2005年8月4日

日枝神社(古墳参考地)

 大正5年(1916)7月19日、鳥居龍造一行は東京市内の古墳巡検を行い、赤坂の日枝神社(ひえじんじゃ)も訪れている。以下はその一節である。

赤坂の日枝神社の境内に到着した。此処にも原史時代の古墳がある。この古墳も瓢形をして居るが、多分昔の前方後円の崩れたものであろうと思う。此処の古墳は周囲百五十間あって、今はその真ん中にトンネルを穿ち、其処を通ずるようになって居る。これは近ごろのことである。けれどもよくこの形を見れば、立派に瓢形を呈して、崖に臨んで居る。この状態は芝の丸山に於ける前方後円の古墳と同じである。(鳥居 1927「東京市内の古墳調査巡回の記」)

 遺物の情報はない。周囲百五十間=約270mに従えば、長軸がおよそ100mにもなるから、大きさは芝丸山古墳とそう変わらなくなってしまう。そもそも日枝神社は独立丘「星ヶ岡」(溜池の谷からの比高20m)の上に立地しており、台地上の境内の差渡し自体が100m程度しかないから、社殿が真ん中を占めている100mの台地上に同時に長軸100m規模の塚が載っていたら、ちょっと不自然だ(おそらく周囲百五十間は誤記だろう)。

明治16年12月 東京府武蔵國麹町區紀尾井町及赤坂區田町近傍
明治16年の地図

 明治16年(1883)の『五千分一東京図』を見ると、鳥居の指摘した現地には、直径25m程度、比高5〜6mの円丘が2つ、相接して存在しているようだ。接していたので、瓢形(ひさごがた=瓢箪形)と見えたのだろう。

 2005年現在、同地(境内末社山王稲荷の裏手)には、急崖に面した細長い土堤状の高まりが存在し、真ん中に小さなトンネルがあって裏の集合住宅(星ヶ岡北端を削って設けられた立地のようだ)に通じている。ただ、現状の規模はかなり小さなもので、目測で比高3m弱、長軸はせいぜい20m程度だから、後に相当削られてしまったようだ(集合住宅の敷地が造成された時に北側から削られたように思える)。

 明治16年図に見える2つの小丘は、立地や規模、置かれた状況からすると、確かに古墳であってもおかしくない。ここまで、あからさまな感じの小丘は、『五千分一東京図』の範囲では、他に摺鉢山古墳があるだけだ。うがった見方をすれば、台地の端だったから、神社造営時に取り壊されずに済んだとも解釈できる(他の円墳は破壊されてしまったのかもしれない)。ただ、遺物報告が何もないのが弱い。ちなみに(日枝神社と改称されるのは維新後だから、江戸時代においては)山王社が当地に来たのは明暦の大火以後で、それまでは(福知山藩主)松平忠房邸だった(日枝神社>ご縁起)。

 千代田区の遺跡台帳には、日枝神社境内の北部と南部に遺跡が2地点マークされているが、近世と縄文であり、古墳との関わりは記載されていない。なお1980年代の東京都による都心部遺跡分布調査では、千代田区は古墳分布調査の対象とならなかった(『都心部の遺跡』)。

[Mapion地図] 千代田区永田町2



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