2005年7月18日…7月27日

未確認古墳

古墳参考地と未確認古墳

 明治以来、在京の考古学者は身近の東京市内の遺跡所在に関心を持ち、折にふれ踏査し、記録にとどめてきた。中でも都心の古墳に関してまとまった情報としては、明治33年(1900)八木奨三郎・蒔田鑓次郎編『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』(以下、地名表)、及び昭和2年(1927)鳥居龍造のエッセイ『上代の東京と其周囲』(以下、上代の東京)が挙げられる。これに続くマイルストーンは、昭和60年(1985)東京都教育委員会による『都心部の遺跡ー貝塚・古墳・江戸ー東京都心部遺跡分布調査報告』(以下、都心部の遺跡)になる。

 地名表や上代の東京で都心部の古墳として言及されたものには、塚状の地形という以上の確たる根拠がない例も多いが、中には埴輪片や須恵器片、時には石室と思われる石材の出土が報告されている例もあり、あるいは後に古墳でない事が確認された例もあり、情報ソースとしては玉石混交に近い。(古墳であるなしが確認された例を除いて)総体的に見れば、いわば古墳候補であり、「古墳参考地」のリストなのだ。未確認であるからといって、軽視できる情報ではないし、塚や遺物が知られているのであれば、何らかの遺跡である事に変わりは無い。

 明治、あるいは江戸時代以来注目されながら、長らく正体未確定であった上野の摺鉢山は遺物不詳のまま、1984年の墳丘測量調査で前方後円墳認識された。本来なら、裾部に何本かのトレンチを入れればよいのだが、そうした機会は未だ無い。だが、少なくともトレンチを入れるだけの価値があるのは間違いない。そうした古墳は他にもある。つまり状況証拠や記録に残る遺物出土から、古墳の蓋然性が極めて高いが、まだ考古学的な文脈で確認されたとは言えない古墳である。墳丘の残りがよければ墳丘の実測を以って代える事ができるが、墳丘が大きく損壊ないし喪失していた場合は、そうもいかない。事実上古墳と見なすべき存在だが、確定診断が未だなされていない場合、これを「未確認古墳」と定義してみたい。有体に申せば、後一歩のやつだ。

 こう述べてしまうと、市区町村の「遺跡台帳」に記載された「古墳」(?が付くとは限らない)で確定診断未了のものをどう捉えるのか問われそうだが、これは「周知の遺跡」の問題であり、行政上の問題だから、ここでは答えようがない。例えば港区遺跡番号57「亀塚」(港区三田4)は、遺物報告や墳丘測量もトレンチ調査も行われているが、ついに「古墳」としての確定診断が出来なかったから、難儀な話である(昭和58年に都史跡「亀塚」登録)。

 古墳参考地や未確認古墳は、いわば学問上のステータスだ。以下、筆者が「未確認古墳」ないし「古墳参考地」と考える地点を順次紹介してみたい。

未確認古墳
古墳参考地

HOME > 東京遺跡情報2000都心の古墳