JF1MVF プロフィール

電波との出会い

 小学校4年生の時、学校の教材だったか、当時の「子供の科学」という雑誌の付録であったかの記憶は定かではありませんが、 「鉱石ラジオ」キットがあり、初めてラジオを組み立て、クリスタルイヤホンからAMラジオを聞いたのがそもそもの発端であったように記憶しています。 既にテレビ放送も白黒でしたが一般化しており特に電波そのものが、目新しい時代ではありませんでしたが、電池もないのにイヤホンから聞こえてくる鉱石ラジオからのAM放送には子供ながら新鮮さを感じ、見えない電波に興味を抱いたものでした。 それ以来、「ラジオの制作」という雑誌を講読したり、「マイキット」という電線で部品同士をつなぎ、ラジオやワイヤレスマイクなどが作れるという、玩具を買ってもらい実験?したものでした。

鉱石ラジオ・ゲルマニュームラジオとも・・・  色々と遊んで覚えた「マイキット」
                      (この写真は当時のものではなく、イメージです)

BCLにチャレンジ

小学校・中学校時代は、今の子供たちのように「塾通い」「習い事」など全く関係なく、自由時間がたくさんあったものです。 そんな中、自宅にあった「短波ラジオ」が興味の対象となり、屋外に針金を張りアンテナとしてBCLをしていました。特に、ベリカードを集める訳ではありませんでしたが、国内だけでなく海外放送を聞き、夏と冬、昼と夜では電波の聞こえ方が違うことを体験的に知ることができものでした。
この当時は、家にある色々なものを分解しては壊してしまうという、困りものの子供でしたが、このサイトをご覧になって頂いている方々にも少なからず同じような経験があったのではないかと思います。

そしてSWL

 当時のアマチュアバンドの変調方式は、AM変調が主流であったため、「短波ラジオ」でもアマチュア無線を聞くことができ、これがアマチュア無線との出会いでした。  
中学に入ると、アマチュア無線を開局している先生や、先輩と出会うことができ、実際にクラブ活動(ラジオ部)としてアマチュア無線の運用を 目にすることができ、自分でも資格を取ってみたいと思うようになっきていました。学校の3階の屋上給水塔から張った3.5MHzのダイポールアンテナに、受信機は先生が持ってきていた軍払い下げのような、筐体が真っ黒な重量級のもので、送信機は、水晶発信の自作機であったと記憶しています。また、大叔父(祖父の弟)が二文字コールのアマチュア局(ex JA1RX/J2XA)を水戸で開設しており、お盆とか年何回か来る大叔父の話を聞き、アマチュア無線への憧れが広がっていったものでした。

アマチュア無線技師に

 当時、現在の「4級免許」は「電話級免許」でしたが、はじめての国家試験受験で、すべて記述式の回答をする形式というものでしたので、後に2アマ・1アマを受験するときより、はるかに大変であった思い出があります。
当時の試験は平日に行われており、さすがに、片田舎の中学生が学校を休んで受験する勇気もなく、資格取得できたのは、高校に 入ってからでした。生まれて初めて「仮病」を使って学校をずる休みし、東京の蒲田電子工学院まで受験に行ったのでした。合格して学生服姿の写真が貼られたオレンジ色の2つ折の無線従事者免許証が届いた時は、相当に嬉しかったと記憶しています。 この頃には、小遣いで無線機を買うような身分では無かったので、高校のクラブ局(ex JA1ZRF)にあった、9R59とTX88Aと 言うトリオ(現在のKenwood)HF機と、パナスカイマーク6(その後スカイエリート6)という50MHz機を使って、放課後にAMによる運用をしていました。当時は、高校のアマチュア無線クラブも花盛りで、近隣の高校をはじめ夕方になると、各クラブ局からのオンエアがあり、 情報交換ができたものでした。
 なつかしの9R59  懐かしのTX-88A  使っていたのは、「パナ6」でした
                           (この写真は当時のものではなく、イメージです)

 また、文化祭ではローカルOMより借用した、FT−101を公開運用で初めてサイドバンド(SSB)での運用をし、AM機ではモガモガ聞こえていた変調をきれいに復調できたことや、FT−101のAM機とは比較にならない部品が詰まった内部を覗いては感激を覚えたものでした。 やっと小遣いで購入できたのは、当時のハンディ機「TR−2200」という、144MHz1Wハンディ機を手にしたのが最初の自己所有機でした。これに、真空管(6360か、2E26)の10Wブースターを自作し、木製ハシゴに工事パイプをマストにして8エレシングル八木で運用を開始し始めました。
そうこうしているうちに、ローカルのOM各局の地域クラブに参加したり、TR−2200を愛車に積み、自転車モービルをしたりと 楽しんでいました。当時は、センベイの空きブリキ缶をシャーシにして、壊れたテレビから外した部品を使い、CQ誌に掲載されていた回路図を見ながら、5球スーパーをはじめ、色々なものを自作していました。当然回路設計などの知識があった訳でなく、見よう見まねで作っているだけでしたが、 知らずとも、「好きは上手の〜」というように、色々と覚えたのもこの当時でした。

その後から現在へ

 高校も3年になると、流石に受験プレッシャーもあり、QRT状態に。その後進学して上京すると無線をすることもままならなく なってきましたが、細々とは続けていました。大学のある時、6畳1間の木造アパートの屋根に430MHzのアンテナを上げ、大家から「屋根までは貸してはいない」と怒られと、なかなか満足はできない状況が続き、徐々に無線の世界から遠ざかっていったのもこの時期からです。就職してからは、毎日が午前様、月に1回しか休日なしのような生活で、基本給より残業代が多いという今思えば、とんでもない生活そして結婚と、無線をじっくりやれる環境はさらになくなってしまい、ほぼQRT状態になって行きました。
大学時代のゼミ担当教授は偶然ですが、OMアマチュア無線家(ex JP1BJR/J2JJ)であり、何度か自宅に訪問させて頂いた際は、復活組としてDX中心にオンエアされている様子を拝見したものでした。そんなご縁から私の結婚式の仲人をお願いしたのですが、結婚式の当日親族として来ていた前途の大叔父(ex JA1RX/J2XA)とは、旧知の無線仲間でずっと交流のある同士の偶然の再開?を演出したものとなりました。戦前からアマチュア無線で活躍されていた方のつながりには驚いた次第です。残念ながらお二人とも現在はサイレントキーとなられており、現在ご指導を頂くことはできなくなってしまいました。

リモートシャック構想に

 実家の母親がインターネットを始めたいとのことで、パソコンとインターネット設備を設定してきました、当然初心者のことあるごとに質問やら、デジカメのドライバーをインストールしたいとか、電話で対応するのも限界を感じていたとき、WindowsXPの機能にリモートデスクトップ機能(別項で説明)が提供され、インターネットで双方が接続されていれば、接続先のパソコン画面を接続元のパソコン画面に表示できるという、便利そうな機能が使えることを知りました。
このソフトなかなかの優れもので、FEPの機能をはじめ全て接続先のパソコン機能のそのものが使え、緊急対応には、この上なく便利でした。
ある時、パソコンでリグを操作できれば、実家にアンテナを立てて無線ができるかも?という思いがはじまりでした。最初は、既にサビだらけになっていた、TS−811(430MHzオールモード機)にGPを実家に設置し、パソコンからの操作も、ハンドマイクで操作できる、 周波数のUP/DOWNと、PTTだけで、USBカメラでリグを監視するといった簡単なものでの実験でしたが、なんとか実用できそうあると感触を得たのでした。
折しも、無線仲間の飲み会に誘われ情報交換をしたり、トップガンとしてバリバリやっている友人のシャックを目にしたりと、本格的に実家のシャックを作り、リモートで運用する作戦が始動したのでした。実現には、多少ソフトウェアの知識があった程度でしたので、ネットワークやパソコンと 制御機器との接続やらとそう簡単には進めませんでしたが、約3年掛けてここまでに至っています。