潰瘍性大腸炎 内科・外科治療体験と生活習慣をアドバイス
外科治療(T期)
2002年12月5日
この日も、相変わらず快方には向かわず。それでも、病棟を5周は歩いた。が。。。
午後になってから、肛門からの排液・出血がとまらなくなった。おむつをしてもすぐ排液で汚れる。いくらあってもたりない。
それどころか、おむつを看護士さんに交換してもらっている最中に排液がある。自分ではまったく排液のコントロールができない。どんどん間欠的にでてきてしまう。(おむつ交換の時は、当然、下半身が露わになるのだが、はずかしいだの何だの言っていられる状況ではない)。
さすがに医師も不安に思ったのか、まずは14:00ごろに研修医が様子を見に来る。排液等が多いことをうったえると、「思っているほど血液はでていないものですよ」と言われる。が、おむつ交換の頻度が異常であることを心配した看護士さんたちが、さらにドクターたちに上申したらしく、16:00病棟の医師団一行がベッドサイドにやってきて、様子を見てくれる。おむつについた排液等の培養を検査する。
そして、異常事態に、医師団も動き出す。
17:00ごろ、まずはCTを撮りに行く。それが終わると、再び病棟に戻って(ナースステーションでは、私の家族等に連絡をつけようとして大騒ぎしている)、今度は執刀医も立ち会いのもと、内視鏡検査を行う。このとき、執刀医と病棟医長が目をあせて何やらうなずいていたのを見たが、内視鏡検査の検査の途中でとうとう意識がもうろうとしてきて、記憶がなくなる。
家族の話によると、20:00ごろから再手術が始まったらしく、再手術のために手術室へ移される途中で、私が家族に手を振ってあいさつした、らしいのだが、内視鏡検査の途中で意識がなくなってしまい、手術室へ入った記憶がまったくない。
手術が終わったのが夜の0:00近くだそうで、意識がないまま私はICUで容態管理となった。
この後3日くらい、意識がほとんど戻らなかった。
後で家族にきいた話によると、腹膜内が出血や膿でよごれてまくっていて、腹膜の左後ろで、膿の袋が形成されていたとのこと。また、肛門とJポーチが縫合不全を起こしていて、吻合部の1/3ほどがはがれていたとのこと。
大量の水で腹膜内を洗浄したため、侵襲域がかなり大きくなってしまったため、モルヒネを使ってペインコントロールせざるを得なかったと。モルヒネの副作用で、これが切れたときに発狂する等、精神異常をきたすおそれがあること、などなど。
保存的治療では命の保証がない、とのことで、かなり危険な状態だったためにやむを得ず再手術となった。
普通、1度全身麻酔を伴う手術をすると、体力的な問題などを考えて、短期間の間に再び全身麻酔を伴う手術をすることはタブーだそうなのだが、1期からわずか10日にして、再び大手術を行うこととなってしまった。
このあと、ICUに入り、快方に向かうまでがまたひとつの戦いとなる。
2002年12月5日
(緊急オペの手術記録)
ややドロージーな感じで入室(注:オペ室に入った記憶がない)。
Bp115/85、HR135回/分
麻酔導入、挿管施行。
CV、Aライン挿入。
体位整方、保温に努め、オペ開始となる。
腹部縦切開にて開腹し、腹腔内の出血と膿瘍内容物を生食12リットルにて洗浄しながら吸引(コアグラ多量)。
膿瘍内容物一部採取する。左腎後ろにドレーン留置。そのあと減圧目的でトライツ靭帯30cm〜2mの部分にイレウス管留置。次に、肛門からアプローチし、前回の吻合部(縫合不全を起こしていた部分)1/3周を縫合。ストーマからNS流し、もれないこと確認。
腹腔内操作に戻り、ドレーン挿入し、止血確認。閉創。オペ終了となる。
オペ開始時より輸血スタートし、Hb6.4から8.3へ。
BP90〜110台、HR90〜110台。
挿管したままICUに入室となる。
以上、オペが終わり、3日後に気がついた時には、Jポーチのドレーン、後左腎からのドレーン、腹壁から直接挿入してあるイレウス管、CV*2本、尿管、ストーマ、と、管だらけになっていた。
2002年12月5日
緊急オペ日のカルテ。実際には絵が書いてあるので、4ページくらいに及んでいる。
執刀医のカルテの記載「今後の変化はその都度お話します」という部分が、ただごとではなかったことを物語る。
(カルテの記録)
ドレーンはコアグラ
ストーマは肛門側がコアグラ
ストーマ口側はclear
やはり血液レベルは下がる
現在はアクティブではないので様子みる。
胃管490ml
体温は朝37度
抗生剤は一旦offとする。
Bacの結果は(−)であった。
いずれチューブ造影を。
(ここまでは、午前の回診までの記録と思われる)
肛門側の腸からの出血か。とりあえず安定。薬剤はいろいろ中止、再評価。
(ここまでは午後の記録)
PM7:00 家族へ
1.肛門又はJパウチから出血しています。
2.また、左腎臓の後ろに膿瘍を形成しています。
3.保存的治療には限界があり、緊急オペします。
4.詳細は術後お話します。
手術終了
1.左腎臓後方に膿瘍がありました
2.肛門管とJポーチが1/3周ほどリークし、血性の膿瘍を作っていた
3.開腹ドレナージし、経肛門的に縫合しました
4.術後はICUで管理します。
5.今後の変化はその都度お話します。
(上記は、執刀医の記載)
2002年12月6日
ICU1日目。私自身は、ほとんど記憶がなかったので、どんな状態だったのか不明。
看護記録には、手を見てはいろいろ何か口走っていたような記述があけるど、当然、私はおぼえていない。
家族も面会にきた(ICUでの面会はたったの5分と決められている)らしく、その時私が「どんな手術をしたの?」と家族に問いかけたらしいが、それすら覚えていない。
(カルテの記載)
AM11:00抜管す。
家族へ現状説明
術後1日目としてはgood condition
明日帰室可能と思われる。
今日は 3リッター50%で。
X線 異常なし。
塩モヒ50mg
(看護記録)
左腎臓後ろに挿入されているペンローズより浸出多めに続く。ポスKを張り、浸出液キャッチする。また、浸出多く、マイナスバランスへ。cvpも下がり、側管よりveenF 500ml追加していく。
ルートが下になるようで、「どこに入っているのかと思って。。。」と、手をながめたり、首のあたりをさわっていることあり。
ちなみに、短時間の間に、かなりいろいろな処置をしてくれている。
2002年12月7日
この日もICU。やはり家族が見舞いにきて、「どんな手術をしたの?」と私が問いかけたらしいが、まるで覚えていない。体位交換でたまに目が覚めるようになるが、部屋の中がどんな状態なのか、どんな点滴が繋がっているのか、まったく覚えていない。部屋の電気はついているのかどうかすらわからない。薄暗い部屋に閉じこめられている感覚。
病棟の医師も回診にやってくるらしいが、これまた全然覚えていない。
(カルテの記載)
熱36.8度 HR72
血圧131/67 Hr200/2h
Hrも出ている。
BGA pH7.464 O2マスク3リットル
呼吸状態よく
意識 クリア
塩モヒ(10mg) 2アンプル
本日 6A病棟へ帰室予定(実際に帰室したのは翌日)
2002年12月8日
この日、ICUから病棟に戻った。病棟に戻ったといっても、大部屋にもどったのではなく、ナースステーションに近い個室で容態管理となった。
このころになるとやっと、意識もある程度はっきりしてきて、ICUでは見舞いの家族がきていたのを覚えている。
相変わらず「どんな手術をしたの?」と問いかけていたらしいが、私には、割烹着すがたのような格好で直立不動にたっている家族の姿しか記憶になかった。家族が言うには、「この人3日続けて同じ質問をしているのに、それにまったく気がついていない。とうとう精神障害がでたのではないか」と心配したらしい。
さて、病棟の個室に戻ったとはいえ、相変わらず点滴棒にはすずなりの点滴、他には管がいっぱい、そして胸には心電図のセンサー、と、歩けるような状態ではなかった。モルヒネの影響で、体の痛みはまったく感じなかったが、とにかく視点が定まらない感じがひどい。ある1点を見つめようと思っても、次の瞬間には別のところに視点が移ってしまっている。目玉が勝手に動いている感じ。
(カルテの記載)
塩モヒ10mg 2アンプル
2002年12月9日
個室にて容態管理。この日、少し病棟を歩いてみた。2周するのがやっと。おなかには管がたくさんささっていて、腹帯を巻いているから分厚いはらまきをまいている感じ。点滴棒にもたくさんの点滴。それにしても、相変わらず目線が定まらない。まだモルヒネの影響がある。そして、緊急手術以前の記憶がほとんどない。こんなんで社会復帰できるのだろうかと、かなり心配になり精神的にかなりへこむ。親戚の人が見まいにきてくれた時に言われた言葉、「温泉にきたつもりで、ゆっくり焦らず直すんだよ」って握手されながら言われたときは涙が止まらなかった。
それから、耳の聞こえ方がおかしい。耳に水が入ってしまったかのような感覚。医師に訴えたところ、さっそく耳鼻科を受診させてもらえた。これがまたたいへんで、体はぜんぜん力が入らないからベッドから起きあがるのもやっと、車いすに乗って耳鼻科外来まで行くのがまたすごい疲れる。そして、車いすにすわっているだけなのに、外来でまたされている時間の間に疲れ切ってしまって、少し気持ち悪くなる。
結局、耳にはなんの異常もなくて、様子をみましょうということになる。
午後、執刀医が突然やってきて、「手術は成功しているからね!腸をきれいにならべかえておいたからね!牛乳と炭酸飲料以外なら水分okだよ〜。」と言い残して、あっさり消える。腸をならべかえておいたからね、って、それが今の不調の原因なんじゃないんかい?
それから、黄疸がものすごい。目の白い部分がはっきりと黄色くなっている。肝障害か?
(カルテの記載)
WBC 1万台↓↓
イレウスチューブ 0cc
腹部からの排液 ↓↓
大分よくなっている感じあり。
総ビリルビン依然高値 6.5
まだ黄疸あり。
そろそろ水分okか?
2002年12月10日
まだ個室にいた。回診時に「昨日、執刀医から、水分okだよ、と言われましたよ」と言ったら、病棟医にはそれが伝わってはいなかったらしく、「ちょつと確認してみますね」と言われた。この日は、胃管を抜いてもらえた。心電図のセンサーもはずしてくれた。回診が終わって、午後になってから再び病棟胃がやってきて、「水分okにしますね」と言ってくれた。おなかに刺さっているイレウス管のバルーンを1つ、縮めてくれた。
さっそく水分をとってみようにもさすがに怖かったので、まずは看護士さんが氷をもってきてくれた。それをなめても体の調子はまったく問題なかった。そうなると欲が出てきて、内科入院から絶飲食だったこともあって、「甘いものがのみたい」という欲望が強烈にでてきて、リンゴジュースを飲み始めた。
黄疸はあいかわらず。
(カルテの記載)
熱なし。
イレウス管、バルーン縮める。
傷;クリア
状態:良好
昨日、一歩きすることができた。壊疽性膿皮症も改善傾向にあると思われる。
(薬剤)
FOYやらグロブリンやらアルブミンなど、超強力な点滴多数。
2002年12月11日
この日、個室から、大部屋に戻った。また、モルヒネも中止になり、目線の定まらない感覚はやや弱くなってきた。ただ、時間がたつにつれて痛みが増すようになり、常に痛み止めを点滴してもらっていた。
モルヒネの影響で精神障害がでることをおそれていた家族にしてみれば、特にに変な副作用も起こすとなく大部屋に移れたことでホッとしたようだ。
相変わらず、高カロリー輸液の点滴続いていたので、唇の一部が炎症を起こしてしまい、これがけっこう不快だった。回診のとき、「もうそろそろ食事でもしてみましょう」と言われて、とっても嬉しかった。
このころになると、回復への強い欲望の反動なのか、社会復帰できずにいる自分が情けないのか、いろいろ複雑な感情が心の中にあって、何故か涙もろくなっていた。元気づけられるような言葉をかけられると、とたんに涙が止まらない状態だった。肉体的にも精神的にもこの時期、実はかなり苦しかった。
(カルテの記載)
熱なし
表情かなりいい。
バイタルサイン 良好
イレウス管150ml
左腎から860ml
ネラトンから 740ml
カタボンoffとする。
2002年12月12日
体調は少しづつ良く成りつつあるような実感あり。相変わらず歩くのもつらいし、そもそも、腹筋がないのでベッドから起きあがるのも腕力を使ってかなり苦労する。
そして、やっと朝の回診の時に、「食事スタートしましょう」と言ってもらえた。
やっと、やっと、口から食べ物を入れて栄養をとることができる時がきたか、と思うと、うれしかった。
食事といっても、流動食なので、重湯とすまし汁だけのものだが、11/8に内科に入院になって以来、絶飲食が続いた身にとって、こんなにおいしく感じるものはなかった。普段なら、意識せずにさっと食べてしまうものだろうが、看護士さんの「よく噛んで30分くらいかけて召し上がってくださいね」と言われたのをきちんと守って、30分かけて食べた。
(カルテの記録)
general condition : 改善傾向
黄疸多少あるが、だいぶ薄くなっている。
正中線の傷、一部化膿。
レントゲン上、左下葉の無気肺あり。喀痰の排出ほどこす。
今日から食事スタート。2日あがり。
2002年12月13日
食事(流動食)も問題なくとることができて、うれしい。イレウスにならないようにかなり気を遣った。
回診時の医師団の様子も嬉しそうだ。
(カルテの記録)
(腹部の絵が描いてあり)正中線からの膿+
強酸性水にて洗浄する。
ストーマからの排液、良好。
2002年12月14日
この日と、次の日、朝の回診時に、クビのCVから何やらわからないが注射される。この日の昼から食事が三部粥とおかず付きになった。久々に口を使って食べているという実感が、とっても嬉しかった。食事を始めてからは不思議と、唇にできたはれ物が次第になおっていった。やはり食べ物からの栄養摂取は大事。
声は相変わらずかすれまくり。
(カルテの記載)
Hr655
左腎後壁からのドレーン280ccと減少。
12/16 DIPにて腎ろう、尿管ろうの有無をチェックする。
2002年12月15日
食事は三部粥。でも、おいしい。ただ、起きあがって食べることができないので、ベッドのリクライニングを自分で傾けて、食べやすい姿勢を確保しながら食べていた。その姿を見て、看護婦さんたちも「この回復力、すごい!」ってみんな、よろこんでくれた。一躍、病棟内で有名人に。
食べるのが問題なくなるにつれて、ストーマからも便がでてくるようになる。初期トラブルの定番で、結構、もれてしまうこともあったりして、看護婦さんの手をわずらわせることになる。この時点では、まだ傷が痛くて自分で装具を張り替えたりすることなどとてもできなかった。
また、いつになったら退院できるのか、社会復帰できるのか、少し焦りを感じ始めたのもこの時期。見舞いの家族の何気ない言葉に感動して、やたら涙もろくなる。
この日は、尿管からのもれの疑いを調べるために、DIP検査(造影剤を注射してレントゲンで検査する)で尿管をしらべた。この日から、レントゲン室の看護婦さんたちとのおつきあいも頻回となる。
検査の結果、やはり左の尿管が損傷していて、そこから尿がもれていた。
12/5の緊急手術は、まさにこの、もれた尿などが原因で後腹膜に膿の袋ができてしまい、また、腹膜内もよごれまくったために、実施を余儀なくされたものだ。この結果を知って、11/25の手術そのものが、そもそも手術ミスだったのではないかと、病院の治療の仕方に疑いをもつようになる。
尿管損傷についての治療方法について、回診時に説明があり、またまたたいへんなことになったものだと実感。
(カルテの記載)
DIPで尿管よりリークあり。
KW医師(=執刀医)と相談後、泌尿器科医師へコンサルトし、明日、ダブルJチューブ又は腎ろうを施行することとなった。本人へはその旨伝えた。
処置の承諾書についてはまだです。
2002年12月16日
この日、泌尿器科で尿管損傷を修復するために、膀胱と腎臓の間にチューブを通す処置を行った。
まだ尿管が挿入されたままで、いったいどうやってそんな管を通すのか不思議に思ったので、医師に聞いてみたところ、一旦、尿くだをはずしてから、膀胱鏡を膀胱内に挿入し、膀胱鏡の中の管を通して膀胱と腎臓との間にチューブ(ダブルJチューブ)を通すのだという。言葉にすれば簡単そうだが、場所が場所だけに、「あんなところに内視鏡をつっこむんて、きっと痛いだろうなぁ。。。」と、ものすごい不安になった。病棟医は回診時に、「大丈夫大丈夫痛くないから」と言っていたが。。。
実際にその処置は午後から行われた。これがまたとても恥ずかしい体位を要求されながら(しかも看護師さんにまじまじ見られながら)、まずは尿管をはずすと、次は局部先端にゼリー状の麻酔の入った針のない注射を挿入され、麻酔をグーッと押し込まれる。15分ほどそのままの姿勢で麻酔が回るのをまってから、膀胱鏡の挿入となった。たしかに痛くはないが、やはり言葉にならならい変な感覚を感じ、若干の痛みを感じつつ膀胱鏡が膀胱に挿入される。その後ダブルJチューブ挿入となる。ところが、このチューブが、尿管の途中までは入るものの、なかなか腎臓まで到達しない。この作業を繰り返されているときがまた苦痛でとっても痛い。ひたすら「早く終われ」!!と心で叫びながら、30分やってもダメだったため、とうとうチューブ挿入をあきらめる。そのままもう何もしないでほしいと思ったら、尿管を再び挿入され、ショックだった。
とにかく、泌尿器科の処置は痛い!!
(カルテの記載)
本日、泌尿器科へコンサルト。
午前 熱37度
ドレインからは血性排液
食事接種は3/4くらい。
本日、ダブルJチューブ通らず、後日再度トライ、または腎ろうとのこと。
2002年12月17日
このころになると、だいぶからだの調子も回復の兆しが見えてきて、「がんばんなくっちゃ」と自分を励ますようになる。そして、やはり欲が出てくるのか、「このまま病院に縛り付けられちゃうんだろうか?いつになったら退院できるんだろう」と考え始めるようになったのもこの時期。
それから、このころに同室に英国人の若者が入院(耳鼻科関係の病気)してきた。当然ながら、あまり日本語が達者ではなくて、医療スタッフたちも意思疎通に苦労していた。
この時すごく嬉しかったのが、いつも「ちょっと怖いなぁ〜」と感じていた看護師さんが私に「英語できる?」って、いの一番にヘルプを求めにやってきてくれたこと。「こんな状態の私なのに、私の力を頼りにしてくれているんだぁ。結構よく見てくれていたんだぁ」って、とっても嬉しかった。これがものすごく大きな励みになって、ますます「頑張って早くよくならなきゃ」って努力するようになった。
この外国人さんとも仲良くなったし、これ以降、その看護師さんともすっかりうち解けて一番信頼できる看護師さんに。
(カルテの記載)
hematuria→昨日の膀胱鏡の影響。
ストーマからの排出↑↑ 12/19採血チェック
MT to Pt’s Parents(=患者の家族へ説明)
2回目のOpe以降、状態はおちついている。術後数日目より左腎後面のドレーンより、Hr漏出してきており、画像検査により尿管の一部が損傷しているためと考えられ、この対応としては、
1.Double J tube
2.腎ろう
を考えているが、ウロで調整中である。今後の見通しとしては、これを施行した後の経過を見ないと何とも言えないが、約一ヶ月はまだかかると思われます。
→わかりました。よろしくお願いします。
2002年12月18日
この日、尿管修復の治療として、腎ろう造設術を実施した。
この手術が痛いのなんの。もちろん、局所麻酔をしているとはいえ、手術時間は45分程度といえ、麻酔が効いているのは皮膚に近い部分だけで、針がどんどん腎臓へ向けて体内に刺さっていく(しかも、刺したり抜いたりを複数回行う)のはさすがに痛い。脇腹を指でつっかれて思わずからだをよじる経験は誰でもあると思うけど、あんなもんじゃない。とにかく痛い。
オペを見守っていた泌尿器科主治医の気のない「がんばれぇ〜」っていう声が、とっても恨めしかった。
(カルテの記載)
hematuria(=血尿) 続いている → ウロ再受診へ
右ドレーンのネラトン 入れかえ 暗赤色のdischarge
左腎後方ドレーン510ml
Hr 570ml → 尿管ろうは、ウロconsult中
その他、oral intake も glatt
ドレーンの入れ替え dischargeはBacへ排出
2002年12月19日
尿管をはずしてもらいたい気分になってきた。
泌尿器科の主治医に尋ねたら、「自分でトイレ行けるならいいよ−。外科のドクターにも言っておくよ」と。
なかなか恰幅のいい、気さくな医師だが、タバコの吸い過ぎなのか、口臭が気になる。
ついでに言えば、12/16の処置で泌尿器科診察室の外で待機していると、(医療ミスに対する認識についてとおもわれる)「訴えられても個人名でないから大丈夫」などと、診察室内でドクター内輪で話していたのが筒抜けで聞こえたことがある。だから、J恵青戸のような事件が起きるのだ(あれも泌尿器科)。
(カルテの記載)
fever −
ドレーン 430ml
腎ろう 480ml
Ba 800ml
尿培 balloonより
ネラトンから 乳赤色 washす。昨日ほど臭わない。
ネラトンは2本挿入し、生食にて洗浄行う。
※ ここまでは、外科医の記載
泌尿器科 左腎ろう造設術(局所麻酔下)オペroomにて
ラシックス20mgで静注で、水腎を形成
7Frドレナージキット PTCDチューブを左腎に挿入した
挿入はイメージで確認ok
尿出 確認
2002年12月20日
(カルテの記載)
ドレーン 400→50mlへ減少(腎ろうによるeffect)
Ba(=尿くだ)抜去へ。
ネラトンから赤褐色discharge
抜鉤する。
feverもなく、generalにはimproved
2002年12月22日
いい方向に回復してきたせいか、カルテの記載が簡素なものになっていく。12月21日の記載はなし。
このころになると病棟1周(約90m)を50周程度は、こなす毎日。医師からも、看護師からも、病棟の患者からもほめられる。みんなが応援してくれて、うれしい。
(カルテの記載)
ドレーン 60ml
バルーン 400ml
じんろう 1550ml
要 follow
2002年12月24日
カルテの記載はどんどん簡単なものになっていった。
この日はもちろんクリスマスイブで、看護学生のキャンドルサービスがあった。歌あり、カード配布ありで感動した。夕食はクリスマスメニューとして、ローストチキンやショートケーキがでてきた。こんなん食べて大丈夫か?
(カルテの記載)
ドレーン 洗浄する。
fever flat
じんろう 980ml
尿 760ml
oral intake = good
2002年12月25日
(カルテの記載)
左腎ドレーン 0ml
Hr 645ml
左じんろう 460ml
2002月12月26日
カルテの記載なし。
2002年12月27日
(カルテの記載)
afebrile(=発熱なし)
oral intake , good
bowel movement from stoma , good
腸ろうから 灰緑のdischarge
左腎ドレーン 比較的きれい cavity小さくなっている(7mlくらい)
2002年12月29日
カルテの記載も、退院方向への検討を伺わせる記述となっている。
回診は12月30日までは本格的なものがあったが、カルテの記載は29日まで。
(カルテの記載)
(サマリー)
UC術後、吻合不全、出血、膿瘍でre-opeした方。re-ope後、ドレーンより尿を認め、尿管損傷とdiag(=診断)し、腎ろうを入れ、閉鎖を待っている方。右側腹部より挿入されているドレーンは、性状、量、見ながら浅くしていってokと思われます。腎ろうもバルーン付きへ入れ替え、その後は、外来followとなる見通し。
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