2005年8月2日

芝観音山古墳(仮称)

 芝東照宮の背後には、東京最大の古墳「丸山」が横たわっている(芝丸山古墳)。芝増上寺本堂の背後にも「観音山」があった。「丸山」からは、約300m北に位置する。明治17年の『五千分一東京図』を見ると、徳川家霊廟のために削られた様子が伺えるものの、明らかに不自然な高まりが読み取れる。

明治17年8月 東京府武蔵國芝區芝公園地近傍
明治17年の地図  増上寺西域の台地は、武蔵野台地の先端部だから、海に近いほど低まっているが、丸山古墳群のあたりで元々の標高は16mくらいである。丸山(古墳)の頂上は多少削られたりといえども24mくらいある(3mは削られているとの見積もりがある)。ちなみに観音山の北方は「地蔵山」(現在の東京プリンスホテル内)だが、ここの標高も16mくらいだから、中間の観音山も同様に自然地形としては標高16m程度だったと見積もっていいだろう。観音山の頂上は28mあるから、18m付近より上は、盛土と見なせる。形状は歪んでいるし、北辺は切り通しで削られているかもしれないが、あえて長軸を想定するなら、100m程度の規模になろう。

 丸山と観音山は、地山も頂上も規模も同程度であり、極めてパラレルな地形なのだ。観音山は、現在は全く削平され、東側は現在の増上寺本堂に一部かかり、地形の雰囲気の殆どは失われている。

 丸山古墳を調査した坪井正五郎は、同地を古墳と見なしていた。鳥居龍造によれば、西向観音堂付近で円筒埴輪が露呈していたという(鳥居 1927)。西向観音(高さ2mの石仏)は元来、観音山の頂上にあった(『新撰東京名所図会』明治30年)。『五千分一東京図』の観音山頂上の卍マークがそれだろう。

丘陵の上に登って行って、西向き観音の頂上に登った。この上にも一つの古墳が残って居る。その古墳は丸塚であって、私はその古墳の周囲に埴輪円筒の立って居るのを発見したから、それを掘り出した。この西向き観音のある所は、一つの高い丘である。この上に登ると、一面に品川湾を見晴らすのであって、非常に眺望のよろしい丘である。(鳥居 1927「東京市内の古墳調査巡回の記」)
推定墳丘

 遺物報告としては、鳥居の言う埴輪が全てであるが、埴輪が立っていたというのは尋常ではないし、比高10m、長軸100m規模の盛土も尋常ではない。増上寺造営時に築山をプランしたと仮定するには、不自然な形状に過ぎる。西向観音は江戸時代以前の民間信仰を反映したものであり、増上寺造営以前から観音山にあったものが、増上寺の寺域に取り込まれる形になったと考えられる。だから観音山そのものも古くからそこにあったと考える方が自然だ。先学の推測通りの古墳、規模からすれば大型前方後円墳の可能性は、十分にある(南方に伸びている部分があるから、円墳とは考えにくい)。後円部の中心は、そのまま観音山の頂上付近に想定できる。清水(1967)は「西向観音堂の古墳」として言及している。ここでは、芝丸山古墳の命名原理を踏襲し、芝観音山古墳(仮称)とした。

 現在同地は、港区遺跡番号26番に古墳(無名)として登録されている(東京都遺跡台帳 港区遺跡一覧)。

[Mapion地図] 港区芝公園4


左から(1) 南東部、(2) 東部、(3) 北東部、(4) 北西部。但し旧地形を留めているのは(4)のみ


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