アースダイバーをダイブする

本稿はmarginBlog(2005年8月5日〜9月22日)に掲載したものの転載である。関連したWeb上のテキストとしては、pensie_log 『アースダイバー』続き(2005年7月20日)、および 捏造問題連絡舟々 0294(2005年8月20日)等。

アースダイバーをダイブする(1)

2005年8月5日

ローマの街はローマの遺跡だらけだ。同様の意味で、資本主義の先端を走る東京は、石器時代の遺跡の上に直接建てられた街だろうか。ま、確かに東京に古い遺跡はいっぱいある。

東京低地周辺の遺跡分布

#そういえば以前、「三尺下は江戸の華」というキャッチコピーがあったが、都心は丸ごと近世の遺跡「大江戸」である事に留意すべきだろう。でも大まかに言えば江戸は複合遺跡だし、所によるけれども、歴史の澱が重層的に重なっているのが、遺跡だし、東京の街だ。西方の火山からテフラがたっぷり供給されるものだから、地味は豊かだし、遺跡の埋没速度は適度に速い。
#都心ではゴミの堆積が地盤を成している場合もあるが。

縄文と現代の間には、弥生時代、古墳時代、律令時代、中近世と、様々な歴史が挟まっている。新石器時代と現代文明の間柄について、ローマ(人の常識)では掛け離れた問題らしいが、日本では文明という意味でも通じるものを残していると、おぼろげに思われているのは確かだろう。年間降水量が多いから、緑には事欠かない。豊かな陸が豊かな海ももたらしてくれる。関東まで来ると、弥生化は徐々に進行という感じで、縄文をまとった弥生土器が土地柄だ。原始と文明の断絶感は、日本ではどこか希薄で、日本中にたっぷりグラデーションの有り様を残している。

日本に大陸的な文明が来なかったわけではない。律令時代の都城は計画都市そのものだし、全国にはりめぐらされた官道は、最大幅員12mで、恐ろしく直線的に計画され、実際に施工された(山にぶつかっちゃうと、訳わかんないけど)。直線官道は、古代文明の象徴のような気がする。もちろん、東京にも縦横に通っている。官道は古代末期には廃れ、地形に即した、くねくねした道が主流になっていく。

#『アースダイバー』(中沢新一)へのクリティークをと思ったが、単純な事実誤認は別にして、そう簡単にはいかない。

アースダイバーをダイブする(2)

2005年8月16日

「アースダイバー」は、陰陽二元論的な世界だ。しかも連想は自由だ。

縄文を陰に、弥生を陽に、低地(谷戸)を陰に、台地を陽に、湿気は陰、乾燥は陽、地下は陰、地上は陽、無意識は陰、意識は陽、といった具合だ。そして陰は陰で、陽は陽で全て関連あるものと、串刺しして位置づけられる。また陰陽をつなぐゲートが、境界域として聖化される。そして陰は野生、自由奔放、不定形、エロティックなのだ。

近代や近世まで遡るくらいだと、都市論として成立するだろうが(江戸時代の町作りは、文明的でひねくれた世界観に基づいている面が多々あるだろうから)、縄文や古墳と結びつけるのは、牽強付会に過ぎるか、検証のプロセスを何段も省略しすぎだ。

#江戸の都市計画者の思考に、古墳が影響を及ぼした可能性は興味深いが、都心の大古墳はほんの僅かしかないし、小古墳は一顧だにされなかったろう。

都心の古墳

#そもそも地形は地形であって、「自然」なのだから、縄文や弥生といった文化とは関係ない。ただ、その時々の時代の都合や力学で立地が選択されてきたに過ぎない。

要するに、思想者の解釈に、たまたま当てはまるものを、拾い集めているに過ぎない(例外はいくらでも集められるだろうが、そんな事は気にしない、しない)。集められた材料が、仮説に適合しているかどうかは、対象を以って検証しなければいけないのに、観察者の眼差しが既に仮説適合を保証してしまうのだ。これは、してはいけない事、「知性」にとっての禁止事項というより、思考の陥穽というべきだろうか(禁止されていても、やってしまうのだから)。

そう見るから、そう見えているものを、そう見えるでしょ、と強弁しているに過ぎない。事実そうであるかどうかは、個々に検討されるべきだ。こうした手続きの省略は、論文じゃないから、といって許されるものだろうか。そもそも検証を要しない、エッセイとして書かれているのだが、それを言ったら逃げになる。あくまでこの本は「都市論」として提示されているのだ。それに、どういうわけかこの本は人気があるのだ。

#中沢氏は野生の思考の流れで、多摩美に芸術人類学研究所を創設するのだ。大物なのだ。
#付録の地図は便利だ。台地と沖積低地のベースマップに使える。
#ついでに見つけた書評『東京の公園と原地形』が面白そうだ。

##Comment
高原は高天原、早乙女は田の神に使える少女。あるいは高原は天女か夜叉(ダキニ)で早乙女は観音。大賀誠の振る舞いはスサノオそのものだし、それなら早乙女は天照か。青葉台は高天原で、悪の花園が現世かな。 全体をつらぬくのは、天つ神と国つ神の葛藤と和合のテーマかもしれない。
#思いつき

アースダイバーをダイブする(3)

2005年8月18日

アースダイバーは、ローカルを案内するフォトポエムかもしれない。

せいぜい近世まで遡る伝説や原風景を紐解いて見せることで、世界の隠された構造を示唆し、現代人を分かった気にさせ、心地よさを提供する。まことに陰陽二元論は強い。地下世界、湿った世界、泥や汚水が流れ込む世界、どくどくと地下を行き交う温泉脈や地下鉄といった陰の世界にダイナミズムを認める。そして陰につながる境界域の世界が、陽の明るい世界へのパワーを持ちうる点に注目する。大学はアジール=避難所であり、タナトス=死霊の王国のもたらす「自由」を利用する。まあ、そんな具合だ。

それはまだいい。事実から離れる事は問題だと思うが(伝説を伝説として語るのは、問題ないのに)、うがった解釈である場合もある。それは、その文化の設計者や実行者が拠り所にした世界観が、アースダイバーの解釈と一致していた場合だ。そもそもアースダイバー的な世界観に基づいて作られた世界や文化ならば、合っていて当然だ。

しかし、どうしても許せない点が、読み進むと2、3出てくる。911を語る氏は、一神教体制の下で、抑圧されてきた無意識が、グローバル社会に挑みかかったのだと断ずる。もちろん一神教同士の争いである事はともかく、911テロリストの所業は無意識の逆襲だろうか。この解釈は、陰陽二元論の応用でしかない。近頃のテロリストはITにも親和性が高い。いわば、オタクだ。これはオームでもアルカイダでも同じだ。泥臭い連中といえば、日本の民間人3人を拉致し(て後に解放し)たような連中だ。超現代的な国際テロリストは、暴力的な権力を志向する。秩序から自由であるのではなく、彼等の秩序を打ち立てようとする。グローバリズムの解体に挑戦しているのではなく、別のグローバリズムで世界を支配しようとしているのだ。鬼っ子でしかない。

「この世界の息苦しさは、資本主義の原理が入り込んでこない隙間がどこにもないというところにある」(p.237)という事だけを言いたいのだ。氏は、隙間を探していたのだ。グローバリズムに対抗するには、地下世界や死霊の王国や深い緑の森によって、アジールを作り、砦とするしかないのだと説く。それは、最後まで、氏の妄想でしかない。氏のドリーム、まさに夢の時間がこの本には流れている。

ちなみに、身体=自然説を想起すれば、アースダイバー論は原風景=自然=身体で、風水論と通じていることが分かる(ま、それは当然か)。身体の構造や成り立ちから、どんな近代人も自由でありえないのと同様、都市も原地形から逃れられないのだ(半分ウソ、半分ホント)。

アースダイバー異聞(4)

2005年8月26日

『アースダイバー』は縄文の記憶を強調するが、実際のアースダイバー的情景を支えている要素は密教的なもので、その特徴はエロスとタナトスをカバーするダキニ信仰と一致する。稲荷信仰と言っても同じだ。ダキニ(荼吉尼)はインド由来の夜叉というか女神だが、中世密教の影響下で稲荷神と習合し、強烈な現世利益の力を持つようになった。ダキニと言えば真言立川流(武蔵国立川が発祥)だが、話は錯綜している。古墳=死霊=狐=ダキニ=稲荷ときて、古墳に稲荷が祀られている例があるのは、当然のなりゆきか。

#稲荷神社は神道界の最大勢力だから、ただものじゃない。稲荷信仰は、戦国時代から江戸時代にかけて今日のような勢力を獲得したようだ。「ダキニ信仰」では邪教的な印象が強いが、「稲荷信仰」と言うとそうでもないから不思議だ。
#稲荷の狐(キツネ)は大体エロティックだ。

ダキニの表の顔は稲荷であり、本地は十一面観音だ。ちなみに新宿の花園神社は以前は花園稲荷神社といった(花園神社縁起)。元々は後醍醐天皇を吉野に導いた伏見稲荷の分霊、吉野の導稲荷神社を勧請して出来た稲荷神社なのだが、元は十一面観音を祀っていた。明治の神仏分離・神仏判然令以降は倉稲魂神ほか二柱が祭神として残った。倉稲魂神は食の神であり、稲荷神そのものだ。

#後醍醐天皇は密教的な祭儀やパワーに傾倒したことで知られる。闇の力を、いわば革命に利用したわけである。

花園神社は内藤新宿の総鎮守だが、内藤新宿といえば甲州街道最初の宿場町として注目され、飯盛女のいる旅籠が今の新宿1丁目から3丁目あたり(新宿御苑の北側一帯)に繁盛していた。花園神社の本尊がかつてダキニの顔も持っていた事は、何かの因縁であろうか(こじつけ)。ちなみに花園神社は寛永年間までは、今の伊勢丹デパートの辺りにあった。

#ダキニ、稲荷、観音、弁天、聖天等は、皆通じるものがあるのだ。
#芝増上寺と芝丸山古墳の周りには、稲荷、観音、弁天が揃っている(芝観音山古墳)。
#そういえば、上野公園にも、稲荷(花園稲荷神社)、観音(清水観音堂)、弁天(不忍池弁財天)が揃っている。

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参考文献
 『稲荷信仰の研究』1985 山陽新聞社
 『真言立川流―謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』1999 学習研究社

アースダイバー外伝(5)

2005年9月22日

古墳のタナトスには何がしかの真実がある。もちろん土地にではなく、それを捉える観念がそれを担保する。それも、体系化と組織的基盤に裏付けられた具体的な活動があっての話。

古墳には、中世以降の宗教活動、民間信仰との関係が何かあるみたいだ。みたいだではテキトーだが、こういうテーマは奥が深すぎる。具体的には密教あるいは稲荷には何か関係がありそうだが(古墳にあるのは稲荷だけじゃないが、古墳稲荷というものがあるのは事実)、特に中世密教の関係かと思うと、別に真言宗に限った話でもない。いわゆる聖の活躍と関係があるような雰囲気もあるが、これも(一般的な話はともかく)深入りしようとすると、何だかよく分からない。

#こういう話は一般化できない。おそらく、「聖」の活動が活発だった地域で、限定的な個別事例としてありえた話だろうから。

古墳が信仰のひとつの焦点になるならば、信仰の観点からの「古墳整備」が行われる場合もあったろうし、その極端なケースでは、「古墳」を作ってしまう例もあったのではなかろうか。中世「塚」が何であるのかよく知らないけれど、明治以降になって本物の「古墳」かなと考えられた例もあったようだ(古墳があっても不思議でないような立地、塚にしては立派すぎる墳形、古墳群の中に作られた中世塚等々)。

#ひとつ目星はあるのだが、確証がない…それは古墳かも?という一般的認識だが、発掘調査によっても古墳と証明されなかったし、古墳でないとも証明されなかった。

と書いてきても、全ては憶測である。何かが見えてくるようでも、朧(おぼろ)だ。『アースダイバー』のようなファンタジーならともかく、何かを言うには検証が求められる(それはしんどい話だ)。古墳(域)が中世に再利用されるケースがあるのは分かる。ただ、この話にはすごく裏があるようなのだ。この裏に(まだ風呂敷を広げてはいないが)興味を引かれる。


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