2005年7月9日…7月17日…7月24日

都心の古墳

東京の大型前方後円墳

東京の古墳分布図 東京にも古墳がある。その事だけで、知らない人にはインパクトがあるが、100m級の前方後円墳が少なくとも3基あったとなると、どうだろうか。一般的な見方に従えば、これらの前方後円墳は中央政権の権威とつながりを持った開発時代初期の有力首長の墳墓ということになる。ここで都内の前方後円墳ベスト5をあげてみる(注1)。なお全長は推定復元長、西暦は参考年代である(注2)。

  1. 全長112m,芝丸山古墳(Shiba-Maruyama,港区),前期・4世紀後半
  2. 全長107m,亀甲山古墳(Kamenokoyama,大田区),前期・4世紀後半
  3. 全長97.5m,宝来山古墳(Horaisan,大田区),前期・4世紀中葉
  4. 現存長70m,摺鉢山古墳(Suribachiyama,台東区),前期?
  5. 全長 60m,浅間神社古墳(Sengen-Jinja,大田区),5世紀末〜6世紀初頭

山手線内側を都心と仮定してみると、1位の芝丸山古墳(港区芝公園)と、4位の摺鉢山古墳(台東区上野公園)が該当する。どちらも都立公園の中にあるのは偶然だろうか(注3)。

宝来山(宝莱山、あるいは蓬莱塚)古墳は調査されているが、他は殆ど発掘調査されていないゆえ(墳丘表面の測量は実施されている)、情報は非常に限られている。特に都心部では江戸開府以来の開発で古墳が消滅した場合もあるはずだが、小型円墳はともかく、芝丸山古墳が徳川家霊廟を造成する過程で、意外と消滅を免れたケースを考えると、大型古墳の上位リストには案外漏れがないのかもしれない(もちろん保証のある話ではない)。

亀甲山古墳、宝来山古墳、浅間神社古墳は、多摩川下流部に面した荏原台古墳群(ないし多摩川台古墳群)に属する。遺存状態も比較的良好で、多摩川台公園には古墳展示室 [Mapion地図] も整備されているから羨ましい。

武蔵国といえば、北武蔵にあたる埼玉県行田市「さきたま古墳群」(5世紀末〜6世紀中葉)が最も顕著だが、ここの全長ベスト5は、138m、120m、109m、105m、79mだから、意外に勝負になる。ただ、さきたま古墳群は新しすぎる。地理的かつ時期的に比較すべき古墳は、大宮台地域南端の高稲荷古墳(75m、4世紀後半、川口市 [Mapion地図])、多摩川南岸の加瀬白山古墳(87m、4世紀後半、川崎市幸区 [Mapion地図])、観音松古墳(86m、4世紀末〜5世紀初、横浜市港北区 [Mapion地図])といったところである(以上の3古墳はいずれも近代の開発で消滅して跡形もない)。相模から南武蔵の領域で最大の古墳は、やはり芝丸山だし、意外と残りがよい。この事はもっと注目されてよい。

芝丸山古墳

明治17年8月 東京府武蔵国芝区芝公園地近傍
明治17年の地形図
[Mapion地図]

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港区の遺跡台帳では丸山古墳(歴史的には円山と表記した例もある)。昭和54年3月31日に都史跡「芝丸山古墳」と登録された(芝は区別するために付けたのだし、丸山古墳も正式名称とみて構わない)。住所は芝公園一号地になる。明治30年末から31年にかけて坪井正五郎が墳頂部を発掘調査したが、古墳に伴う遺構は確認できず、遺物も埴輪片や須恵器が僅かに採集されているようだが、周囲の小型円墳に由来する可能性もあるし、事実上不詳に等しい(周囲の小型円墳群については円筒埴輪、人物埴輪、管玉や須恵器など、意外に豊富な資料があるのだが)。旧状が幾分かは損なわれているかもしれないが、「崩れた」(鳥居 1927)と言える程の地形改変があったかどうかは確認された話ではない(プリンスホテル・パークタワーの敷地側は別にして)。少なくとも後円部頂は江戸時代に削られ、広場になっていたと考えられる。坪井の調査時には茶店が存在していた。

年代を考える上で参考になる情報はこれくらいしかない。

  1. 立地:自然の丘陵・台地の先端部を利用して築かれた。
  2. 墳形:前方部が広がらず、高さも低い。言い換えると、未発達の前方部。
  3. 孤立:近隣域に限ってみれば、突然登場した大型古墳であり、殆ど続く例がない(後期の小型円墳が周囲に分布する傾向があり、見掛け上の古墳群を構成する)。

こうした特徴から、丸山古墳は古式を呈する前期古墳と理解される。低地を臨む台地先端部に点在する、開発首長の墳墓だろう(注4)。後背地にあたる領域と、古墳の立地を端的に関連づけるのは控えたいが、低地側から見ればランドマークとして目立ったのは事実だろう(注5)。

墳丘現状実測図(1980年代?)

全長は112mとしたが、これは墳形の測量調査を行った大塚初重・梅沢重昭(1965)で仮定された墳丘規格の類型にあてはめた推定復元長である(実際には110m内外であったろうと推定されている)。測量による墳丘主軸長は125mである(東京都遺跡台帳にはこの数値が記載されている)。現場に建てられている標識では「106m前後」となっている。左図は『都心部の遺跡』に転載された東京都教育委員会による実測図(図は概ね上北にした)。緑で重ねたのは墳丘の推定範囲だが、「東京都遺跡地図」のマークは東にずれているから、注意を要する(注6)。

現場の標識では5世紀代とあるが、それでは年代推定範囲としても新しすぎる気がする。少なくとも野毛大塚古墳より古い段階だろう。宝来山古墳や加瀬白山古墳に近い様相を呈しているともされるが(注7)、ここでは4世紀後半と捉えておきたい(注8)。


後円部を南西から臨む 前方部を西から臨む 前方部を東から臨む
左から、(1) 後円部を南西(パークタワー入口)から望む、(2) 前方部を西から望む、(3) 前方部を東から望む(2005.6)。


摺鉢山古墳

明治17年8月 東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍
明治17年の地形図
[Mapion地図]

上野公園内にも小型円墳が多く存在しており、発掘調査された例もあるが、現在は前方後円墳と推定される摺鉢山古墳が残るのみである。墳頂には、明暦(元禄?)に移転するまで五條天神や清水観音堂が存在していたし、墳頂部の削平を含め、墳丘の旧状は江戸時代に既に大きく損なわれていたと思われる。年代を論ずべき遺物資料は確認されていない。円筒埴輪片の採集報告が断片的にあるにはあるが、摺鉢山古墳に真に伴うものかどうか確認できない。他の円墳群には遺物出土資料があるが、それらは後期6世紀代であり、摺鉢山古墳の時期を考える参考にはならない。形状や立地などの状況証拠から見て、芝丸山古墳とそうかけ離れることのない時期−例えば4世紀後半から5世紀前半までの範囲に収まる−かもしれないが、確証はない。

摺鉢山古墳は都心にあって、古くから在京考古学関係者の間で存在を知られていたが、明治33年『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』に「東京市下谷区上野公園内摺鉢山古墳?」と記載されたのが最初の学問的認知かもしれない。大正5年7月19日に都内の古墳を巡回した鳥居龍蔵(注9)は「非常に巨大なる古墳であるが、大分形は壊されている。あるいは瓢箪形の古墳が壊されたものではあるまいかと思はれる。(中略)埴輪の破片を出す古墳を中心として、此所に古墳の多く存在して居ったことが知られる。しかも埴輪の存在して居る具合から見ると、芝の公園にある古墳と時代が同じように思はれる」(鳥居 1927)と記した。しかし埴輪片や「祝部土器片」(須恵器)については「丸塚」(小型円墳)の附近でかつて「拾ったことがある」程度の曖昧な記述にとどまっている。

墳丘現状実測図(1984)

正式な測量調査は、東京都教育委員会が行った「都心部遺跡分布調査」の一環として昭和59年に初めて実施された(図は概ね上北にした)。現存長70mは麓の近世以降の整形(石垣等)で画されたものであり、規格上はもう少し大きいだろう。全体に大きく削られているとも思える形状であるが、参考になるような類例を探せないわけでもないから、速断は避けたい。



前方部を東から臨む 前方部を東から臨む 前方部を東から臨む
左から、(1) 南の上り口、(2) 墳頂部から麓を望む、(3) 墳頂部(2005.6)


文献


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