2005年7月27日

赤坂氷川神社古墳(仮称)

 明治33年の『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』で、都心部における33ヶ所(横穴墓除く)の内、遺物まで記載されているのは7ヶ所に過ぎない。著名なものは、現在いうところの「野毛大塚古墳」「芝丸山古墳(群)」だが、これに準ずる遺物内容を備えているのは、東京市赤坂区「氷川神社境内」だ。

 野中完一(1895)の報告は短い「雑報」なので、下記に全文を引用する(漢字は現用字体に、カナは平仮名に、濁音は濁音表記に、また句読点が無いので分かち書きにした)。

○東京赤坂氷川神社境内に存する古遺物
余は昨年来 東京赤坂区赤坂氷川神社境内社殿裏手にて 管玉朝鮮土器破片等を採集せり 余未だ氷川神社境内古遺物発見の事貴誌上に見ざれば 幸当時少しく閑を得たるを以て右探索の結果を報道せんとす 然れ共浅学愚考なる 識者の笑い免かるること能はざるなり
余昨年六月 古物採集の目的を以て芝丸山古墳の埴輪破片を拾い 足を品川に向け 海安寺近傍を一見し 帰路赤坂氷川神社に立寄り 何か古物にても有らんかとて境内を探索せしに 余の想像は空しからず 社殿裏手にて管玉(玉造石の如し 長さ九分)及朝鮮土器破片数枚を拾ふ 以来此地に来る毎に注意し 前後数回の探索に従事せり 然れ共管玉一個を発見せし以後は行度ことに朝鮮土器の小片を得るのみなりき 又同地安藤某なるもの数年前社殿改造の節土台下より刀の朽ちたるもの長さ一尺一二寸一本を掘出せし事有りと 蓋し此の如き類余の記憶に存する二三を記さんか
安永年中熱田の宮白鳥の神社境内 寛政年中常陸国茨城郡大洗磯崎の神社境内等より掘出したる珠玉の類 当時は皆厳命を以て元地に埋めたりと云ふ 明治七年遠州周智郡山梨郷烏の谷萱野姫神社(延喜式内)跡より掘り出したる古物の類は先年現に帝国博物館に存せり 此等を以て見るも氷川境内にて得たる古物は地鎮祭等のものならんと考ふる読者もあらん 然れ共余は右の古物必ず地鎮祭などのものにあらずして先年下野宇都宮神社の後より掘出したる古物の類ならんと考ふ 其據を記せんに
 一、氷川神社は元赤坂一つ木町に鎮座し有りしを今の所に転座せるものなりと(転座の年月は亡失す 再訪の時を得ば後に報ずべし)
 二、同社裏西北の方地下より数年前三尺大より一尺内外の丸石夥多掘出したる事ありと
 三、地形上より考ふるも同地に古墳の存せしを怪まざるなり
右記するところ不十分の取調たるを免かれざるも 以上の事実を以て余は昔時当地に古墳の存せしも破壊撹乱されたる結果ならんと考ふるなり 然れ共余輩の如き少年素より考古の道に乏しく故に断言すること能はず 願わくは識者諸君の御教示を賜はらんことを望む

 野中氏が報告した遺物(図示されているわけではない)は下記の通りである。

明治16年10月 東京府武蔵國麻布區市兵衛町近傍
明治16年の地図

 また『赤坂区史』(1941)によれば、同神社の柴崎社司の談として、明治11年(1878)頃、「前方土塀の西角、額堂の辺」で、大杉の根株を除くために掘り下げたところ、地下約1.2〜1.5mで「古剣」が発見された。また鍬先は大きな「石板」にも当たり、慌てて埋め戻したという。額堂(絵馬堂)は現存している(赤坂氷川神社公式サイト内の配置図)。「石板」は「蓋石」「天井石」の可能性がある。

 個々の遺物には別の解釈も可能だが、これだけ纏まった遺物報告は尋常ではない。遺物から素直に読めば、後期の横穴式石室を持つ古墳の埋没が想定できる。

 立地は南西から北東に伸びる台地上だが、境内は北と東が急崖に囲まれ、南東に向かっては微かに下がり、境内は周囲からやや高まった区域の印象になっている。神社(現在地に造営されたのは1729年)が座している点を含め、立地として十分な条件を備えているといえるだろう。残念ながら資料は上記が全てであり、古色を漂わせる境内は、普段は静謐が保たれている。

 現在同社殿付近は、港区の遺跡番号8に古墳(無名)として登録されている(東京都遺跡台帳 港区遺跡一覧)。

[Mapion地図] 港区赤坂6-10-12



HOME > 東京遺跡情報2000都心の古墳未確認古墳