には、お腹に刺さっているもう一つのチューブを抜き、晴れて、お腹にはストーマ(と装具)と、腎ろうのチューブ、首のCV、という身軽な体になった。
チューブがひとつひとつ抜去されていくというのは嬉しい。
(カルテの記載)
{1/1}no change ドレーン洗浄した。
{1/2}尿量少ないのではと心配している。腎ろうとあわせると尿量保たれていると話した。皮膚潰瘍の今後の治療方針はどうなのですか、と質問あり。
{1/5}尿量(303+490[腎ろう]ml)やや少ない。のどは乾かない。本日、採血(腎ろうチェック)。明日Uro受診。Uro的に腎ろうupなら、そろそろENT(=退院)。
2003年1月6日
この日は、泌尿器ドクターから説明があった。今刺さっている腎ろうの管をもっと太いものに差し替えるというのだ。また激痛を味わうことになるのかと思うと、気分がとってもブルーになった。でも、退院へのステップと思えば、我慢。泌尿器ドクターがカルテを見て言った一言。「何だかいつ退院してもいいような書き方だなぁ〜」っていうのが、少し救い。
この日あたりから、装具の張り替えの訓練が始まった。看護師さんに「自立の時がきました」と言われた。言ってくれるよなぁ。
(カルテの記載)
本日Uro。
よければ、ENT方向で。
2003年1月7〜9日
外科病棟ももうすぐ終了らしい。このころに外泊許可がでた。
けど外泊といっても、まだ首にはCVが刺さっているし、腎ろうの袋はついているし、こんなのを付けたままでどうやって外泊できるんだろうか?
家族にも相談したが、「家寒いし、ここにいたほうが快適かもよ」って言うので、そのまま外泊はせず、今までどおり病棟にステイ。9日に、病棟主治医から、家族と私に、いままでの経過の最終報告があった。尿管の損傷については、緊急手術時にやってしまった可能性が高い、という説明があったが、まるで信用できず。今でも、11/25の一番最初の手術でミスをしたんだろうと疑っている。ちなみに、尿管損傷の原因については2期手術のときにもあったが、それもあやしい。
外科的にはもう、やるべきことはないらしい。装具の業者さんともお目にかかり、ストーマケアについていろいろ話をきいた。
(カルテの記載)
{7日}
1/15腎ろう造設予定。
外泊ok
ENT、ウロへ転科方向で。
{8日}
BT36.9度、HR36.4 UV225 BP107/72 腎ろう710
1/10に6c病棟Uroへ転科転床
familyとPtへ
今までの経過を説明。1/10 6cへ転科転床。Uro ENT後は、Dr○○の外来にて診ていくことを伝えた。ストーマおとしは六ヶ月後を考えていることも伝えた。
{9日}
右大腿外側、壊疽性膿皮症
よくなっているが、まだ発赤
消毒した。
1/10 Uro 6cへ。
2003年1月10〜14日
11/25から1/9まで一ヶ月ちょっとに渡った外科病棟を離れ、隣の泌尿器科病棟へ移動。
ここで最後の処置、腎ろうのカテーテルを太いものに入れ替えて退院の見込み。
腎ろうの蓄尿バッグは、太股に取り付けるタイプに早速取り替えてくれた。
13日には、点滴も1日2回の電解水だけとなり、晴れて、晴れて、点滴棒とチューブから解放された日を迎えることができた(CVはヘパ止め)。身軽になって、早速、リハビリがてらに、1駅となりの街まで電車で出かけた。病院から最寄りの駅までは平坦な道で、普通の人ならたいしてつらくもない道のりのはずが、さすがに長期寝たきりで脚力が落ちたのか、どんどん後続の人に追い抜かされる。そして、駅では、登り階段はなんとか上れるものの、階段の下りはまったくダメで手すりにつかまらないと降りられない。手すりがなかったらサーっと転げ落ちてそのまま線路に落ちそう。
(カルテの記載)
{10日}
外科より転科転床。
12/14時点では、(いろいろ絵が描いてあって)左腎臓leakage
尿管、fistelになっている。
S状結腸、U3摘出あり。
12/27時点では、leakage(−)、尿管摘出(−)
1/25 CTでは尿管の情報 不明
{11日}stable
{12日}stable
{13日}stable 左叩打痛なし Hrきれい 腹痛なし
{14日}記載なし
2003年1月15日
今日は、腎ろうの拡張術。やっとこの山を乗り越えれば、退院も間近になる。
午後1時から、手術開始となり、約1時間で手術は終わった。といえば、簡単に聞こえそうだが、これがまた激痛意外の何者でもない。脇腹を針で刺される感覚を想像してほしい。
既に刺さっている管を、もっと太いものにしていくのだが、いきなり太い管をつっこむのではなく、徐々に太い管を入れたり抜いたりしながら拡張していく。この、抜き差しが当然痛い。麻酔も部分的にしているとはいえ、それは皮膚の表面だけしか効果がなく、痛い、とにかく痛い。太い管が刺さるたびに声をださずにはいられない。
オペ終了直前に、強力な利尿剤を注射された影響で、病室に戻ってほどなく尿意に襲われ、しびんをオーダーするも、なかなかもってくる気配なく、痛い体を無理矢理ひきづってトイレへ直行。
ちなみに、腎ろうの一方で、放尿の感覚がまだこのときはものすごい違和感があった。一度出し終えても、すぐまた強烈な尿意が襲ってくるもののなにもでず、その感覚がおさまってからやっとトイレを離れられる、という状況。このことを泌尿器ドクターに伝えても、なかなか理解してもらえなかった。
あまりの痛みで、夕食はほとんど口にすることができず、もったいないことをした。
痛かったわりに、カルテの記載が超簡素なのも、不満。
(カルテの記載)
本日、腎ろう 拡張
2003年1月16〜17日
15日の腎ろう拡張術が終わって、退院はもうすぐ。
回診時に、医師から、「いつ退院します?」ときた。「早ければ週末の土曜でもいいし、ゆっくりしたければ週明け月曜でもいい」と。
一刻も早く退院したい私としては、当然ながら「土曜に退院します」と返事。
ということで、退院の日程も決まった。
退院に先立ち、腎ろうのケアに関する説明も看護師さんからあった。退院後も、2週間に1度は外来で通院し、1ヶ月に1度はチューブの交換をする。また、日頃のケアの方法や入浴時の注意事項についても、看護師さんお手製のイラスト入りマニュアルを用意してくれた。
17日には、外科医の病棟医長がやってきて、退院予定を祝福してくれた。
(カルテの記載)
{16日}
proper position
{17日}
painなくなった。尿の色、good。fever free
1/18 ENT
2/14次回外来
CV抜去
尿出good
feverなし
2003年1月18日
そして、この日、やっと退院となった。
11/8に夜間救急で入院となって以来、内科での治療、外科での1期手術、そして、1期術からわずか10日の予期せぬ緊急手術、尿管の損傷、泌尿器科での腎ろう造設など、よくある成功例では絶対に体験しえないような、壮絶な闘病生活だったと想う。
絶飲食は11/8から12/12に渡る1ヶ月弱、
1期術直後、よくなるどころか、敗血症+播種性血栓と黄疸、肝機能の急激な低下、縫合不全、腹膜・骨盤内膿瘍、壊疽性膿皮症など、死の寸前までいってしまったのはさすがにつらかった。また、尿管損傷により、ストーマだけではなく、腎ろうも抱えなければならないというハンディは想像していなかった。
その一方、病棟の医療関係者みんなの励まし、家族の励まし、友人や職場の人間のお見舞い、などは、とても嬉しかった。また、思いもかけず、自分の特技を生かせた場面などは大きな励みになった。やはり、病は気から、というように、最終的には、自分の意志の力が、回復に大きく作用することを思い知った。
荷物を整え、いよいよ病棟をあとにしようとするとき、リストバンドをはずしてもらえた瞬間の開放感は、何ともいいようのないものだった。そして、病棟でお世話になった多くの看護師さんのお見送りも嬉しかった。
(カルテの記載)
尿出good
血尿なし
fever free
皮膚科再診:壊疽性膿皮症の診察をしてから退院。
1期入院、終了。
続)2期半年後。2期入院までの間の、外来処置、職場復帰。
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