上代の東京と其周囲

鳥居龍蔵 1927
(写真は省略)

四 東京市内の古墳調査巡回の記

 東京市内に今なお原史時代の古墳が多く存在して居る。然らばこ れらの古墳がいかなる状態に存在して居るかに就いて、ここにこれを 述べて見たい。

 今を距たること十一年以前(大正五年)に、これらの古墳に就いてい ささか仮調査を試みたことがあった。すなわちここに述べんと するものがそれである。私がこれらの古墳を一巡するの動機になっ たのは、同年の六月に芝の山内にある古墳から、埴輪の破片とその 首部二個の現れたことである。それは当時此処を修築する際に偶然 現れたのであって、この報道は、当時の東京市役所公園主任井下清 氏から私に知らせがあって知ったのである。それで私は同年六月廿 日にこの場処に行って、井下氏の案内によって調査をした。この揚 処は芝公園に古墳群をなして居る所であって、その群の一つの古墳 の周囲から掘り出されたのである。思うにこれは元その古墳の周囲 に立って居った所の埴輪土偶である。その調査をおわってから、東 京市内に原史時代の古墳がどれくらい存在して居って、而してその 状態は如何ということを知ろうと思った。幸いにして私の友人桑原 準作君が白木屋に勤められて居って、そういう目的ならば、自分も 共にこの仲間に加わりたいというので、そこで話が纏まって、なお これに加うるに当時東京府に勤務されて居った阿部文学士、それか ら公園課の井下君、それから万朝の山岡超舟氏、東京日々の福良虎 雄氏、報知の近藤氏及び野中完一氏などが白木屋に会合して、白木 屋から自動車を二台出して貰うことになった。

 そこで一行は、午前九時にこの二台の自動車に分乗して、東京の 市内にある原史時代の古墳の巡回調査を始めた。まず最初に行った のは、麻布区六本木日ヶ窪であって、其処に存在する古墳を調査す ることにした。此処は今日第三高等女学校のある処であるが、位置 は崖に臨んだ処で、其処に存在して居るのである。この土地の日ヶ 窪という名前のある所を見ても、此処から芝の方の海岸に掛けて沖 積層の窪地の出来て居ることが 分かる。これは恐らく昔からこ の崖の下あたりまで海であって 鹹水が入って居ったものであろ う。日ヶ窪の名前はこれから来 て居るに違いない。後になって じくじくした沼沢の土地であっ たろう。この崖の下に古池が残 って居る、これは多分古い時の 入り江の残り物であろうと思う。

 此処の古墳は丸塚であって、 ただ一つ存在して居る。今は学 校の運動場の一隅にある。高さは一間半、周囲七間である。その丸 塚の上に巨大なる椎の木が立って居る。この椎の木は、伝説には太 田道灌時代のものと一般に伝えられて居るが、相当に古い時代の木 のように思われる。この古墳は原史時代のものであることは明らか である。元この処は小笠原家屋敷跡で、この古墳は当時築山に使用 されて居るものであった。又小笠原家の物見台ともいわれて居った。 この上に立てば、海岸の方もよく見えたであろうと思われる。

 これが古墳であるということを確かめたのは、ごく近いことで、 それは同年五月、私は東京府の阿部文学士と共に戸川残花君の依頼 によって此処を始めて踏査して、その古墳であることを決定した所 である。この古墳は丸塚として相当に大きな古墳である。内部はど うなって居るか分からないが、とにかく発掘して見れば、面白い結 果を得るかも知れない。由来このあたりは、古墳が一小群をなして 居る所のように思われる。それはこの古墳のある所から、六本木、 霞町に向かう所の道路を隔てて、この古墳とほとんど相対して、前 に寺がある。その境内に小さな築山がある。これも古墳である。全 くこの日ヶ窪の丸塚と相対して居り、互いに関係があるように思わ れる。

 この日ヶ窪の調査を終わって、それから自動車を走らせて芝の公 園に向かった。芝の公園には丸山の塔のある所の瓢箪形の丘陵は、 これは疑いもなく前方後円の崩れた瓢箪形の大古墳である。元この 大きな古墳の側に数個の古墳があり、小さな丸塚があり、なお少し 離れた所にも古墳が存在して居 る。総てで十二、三個以上の古 墳が存在して居るといってよろ しい。これらの古墳はかつて坪 井博士によって発掘せられ、そ の遺品は人類学教室や博物館な どに保存されて居る。なお今日 でもこの処に埴輪の破片などを 拾うことが出来る。まず一行は 大きな瓢箪形の古墳の側にある これらの代表と思われるものを 調査し、更に少しく離れた所の 今回埴輪の出た所の古墳を調べ た。其処に埴輪の破片などをも 拾得した。これらの古墳には東 京市で第一号・第二号と番号を つけて居るが、今回出た埴輪の 首は、第八号の古墳附近から出 たものである。これも丸塚であ る。

 それからなおその丸山といわ れる瓢箪形の古墳の下の処で貝 殻の存在を調査し、それからな お丘陵の上に登って行って、西 向き観音の頂上に登った。この上にも一つの古墳が残って居る。そ の古墳は丸塚であって、私はその古墳の周囲に埴輪円筒の立って居 るのを発見したから、それを掘り出した。この西向き観音のある所 は、一つの高い丘である。この上に登ると、一面に品川湾を見晴ら すのであって、非常に眺望のよろしい丘である。

 この丘の下に増上寺が設けられて居る。この増上寺のある土地と 西向き観音の丘陵となお埴輪の出た所の古墳一小群の所在地とは、 多少離れて居るけれども、その間には昔はなお古墳が点々存在して 居ったものと思われる。これは増上寺を初めて建てた当時に、その 境内になる所の丘陵を崩したため、その丘陵と共に其処に存在して 居った古墳も無くなったのであろうと思う。とにかくこれらを綜合 して見ても、芝の公園の丘陵は、原史時代の古墳群をなして居る所 であって、昔の荒墓と称すべき所である。さて此処に出た埴輪及び その埴輪人形の風俗、それから古墳から出た所の遺物等の上から見 ると、埴輪をその周囲に立てた所の古墳であって、相当古いもので あると見られるのである。

 芝公園で十分に調査をして、それからなお自動車を走らせて赤坂 の日枝神社の境内に到着した。此処にも原史時代の古墳がある。こ の古墳も瓢形をして居るが、多分昔の前方後円の崩れたものであろ うと思う。此処の古墳は周囲百五十間あって、今はその真ん中にト ンネルを穿ち、其処を通ずるようになって居る。これは近ごろのこ とである。けれどもよくこの形を見れば、立派に瓢形を呈して、崖 に臨んで居る。この状態は芝の 丸山に於ける前方後円の古墳と 同じである。今はこの古墳の上 に澗葉樹の大木が茂って居る。 この木を見ても、この古墳の新 しくないことが考えられる。こ れは日枝神社の此処に移されな い前から、この山王台にあった ものといってよろしい。

 境内を彼処此処見たが、丸塚 のようなものは見当たらなかっ た。併し既に瓢形の古墳が此処 にあるとすれば、今日日枝神社 のお宮のあるあたりには、丸塚 が少しはあったものであろうと 考えられる。なお今日星ケ岡茶 寮の建物のある土地は、幾らか 高くなって居る。これはあるい は古墳を削ったものではあるま いか。ここに疑いを存じて置く。

 この日枝神社で午前中の巡見 をひとまず終わり、白木屋に帰 って昼餐の饗応を受けた。これ は白木屋に向かって深く感謝す る所である。食後少憩、なお残部の古墳を見るべく再び自動車を飛 ばした。

 まず第一に帝国大学の赤門内、史料編纂所の後ろにある所の椿山 を見ることにした。これは丸塚であって、大きさは日ヶ窪の古墳に 似て居る。この古墳の上には椿の木が非常に繁茂して居る、いかに も椿山という名前にふさわしい。その中に古木も混ざって居る。

 此処を見終わって、更に小石川の戸崎町に赴き、細川家の別邸 (盲唖院の隣)内にある古墳を見た。これも瓢形の小さなものであ るが、築山に用いられて、その形が大いに変化して居るけれども、 後ろの方から見れば、それの古墳であることが考えられる。位置は 断崖に臨んで、四方には椎の木が繁茂して居る。此処から盲唖院・ 植物園等に通じて一帯の高台は野生の椿や常緑樹の巨木・老木が多 い。この古墳の所在地にも、今挙げた椎の木の外に、樫・棒等の巨 木が茂って居るが、これは武蔵野時代の名残を留めて居るものであ る。それからこの丘陵の出っ鼻の所に、戸崎町という名前のあるの は、其処の地形にふさわしい。この丘陵の出っ鼻の所は、すなわち 一つの岬であって、原史時代より大昔の先史時代に掛けて、この下 の低地には東京湾の海水が入り込んで居って、このあたりは波打ち 際であったのであろう。戸崎という名はこの点に於いてふさわしい のである。

 それから前に述べた如く、この戸崎町の細川男爵別邸内の築山と 称するものは、これもやはり古墳の変形したものである。そうして 見ると、この戸崎町に存在する 古墳は、大昔海水の波に洗われ て居る丘陵の出っ張りに設けら れたものであって、当時の習慣 として、いわゆる旭日の輝くる 所に奥津城の鎮まりましたもの というべく、相当によろしい位 置の所にあったように思われる のである。

 細川男爵邸内の巡視を終わり、 去って小石川の白山神社の境内 に行った。此処にはお富士山と 称する小高い所があって、これ も正しく古墳である。この古墳 は今度崩されたのであるが、当 時はまだ壊されながらも形は残 って居った。白山神社のいわゆ るお富士山と称するものは、す なわち古墳であって、多少形は 変化して居るけれども、古墳で あることは疑いない。

 此処の巡視を済まし、それか ら駒込曙町の土井子爵の邸内に 稲荷を祀って居る小丘の所に行 ったが、この丘も無論古墳であって、丸塚である。

 それから駒込の富士前町にある富士神社に行ったが、神殿の鎮座 して居る高地はこれも明らかに古墳である。此処の古墳をよく注意 して見ると、むしろ前方後円式の瓢形を呈して居る。今境内にはこ の古墳だけしか無いけれども、昔はこの周囲に陪塚として丸塚が存 在して居ったものと見るべきである。恐らく後世これを取り崩して 仕まったのであろう。とにかく残って居る古墳を見ると、相当に大 きな古墳であって、どうしてもそういう丸塚が伴って居ったものと 見なければならぬ。

 本郷の高台を去ってそれから上野の公園に向かった。上野公園で はまず最初に摺鉢山に行った。これは非常に巨大なる古墳であるが、 大分形は壊されて居る。あるいは瓢箪形の古墳が壊されたものでは あるまいかと思われる。それからなお上野の停車揚を見下ろす方の 崖に臨んだ所に、三、四の丸塚の上を削られたものが分布して居る。 その内一個は原形を存じて居る。私はかつてこの附近で埴輪の破片 を拾ったことがある。又、大野延太郎氏も此処に埴輪の破片を拾っ たことがある。なおこの附近に祝部土器の破片を拾ったこともある。 こういうようなことから考えて見ると、埴輪の破片を出す古墳を中 心として、此処に古墳の多く存在して居ったことが知られる。しか も埴輪の存在して居る工合から見ると、芝の公園にある古墳と時代 が同じように思われる。

 此処へ寛永寺が建てられない以前には、相当古墳があったものと 思われる。然るに今は惜しいかな多くは亡くなり、更に寛永寺の建 立によってこの土地が開拓せられて、なおさらに無くなってしまっ たのである(今回の震災後、この土地が段々修理せられるに連れて、 なお一層それが亡くなったのは更に惜しむべきである)。

 上野を去って今度は浅草に向かった。まず二王門のあたりにある 弁天山を見た。此処は古墳であるが、このことに就いては、私は既 に『武蔵野及其周囲』〔本巻五九ページ〕の中に書いてあるから、こ れは省くことにする。それから公園の五区青木写真店の側にある土 墳を見た。これは形は崩れて居るが、よく見ると古墳の跡らしい。 なおこういう土の高くなって居る所は、彼処此処に見えて居るけれ ども、これは今更何ともいうことが出来ない。

 それから浅草寺伝法院の境内に行って見た。これは同行の吉田文 俊君が一足先に伝法院に行って、私どもの来るのを待って居られて 案内をせられたのである。この伝法院の縁先に、石灰岩で作った手 水鉢が据えられて居る、それが石棺ではないかという疑いがあって、 吉田君からその調査に就いて話があったので、伝法院に行くと、早 速その手水鉢のある所へ行って見た。而して注意して見ると、どう も石棺らしい。長方形のもので、中は近ごろ不完全に掘って水を入 れてある。どう見ても石棺らしい。浅草寺境内は古墳群のある所 で、此処に石棺らしいものの存在して居るのは極めて興味がある。 『江戸夢跡集』によると同寺にはなお、別に石棺があった。この事 は『武蔵野及其周囲「石の枕」〔本巻六二ぺージ〕の所に記して置い た。

 それを見てから寺で茶菓の饗応を受けて、それから寺の附近にあ る駿馬塚のある所を見に行った。これは今ただわずか土鰻頭の上が 残って居るくらいであって、上に墓などが立てられて居る。駿馬塚 というのは、かつてこの塚から陶棺などを掘り出したことがあった。 これらもやはり原史時代の古墳らしく思われる。この寺の境内で昔 の浅茅ケ原一体の面影を偲び、それから待乳山の聖天に向かった。

 待乳山の聖天のある所は、これも古墳であろうと思われるが、私 は既に『武蔵野及其周囲』の中に書いて居るから〔本巻六二ぺージ〕、 ここには省略する。此処にも寺の款待を受けて、それから更に橋場 の総泉寺に赴く前に、橋場の百九十五番地にある妙亀尼の塚を見た。 これは梅若の母の妙亀尼を葬ったといっている、これはもとより伝 説である。少なくとも、これも古墳と見て間違いない。このあたり の地形は全く沖積層によって出来た所であるが、沖積層としても、 古くから比較的早く堆土が出来て居ったのである。

 其処を見て総泉寺の境内に入り、板碑を捜索して見たが、もう既 に誰かに持って行かれて、一物をも見ることが出来なかった。総泉 寺は板碑の多いのを以て名高い所であるけれども、今実際に来て見 ると、何らの面影も認められなかった。

 それから自動車で帰路に就き、再び浅草方面に向かって浅草寺附 近に来り、なお暫く進んで自動車を留め、此処で一行は解散した。

 この巡回調査は僅かに七月十九日の一日に過ぎなかったけれども、 この調査によって、東京市の内になお原史時代の古墳の多く存在し て居るということを確かめた。今日巡視した所はただ僅かの部分で あって、なお地名に残って居る所や、まだ見ない所を集むれば、こ の以外にもたくさんあるのである。たとえば大塚の地名のある処、 あるいは本郷曙町のカラ橋の天神社の中にある所の丸塚など、これ らもやはり原史時代のものである。それから暁星学校の隣の津輕侯 邸の中にも丸塚らしいものがあるそうであるが、そういうふうのも のを集むれば、まだたくさんあるのである。

 又下町に於いても、下谷の小野照崎神社の境内であるとか、ある いは根岸の方面、あるいは小塚ッ原というような処、なおあるいは 本所の方面など、枚挙にいとまないくらいである。

 けれどもこれらの古墳墓に対して、大正五年七月十九日の一日と いうものは、その研究調査に向かっての最初の試みを始めたもので あって、これが後の研究の基礎となるべきもののように思われる。 故にここにこのことを記して置く。


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