Tenderness Homepage
CINE ART 5
Home

アキ・カウリスマキ


Aki Kaurismki
No.4

-- ヘルシンキから「滅び行くもの」への連帯感 --
index | No.1 | No.2 | No.3 | No.4
by kitayajin

「この世で一番大切なものは、やさしさだ」



 
制作: Aki Kaurismki, Sputnik Oy (Helsinki) / Pandora Film (Frankfurt)
所要時間: 62 min
監督: Aki Kaurismki
脚本: Aki Kaurismki, Sakke Jrvenp
撮影: Timo Salminen
録音: Jouko Lumme
編集: Aki Kaurismki
デザイン: Kari Laine, Markku Ptil, Jukka Salmi
音楽: "If I Had Someone to Dream of'' (Lindskog, Feichtinger)
演奏:The Renegades "Sabina" (Karu, Jauhiainen, Lasanen),
演奏: Veikko Tuomi "Old Scars" (H.Konno)
演奏: The Blazers "Kun kylm on" (ロシア民謡)
演奏: Viktor Vassel "Hold Me Close" (Brown, Gibson, Johnson, Mallett)
演奏: The Renegades "Think It Over"(B.B. King)
演奏: The Regals "Bad Bad Baby" (Brown, Gibson, Johnson, Mallett)
演奏: The Renegades "Etk uskalla mua rakastaa" (Lindstrm, Saukki)
演奏: Helena Siltala "Tanssi, Anjuska" (Kemppi, Husu)
演奏: Veikko Lavi とPertti Husu "Muista minua" (Pedro de Punta, The Esquires)
演奏: The Esquires "Symphony No.5".(Piotr Chaikovsky) "I've Been Unkind" (Brown, Gibson, Johnson, Mallett)
演奏:The Renegades "Girls Girls Girls" (Leiber, Stoller)
演奏: The Renegades "Mustanmeren valssi" (Feldsman, Salonen, Berg)
演奏: Georg Ots "Kyh laulaja" (Krki, Kullervo, Johansson)
演奏: Henry Theel

キャスト: Kati Outinen (Tatjana) Matti Pellonp (Reino) Kirsi Tykkylinen (Klaudia) Mato Valtonen (Valto) Elina Salo (宿屋のオーナー) Irma Junnilainen (ヴァルトの母) Veikko Lavi (Vepe) Pertti Husu (Pepe) Viktor Vassel (バスの運転手) Carl-Erik Calamnius (ガソリンスタンドの男) Atte Blom (コーヒースタンドの男1) Mauri Sumn (コーヒースタンドの男2)
■1994  Pid huivista kiinni, Tatjana - Take Care of Your Scarf, Tatjana .「 愛しのタチアナ 」

  この映画を見るたびに何故アキ・カウリスマキはこんな映画を作ったのだろうと考えてしまいます。
  アキの言葉を聞いて見ましょう。「これは私がその中で育ち、悲しいことにもう決して戻ってはこないであろう、あのフィンランドに対する、 私の個人的な別れの映画です。」
  アキは自己の分身とでも言うべきこの60年代の若者たちに対して、そして彼らが育った半農村的で近代のしっぽがまだまだしつこく纏わりついているような故郷の田舎町に対して、それでいて決して傲慢でも独り善がりでもない、ただただ不器用なこの「フィンランド的なるもの」に対して強い郷愁と愛惜の念を抱いているようです。

  「ロック」と「車」にはやたらに興味があるが、いつまでたっても大人になれない、ぎこちない若者たちを描いた恋愛(?)ロードムービー。コーヒー中毒とアルコール中毒の二人の若者が興味を示すもう一つのこと。もちろんそれは「異性」です。スクーターやオートバイの後ろに娘を、恋人を乗せて走ってみたい。グーンとアクセルを踏んで、かっこよく疾走してみたい。こんな時、後ろの娘に向かって言うカッコイイ言葉は決まっています。 「スカーフを抑えてろよ!!」(原題は『スカーフを抑えてろ、タティアナ』といいます。) でも彼らは「異性」に接するすべも知らないし、経験すらないのです。それに仲間の見ているところで「異性」に優しさを見せるのは、照れくさくてカッコ悪くってという、昔風の男たちなのです。
  こんな二人に絶好のチャンスが訪れます。ロシアとエストニアの娘たちとの出会いです。彼らにこのカッコイイ台詞を口に出せる場面が訪れるでしょうか? 

  60年代のフィンランドにはソ連やエストニアからの観光客はまだいません。この映画が作られた1990年代の初頭はソ連が崩壊し、バルト3国が独立し、これらの国の混乱を避けてたくさんの人々がフィンランドにもやってきました。難民申請をする者、フィンランドで品物を買い付けてロシアの持って行き、一儲けを企てる者、フィンランドで仕事を探す者。嫁を貰う事を諦めかけた農村の男たちに夢を与えてくれる女たち。フィンランドのお店の中には旧ソ連人客の盗難に悲鳴を上げ、「ロシア人お断り」の札をだすところすら出る始末でした。アキはこうした90年代の弱き者たちに注目し彼らへの連帯感を感じたのではないでしょうか?
 そして、この女たちを60年代のフィンランドの男たちに会わせて見たのではないでしょうか?  寡黙であることが認められ、男の美徳とすら考えられていた旧いフィンランドが外部の世界にぶつかった時のぎこちなさ。フィンランドの女たちは水を得た魚のようにスイスイと外国人の男たちと結婚して行きます。男同士では、脅しの効いた 台詞がすぐに口ついて出てくるレイノ(マッティ・ペッロンパー)もヴァルト(マト・ヴァルトネン)も外国語をしゃべる女の前では、手も足もでません。
  辛らつな言葉がポンポン出るロシアの娘(?)クラウディア(キルシ・テュッキュライネン:さすが学 校のロシア語の先生。流暢なロシア語で台詞をこなします。このレニグラママ今はフィンランド映画の海外プロモーターとして活躍中)。ロシア娘の行くところ耳飾やコーヒーメーカーが無く なってしまうあたり、ロシア人に対する皮肉がちょっ ぴり込められているようです。それに比べてフィンランドの男の心情がある程度判っている優しいエストニア娘(?)タティアナ(カティ・オウティネン:エストニア訛りのフィンランド語で会話に独特の味を出しています。)それに比べて男たちの無 様さは目に覆うものがありますね。

  ホテルのレストランで演奏される『踊ろうよ、アニューシュカ』の調べにも、「何だあんな の、ダサイ」といってロックにこだわる二人。女同士で踊って楽しむ娘たちのような勇気はありません。港の別れの場面で、せいぜい知っている唯一のスウェーデン語で「タック」というのが関の山。しかし彼らの寡黙と会話能力の欠如に決 して悪意はないのです。この絶望的なぎこちなさには思わず笑い出してしまう他ありません。それでも別れるのに忍びなく、のこのことエストニアの首都タッリンまでついていってしまう二人。今では変わってしまった、 昔懐かしいタッリンの港。そして今でも変わらない木造住宅地区の零落のありさま。そんなタッリンの街にタティアナと残るというレイノ。驚き、友を失いさびしく帰るヴァルト。彼の戻っていく世界は以前と変わらないあの昔ながらのフィンラ ンドです。  いや、それともこの旅はコーヒーを切らしてイライラして、ママを納戸に閉じ込めた、仕立て屋の息子ヴァルトがミシンを 踏みながらみた白昼夢だったのでしょうか?
制作: Sputnik Oy (Helsinki) / Pandora Film (Frankfurt)/ Pyramide Production/La Sept Cinema (Paris)
所要時間: 94 min
監督: Aki Kaurismki
助監督: Erkki Astala
脚本: Aki Kaurismki。
原作はSakke Jrvenp, Aki Kaurismki、Mato Valtonen の共同執筆。
撮影: (Eastmancolor) Timo Salminen
録音: Jouko Lumme, Timo Linnasalo
編集: Aki Kaurismki
デザイン: Mark Lavis
音楽: Mauri Sumn "Rosita" (M. Helminen) "Nolo Tengo Dinares" (M. Sumn) "Kasatchok" (トラッド 編曲Leningrad Cowboys) "Kili Watch"(G. Derse 編曲 M. Sumn) "Wedding March " (E. Melartin, 編曲 M. Sumn) "Matuschka"(B. Granfelt, 編曲 M. Sumn) "Lonely Moon " (Pedro de Punta, Orvokki It, 英語版. H. Torvaharju 編曲M. Sumn) "I Woke Up This Morning Last Night" (Leningrad Cowboys, M.Helminen, arr. 編曲Leningrad Cowboys) "Rivers of Babylon"(F. Farian, B. Dowe, G. Reyam, J.MacNaughton, 編曲 M. Sumn) "Uralin pihlaja" (トラッド 編曲 M. Sumn) "The Sunbeam and the Goblin" (R. Helismaa, 英語版歌詞 J. Leskinen, 編曲 M. Sumn) "U.S. Border" (Tokela, J. Marjaranta)

キャスト: Twist-Twist Erkinharju, Ben Granfelt, Sakke Jrvenp, Jore Marjaranta, Ekke Niiva, Lyle Nrvnen, Pemo Ojala, Silu Seppl, Mauri Sumn, Mato Valtonen (Leningrad Cowboys) Matti Pellonp (Moses/Vladimir) Kari Vnnen (知恵遅れのイーゴル) Andr Wilms (Lazar/Johnson/Elijah) Nicky Tesco (アメリカのいとこ) Jacques Blanc (ビンゴ場のオーナー) Nicole Helies (ビンゴ司会者) Kirsi Tykkylinen (バビロン・シンガー)
■1994  Leningrad Cowboys Meet Moses
 「レニングラード・カーボーイズ モーゼに会う」


 ご存知のように『レニングラード・カウボーイ アメリカへ行く』の続編になるわけです。 地球横断の珍道中にハチャメチャ 演奏が加わったこのカウリスマキ式オフビートは相変わらずです。 前編ではメキシコで独裁者ウラジミルが砂漠に消えてから、そこそこの成功を収めるレニグラ・カウボーイ達ですが、 時 とともに優しいボス(シル・セッパラ)の指導下、テキーラという強烈な誘惑が蛇のように彼らの生活に忍び込んでしまいます。仲間も減り、おまけに官憲とも問題を起こし、結局砂漠に隠棲するレニグラ・メキシコ組たちの生活には零落の影が濃厚です。

 ロシアの民はやはり強い指導者を必要とするのでしょうか? アメリカに呼び寄せられた彼らの前に再び現れる強い指導者はモーゼに生まれ変わったウラジミルです。ここからモーゼに導かれ「約束の地」へ帰るレニグラの「出アメリカ記」が始まるのです。しかし、モーゼはただ手ぶらでアメリカを出るの ではなく、ロシアへのお土産を持ち出そうとします。それはなんと自由の女神の「鼻」なのです。 天地創造の仕上げとして、神の形を模して創造された我々人間。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そ こでひとは生きた者となるのです」。
  この鼻を盗み出して、ロシアの社会に生命の息吹をという訳でしょうか?  それともユダヤの鼻をもぎ取れば何かが変わるとでも言うのでしょうか? この「鼻」を取り返そうと、送り込まれるCIAの男。そしてヨーロッパに上陸した一行を待ち受ける、レーニン率いるレニグラ救援隊(?)。 この映画はこの奇妙キテレツな設定の中で進行して行きます。
  この映画、特に旧約聖書に絡んだパロディーが沢山でてきて、それが映画の主流になってしまっている感じがあるのが難です。普通、アキ・カウリスマキの映画は重層的に構成されており、パロディーやブラックユーモアやメタファーなどの謎解きをしないでも、それなりに楽しめるのですが、この映画、特に後半の東欧の旅の部分は旧約聖書などに詳しくない人には、多少退屈さをぬぐい切れません。それを補うというか、映画の後半部は音楽のほうでなかなか楽しめます。メキシコの怠惰な生活でなまってしまった腕が、旅の進展とともにグングン決まり始めるのがこの映画唯一の救いです。

  Kitayajinの好きな場面はここでもキルシ・テュッキュライネンの唄う『バビロン川のほとりで』です。
  ♪ By the rivers of Babylon, there we sat down ye-eah we wept, when we remembered Zion . . Now how shall we sing the lord's song in a strange land ♪  「バビロンの捕囚」達のように、異境にあって歌を唄い続ける自分達の境遇。イーゴルは感極まり、花束を投げます。 それからフィンランドのカラオケ酒場では知る人ぞ知る、歴代人気ダントツのナンバー、レイノ・ヘリスマーの『Pivn sde ja menninkinen』(『陽光とゴブリン』をしんみりと聞かせてくれるのも異色で嬉しい。
  それからCIAのおじさんことユダヤの預言者Eliasも舞台で激しく唄っちゃうのが、かってジョニー・ハリディーが唄った『Kili watch』です。 もう一つ思わず笑い出してしまうオトボケ・ナンバーはレニグラ・メキシコ組の迷演奏になる『No tengo dinares』。  トラクター工場の見学(?)の場面では、ご存知師匠のアキも菜っ葉服で登場。  この映画はマッティ・ペッロンパーの最後の映画になってしまいました。祈冥福

制作: Aki Kaurismki, Sputnik Oy / Yle TV l, Eila Werning / Megamania, Atte Blom / ESEK/LUSES
所要時間: 55分
監督: Aki Kaurismki
助監督: Erkki Astala
制作指揮/撮影: Heikki Ortamo
録音: Jouko Lumme
録音助手: Juuso Hirvikangas

キャスト: Leningrad Cowboys The Alexandrov Red Army Choir and Ballet, 指揮者Igor Agafonnikhov
■1994 Total Balalaika Show 「トータル バラライカ・ショー」

  1993年6月12日、ヘルシンキの中心、元老院広場で行われたレニングラード・カーボーイとレッド・アーミーの共同 ライブコンサートです。なんと6万人の観衆を集めた、フィンランドでは空前のコンサートとなりました。
  ベルリンの壁が倒 れて4年、ソ連が崩壊して2年。それでもこのライブ・ショーを後でテレビニュースで観た時ほど、東西の冷戦構造が崩壊したと肌で感じさせるものはなかったそうです。
  だれが言い出したのか、このハチャメチャ企画。トンガリ頭のペンギン・ブーツと160名の一生懸命のアレクサンドル・レッド・アーミー・コーラス&アンサンブルのおじさんたちの奇妙な組み合わせが生み出す、えも言われぬズッコケ・ムード。それでいて、めちゃめちゃに暖かいフィーリング。ロシア民謡のエバー・グリーンにも、ロックのクラシックにも、観衆は乗りに乗ります。
  このライブ・コンサートを収録したドキュメント・ビデオが3つあるそうです。アキのバージョンは55分ですが、テレビ放映のバージョンは108分あります。アキのバージョンには演奏24曲のうち13曲が収録されています。 このうちいくつかを紹介しましょう。

  『Finlandia』:ジャン・シベリウスの作曲になるこのオープニング・ナンバーを演奏するレッドアーミーの軍楽隊。アキが『Arvottomat』のオープニングに使った、汚れてしまった編曲『Finlandia』ではなく、真っ白の『Finlandia』です。この曲でいっぺんに観衆は爆発してしまいます。その気持ちよく解ります。この曲はフィンランドの人たちには特別の思い入れのある曲ですから。公式な国歌『Maamme』以上に彼らの心の琴線に触れるからです。この曲が聞こえてくると、姿勢を正したり、帽子を脱ぐ人も少なくありません。この曲をソ連のレッド・アーミーの軍楽隊が演奏するなどと数年前に一体誰が予想したでしょうか?
  『Happy Together』:コーラスの団長とヨレが肩を組んで唄うこの歌で観衆はもう全開。
  『Delilah』:トム・ジョーンズの唄う『デライラ』の雰囲気一杯に謳い上げていました。
  『Dark Eyes』:おなじみロシア民謡『黒い瞳』。トランペットも独唱も聞かせます。ロシアのおじさんたち、さすがにプロですね。レニグラの面々かなり押され気味。
  『Those Were The Days』:ラストナンバーはお馴染み『悲しき天使』です。ヨレが英語で『Those Were The Days』を決めれば、団長がロシア語の『Davni Chasy』で返すという具合です。さらにテュッキライネンさんも 「♪ Padam padam padam...」を入れてくれます(大観衆にちょっと上がり気味)。
  この曲で観衆の乗りも頂点です。 永い冬の時代が終わり、雪が解けて、希望の芽が吹き出す、その喜びを6万人の人たちが分け合っていました。
制作: Aki Kaurismki / Sputnik Oy
所要時間: 96 mins.
監督: Aki Kaurismki
脚本: Aki Kaurismki
撮影: Timo Salminen, Eastmancolor 録音: Jouko Lumme
編集: Aki Kaurismki
音楽: Symphonie Pathtique (Piotr Tchaikovsky) Rauli Badding Somerjoki, Ismo Alanko Melrose

キャスト: Kati Outinen (Ilona Koponen) Kari Vnnen (Lauri Koponen) Sakari Kuosmanen (Melartin) Elina Salo (Mrs. Sjholm) Markku Peltola (Lajunen) Matti Onnismaa (Forsstrm) Pietari (Pietari ワン君) Shelley Fischer (ピアニスト) Markus Allan, Pauli Granfelt, Kari Lindqvist, Pentti Mutikainen, Tommi Parkkonen, Taisto Wesslin (マルクス・アッレン・バンド) Tuire Liiti, Kaarina Vyrynen (ウェイトレス) Elli Lindstedt, Vilhelm Lindstedt (老人夫婦) Tuire Tuomisto (コック) Mustafa Altin (Amir) Pentti Auer, Iisak Lusua, Simo Santalahti (レストラン/チェーンの男達) Solmu Mkel (マネージャー) Outi Menp (Lauriの妹) Esko Nikkari (レストランのマネージャー) Tarja Laiho (職安の女) Sulevi Peltola (私設職業斡旋所の男) Vesa Mkel, Tero Jartti (税務ジーメン) Kaija Pakarinen (ドアの女) Vesa Hkli, Antti Reini (ならず者) Yrj Jrvinen (Olympiaの男) Ona Kamu (掃除婦) Eero Frsti, Kari Nenonen (強制取立人) Klaus Heydemann (不動産会社員) MatoValtonen (中古車ディーラー) Aarre Karn (銀行支店長) Rose-Marie Precht (ヘアーサロンのオーナー) Clas-Ove Bruun, Silu Seppl (大工) Jorma Pulla (ギルダー) Atte Blom, Peter von Bagh (一番乗りの客)

■1996  Kauas pilvet karkaavat (Drifting Clouds)  「浮雲 」

 「失業」がメインテーマとなっているこの映画は「社会不正義3部作」または「スオミ3部作」と呼ばれるアキの新しいシリーズ第1作目である。
 このあたりから、アキ・カウリスマキの映画が少し変わってきたと感じる方は多いと思います。 ギャグやパロディーや隠れたストーリーのような遊びの要素が減ってきて、映画がストレートになってきたと同時に作品の社会性とか、映画の持つ使命のようなものに、アキの主な関心が移りつつあるように感じられます。これは1990年代の初頭,フィンランド経済が壊滅的な打撃を受けた時期と無関係ではないようです。 (日本も酷かったようですが、フィンランドも本当に酷かったです。)

   映画のストーリーでは、まず市電の運転手の夫ラウリが路線縮小でリストラされ、さらに妻の仕事場の名門レストランDubrovnikも資金難のためチェーン店に買収、閉鎖されて、イロナも失業してしまいます。
 悪いときには、することなすこと裏目に出て、状況は絶望的にさえ思えるのですが、この二人の淡々としたこと。貧しくとも、犬を愛し、花束を買うことを忘れない夫婦。そして何とか二人で人並みの生活に立て直そうとする夫婦。 そこにこの危機を救ってくれる天使が現れます。それは決して銀行なんかではありません。前のレストランのオーナーなのです。これといい、主人ラウリの上司で手品師のような手さばきでリストラ対象者を決める場面といい、アキがインタビューで語っている「雇用者が悪いんだということで説明が出来ない状況」をあらわしています。

  銀行は加害者でありうるが雇用者は被雇用者と同じく被害者だというグローバル経済批判になっています。 そして新しいレストランの名前をわざわざ『仕事』とするところに、この映画のメッセージがあるように思います。自分達だけではなく、同じく失業した前のレストランの同僚コックのラユネンをアルコール中毒の療養までさせて、連れ戻す連帯感。
  失業者の欲しいのは、何よりも「仕事」なんだ。「仕事」が人間の社会参加の基本であり、人間としての尊厳の不可欠な要素なんだという、あたりまえで常識のようなことが、一生懸命叫ばれなければならない、この歪んでしまった現代。この映画のメッセージは誰にとっても他人事ではありません。
  そしてこの映画がナイーブなまでにハッピーエンドであるのは、監督自身がインタビューでも言っているように、この映画に与えられた使命がそうであるからです。 たしかに映画の組み立て方が変わって、彼の映画が一部のミニシアター系のファンのみでなく、今までよりずっと広い観客層を確保し始めたのは事実です。しかし、この明白な変化に関わらず、その根本にある思想といい、人間描写といい、カメラワークといい、出来上がった映画はあくまでアキ・カウリスマキの独特の世界であることに変わりはありません。

 深刻なテーマを取り扱っていますが、アキの映画ですので、もちろん遊びや皮肉やアキらしい細かいプロットなどに事欠 きません。書き出すとキリがないのでいくつか紹介するにとどめましょう。 (今は亡きマッティ・ペッロンパーに捧げられたこの映画はところどころに彼の遺影を残しています。)
  夫がロシアへの観光バス運転手の職を得て喜ぶイロナは埃のたまった棚に指を這わします。きっと「掃除しなくっちゃ」という気分になったのでしょう。棚を這うその指が亡くなった子供の写真の前で止まり、イロナはしばらく物思いにふけります。実はこの写真、ペッロンパーの子供の頃の写真なのです。そしてイロナは花束を持って子供のお墓参りにゆきます。これは写真がペッロンパーのものであるないに関わらず、しんみりといい場面ですね。  オープンしたレストラン「仕事」の3番目の(お祝い)客はペッロンパーの仕事の同僚達。ゴミ車の運転手たちです。 (『パラダイスの夕暮れ』を思い出してください)。この映画はその続編になるはずが、兄弟編になったのです。妻のイロナも、同僚のメラルティン(クオスマネン)の名前もそのままです。

  ●(アキの映画のボキャブラリー:悲しみ) アキの映画で、いつも悲しい場面で聞こえてくる霧笛。きっと港が近いのでしょうね。これは悲しみの代名詞です。異 国や、どこか遠いところが恋しくなるのでしょう。
 ●(アキの映画のボキャブラリー:人並みの生活)
  ラバーダックがここでも登場です。  大衆消費文化の象徴であるラバーダックをショウウィンドウで眺める二人。でも夫のラウリはその文化の一員であることから、落っこちているのですが、まだその深刻さに気が付いていません。
 ●(アキの映画のボキャブラリー:仲間への連帯感)
  映画の始めにアル中のコックのラユネンがキッチンで暴れます。守衛のメラルティンは手首を切られてしまいますが、イロ ナはズカズカと寄っていって、「バシィ」と叩いて事を収めてしまいます。 暴力場面そのものを見せないで、状況描写で表現するアキの態度は好感が持てます。取り上げた包丁をまな板に戻し、「さあ、仕事、仕事。全員よ」と言います。 このシーンも暖かくて良いですね。 また、後日、掛けた迷惑の代金を守衛のメラルティンに払うラユネン。 一度も「悪かった」とか、「すまない」というような台詞はないんですが、タバコを差し出すことで許しを請う場面も捨てがたいですね。
 ● (軽いおふざけなど)
  ロシアの観光バスの運転手の仕事に勇んで出かけるラウリ。始めにかたちだけの目の検査をして、すぐ出発..」とい うようなことを言ってでかけますが、まもなく帰ってきて、「不合格だったよ。片方の耳がほとんど聞こえないんだよ。」 と言う。このへんは映画『素晴らしき哉!人生』を見られたかたは、アーと思われるでしょう。

  最後の手段として持ち金を増やすためにルーレットをしに行く二人。赤黒か遇奇数かの2倍掛けに全額張り込みますが外れてしまいます。時間にすれば、ほんの数分のはずです。でも待っているイロナのところにいくと彼女は眠り込んでいます。これは待つ身の長さをあらわしたのでしょうか?

  レストラン「仕事」の改修工事中、ちびの大工(Silu Seppl)がカウンターを金槌で強く叩く。このため飛んでしまった、装飾用のボタンをのっぽの大工(Clas-Ove Bruun)がはめ直している。意味不明だけど何となく滑稽。
  フィンランドポピュラー・レコード界のドン、プロジューサーのAtte Blom (葉巻のおじさんのほうです) とフィンランド 映画界の淀川長治さん、Peter von Baghがレストラン「仕事」の最初の客としてcameo出演します。注文をとりに来た給仕長のイロナが「仔牛の胸腺kateenkorva」(日本ではモツ屋で「胸シビレ」と呼ばれるやつです)がお勧めです」と言います。それに対してvon Baghが、あたかも聞き違えたかのように、「コスケンコルバkoskenkorva(フィンランド・ウォッカ)、ボトル1本」と答えますがイロナは平気な顔でうなずきます。これは言葉の遊びですが、このような紳士がレストランでコスケンコルバを注文することは考えられないという常識が背景にあるので笑えます。でもこういうのって字幕制作の方の頭痛の種でしょうね。

  それから拳銃や機関銃が炸裂するハリウッド・アクション映画の嫌いなアキ。
  主人公のラウリに映画の途中から飛び出 し、「とんでもないガラクタ映画だ。料金を返せ」、「これでも喜劇のつもりか、一度も笑わなかったぞ。」と切符売りの妹(オウティ・マエンパー)に文句をいわせます。妹は「あなたお金なんて払ってないじゃないの」と答え「ワンちゃんはどうする のよ?」と預かっていたピエタリ君を抱き上げます。ただで観ても頭にきて、愛犬すら忘れてしまうというわけです。また映画の後半、イロナが居なくなった時、彼女の居場所を聞きに妹の映画館に来るラウリ。この時も映画館からは相 変わらずパンパンと銃声が聞こえます。アキはよほどアクション映画が嫌いなのでしょうね。

●Tendernessのコメント
 なんだか無骨な空気なのに不思議にゆるい・・。 不幸を描いているようで楽しんでいるよう。どのみち人生がドラマなのだ、すべての人の頭上には、日が沈み日が昇る。
 共稼ぎの夫婦が同時に職を失う。そこではソニーのカラーテレビはけっこう高価なもの。しかしまたものローンで買ったばかりでの思わぬ互いの失業。 不況だからなかなかその後は大変だ。 夫は妙なプライドで偏屈さも持ち合わせているから、日々、夫婦喧嘩がおきそうにも想像するが・・ちっとも起きない。 ふたりは不思議に静かな糸で結ばれている。 映画は、どんどん二人を奈落へと落していきそうな気配・・。 監督よ、いいかげんにしてあげて・・と言いたくなりそうな真際に、ふたりに浮き雲の空を見せてあげる・・。 公開当時より、今の日本はさらに不況に感情移入できるから、とても他人事に思えない人の多いところの物語だろう。 しかしふたりに、べつに笑顔もないが、とにかく黙って生きていくような姿はじわじわとすごいよ・・。

  生前の淀川長治さんの、この映画の褒め言葉の一部・・「チャップリン、バスター・キートンのユーモアも入っています。妙に悲しい話だけど、どこかふくふくとして楽しい。凄い大作ではない。楽しいの。映画の精神を持っている映画です。つまり映画の精神というのは、抱いている犬が喜んで喜んでいる、生活も苦しいけど犬を捨てない、そういう小さな話でもいいんです。何のセリフもなしにそれを見せるところが、この監督の上手さだ。味がある。小品として最高の映画だ。」ほんとうに、この映画での飼い犬のしっぽのふりかた、すごい演技です。いや、演技じゃないかな。(笑)

 後日談 : 初めて観た「カウリスマキ」作品でした。他の作品を何本か観て、深夜放映があり、数カ月後ふたたび観た。 彼の映画は観る度に深みから味が染み出て来るような「スルメ」仕様なのだと思った。・・というより、デティールの表情が寡黙なスタイルなのに豊かなのだ。それは確かに小津安二郎の映画を観る度に、そこにゆっくりと感じるものとの共通性があると思った。


●Tendernessのコメント---雑感

 映画の主人公はどうにも不幸・・。どうにも、というのは、そもそも生まれ持ったキャラが不幸のような気もするせい。 そのもっとも典型が「マッチ工場の少女」。と言っても、大袈裟に嘆かない彼らの日常の表情が、なんだかせつないほど淡々としているのは、そんな人物たちを登場させる監督の温度のある視線のせいなのかもしれない。
 仕事に情熱を持つわけでもなく、おおきな夢を将来に描くわけでもなく、日々、寡黙に、あるいは人生にただただ翻弄されながら・・、奇妙な運命に出逢っていくさまが、ときにはらはらさせるようなサスペンス仕掛けなのに、なんだか今まで味わったことのないユーモアが流れている・・。
 いじめられそうな匂いをぷんぷんさせて・・あれまあかれらは・・いつも出口のない方へと本能的に歩いていくようなかなしい愚かさ。そんな救いようのない主人公たちのようでいて、だけど、ぜったい憎めるわけはない彼ら・・。「ああっ・・( ̄□ ̄;、なにやってるの、ふぅ〜( ̄3 ̄;」。
 しかし、いつのまにかぼくらの視線も、カメラの向こうの監督と同じ温度を持っているではないかっ。


 ■「わたしが「浮き雲」を作ろうとしていたとき、フィンランドでは失業率が22%にも達し、友人たちも破産の憂き目にあっていました。それほどたくさんの人たちが仕事を失い、国中が絶望に覆われている状況のなかで、わたしはこの問題を見つめる映画を作りたいと思ったのです。結末については、ハッピーエンドにするしかありませんでした。 これはわたしが作った唯一のソーシャル・セラピー的な映画です。ただ本当は結末をもっと非情なものにしたいと思っていたので、納得がいかないという気持ちもありますが…」
 というのは、監督のインタビューからの抜粋ですが、これは「浮き雲」の制作動機なんかがよくわかる内容だ。 そういう意味では「マッチ工場の少女」は、悲劇的、非情な終りかたといえるだろうか。
 そして「コンタクト・キラー」も同じく、主人公がリストラされてからの運命、哀しくおかしなサスペンスの話だが、これはものすごい絶妙なバランスでハッピーエンドでおわるの。それがぼくにはじつに楽しかった。

 ■
「わたしはこれまで、文学や心理的なドラマからロケンロールまでいろいろな映画を作ってきました。そこに登場する人物たちは、わたしの若い頃の記憶がもとになっています。建築作業員や皿洗いなど、いろんな仕事をしたときの体験をもとに、人物を作りあげているということです。しかし二十年間も映画の世界にいたおかげで、ストリートは遠いものになり、人々を観察することができなくなりました。いまでは外から吸収したもので物語を作るのではなく、何もないところから作りあげているという気がします。一般的にいえば、次回作は、ガンアクションやSFを撮るのがノーマルなのかもしれませんが、幸運にもわたしはノーマルではありません。だからこれからも人間の本質を見つめる映画を作っていきたいと思います」
 彼の映画をつづけて観ていて 、たしかに「なにもないところから」作り上げようとしていく世界が徐々に感じられるような気がする。
  彼の映画を観ていると、人間はギリギリのところでこそ、ユーモアのちからを体得できるんじゃないか・・なんて思ったり、そんなことを考えてみたくなる。



■1996  Vlittj
制作: Sputnik Oy / Aki Kaurismki
所要時間: 4 min 監督: Aki Kaurismki 脚本: Aki Kaurismki 撮影: Timo Salminen 録音: Jouko Lumme 編集: Aki Kaurismki 音楽: Olavi Virta キャスト: Sulevi Peltola (私設職業斡旋所の男) Kati Outinen (Ilona Koponen)

■1996  Oo aina ihminen (Nuvole in viaggio )
監督: Aki Kaurismki 音楽: Markus Allan, Pauli Granfelt, Kari Lindqvist, Pentti Mutikainen, Tommi Parkkonen, Taisto Wesslin (マルクス・アッラン・バンド)
制作: Aki Kaurismki / Sputnik Oy
所要時間:
監督: Aki Kaurismki
脚本: Aki Kaurismki
撮影: Timo Salminen
録音: Jouko Lumme
編集:
舞台装置:
音楽: Anssi Tikanmki

キャスト: Sakari Kuosmanen (Juha) Kati Outinen (Marja) Andr Wilms (Shemeikka) Esko Nikkari (駐在) Elina Salo (Shemeikkaの姉) Markku Peltola (運転手) Ona Kamu (娼館の女) Outi Menp (娼館の女) Helka Viljanen (医師)

■1999  Juha  「白い花びら 」

  大変に強い感情を呼び起される作品です。 主人公ユハの誰に向けることもできない憤りと悲しさは、単なるメロドラマを越えた深みを持って、見る人を黙り込ませてしまいます。この作品、男の持つ、女の持つ、愚かさや、醜さや、残酷さや、そして脆弱さが、一言で言えば「人間の持つ弱さ」が凝縮されていて、恐ろしいような、すごい映画です。
  アキ・カウリスマキが大胆にサイレントに挑戦です。「何故今またサイレントか?」の議論に関しては、アキが「映画の歴史」に敬意を表して、音楽担当のアンシ・ティカンマキの「サイレントにしない?」という提言に乗ったという簡単な理由を挙げるにとどめます。それにしても、ティカンマキの創作エネルギーには驚かされます。 この映画、フィンランドだけでなく、国外でも大きな議論を呼び起こしましたが、それは必ずしもサイレント映画という理由だけではないと思います。ちなみにベルリンとヘルシンキでの初演では、音楽はこの映画の挿入音楽を担当したアンシ・ティカンマキとそのバンドの生演奏で行ったといういわく付きです。

  原作の小説は人間関係の葛藤(三角関係)を描くメロドラマなのですが、そこには1910年代という暗い弾圧の時代を背景として、フィンランド民族の反露意識がメタフォリカルに忍び込まされています。 一方、アキの映画ではフィンランドの都市化が始まる60年代を背景として、原作に「都市と農村」という新たな対立項が加えられ、映画の中でこれがかなりなウェイトで強調されています。そこには滅び行く農村への監督の郷愁と愛惜の念が感じられます。
  さてアキの映画と原作はストーリーの展開上、次のように決定的に違います。アキの映画では自分を捨てて、シェメイッカと駆け落ちするマルヤの気持ちをユハは置手紙を読んではっきり知っていたという点です。これによって、原作で主要な部分を示す二人の心の葛藤(マルヤが強引に拉致されたのか、それとも自発的に家を出たのかを憶測して苦悩するユハ。シェメイッカの本態を知ってからは、ユハのもとに帰りたいが、ユハが自分が喜んで家を出たことを知っているか否か、また生まれた赤子を彼にどう説明するか、などを逆に憶測して悩むマルヤ。)から、この作品が自由になり、登場人物を直截的に行動で描くことを可能にしています。 この切り替えなしには、このような心理的葛藤をサイレント映画として(会話なしに)描くことはほとんど不可能であったろうと思います。

  最後にユハが悲劇的な死を迎えるのは同じですが、原作では妻の失踪の真実を知った夫が生きる力を失い、自殺とも事故とも言える死を遂げるのに反して、この映画でのユハの行為は計画的な復讐であり、それに伴う死なのです。
  永い冬が終わり、湖の氷がとけ、雪解けのせせらぎが聞こえる頃、二輪草が森の木陰に真っ白いじゅうたんのように咲き誇ります。そして、ユハは斧を研ぎ、復讐の旅に出ます。彼はシェメイッカも、マルヤも殺そうとしたのでしょうか?  そして、それを思いとどまらせたのは何でしょうか?

  アキは小さな希望の灯を映画の最後に残してくれます。それは母子が大地に呼び戻されるように、群集に逆らって歩くシーンに凝縮されています。それはあたかも「生きる」ということの意味を我々に問いかけているかのようです。 自らの意志として? あるいはわれわれに与えられた使命として?  それは...もしや子供を殺そうとしたユハを思いとどまらせたマルヤが認めた交換条件なのでしょうか? いや、それとも、赤ん坊を奪いとった時、ユハが一瞬受けた「生命」の尊厳に対する啓示なのでしょうか?  きっと、そうに違いありません。 だって、あんなに子供が欲しがっていたのに恵まれなかったユハとマルヤ。そんな二人に大地が、キャベツ畑が授けてくれた赤ちゃんに違いありません。そこでは、その子がシェメイッカの子か否かということすら、もうほとんど意味のないことなのかもしれません。この問いかけをわれわれに投げかけた後のエンディングはもう「おまけ」なのです。
 主人公のユハは、果たさなければならない復讐を遂げた男の当然の報いとして、それに相応しい場所で死を迎えます。そして、もうそこでは音楽すら鳴りません。音もなくブルドーザーが動くばかりです。

 ・ 作品の断想  アキがいつかインタビューで言ったことば:
  「無声映画を作るということは会話の部分をすべて取ってしまえばいいという簡単なものではないよ。録音は全部やったんだよ、会話も含めてさ。あとは単純化の作業だ。贅肉を削ぎ落としていくわけだ。『白い花びら』は"音楽"と"選び抜かれた音"でできた映画だよ。」
 この言葉に興味を持って、この「選び抜かれた音」をピックアップしてみました。 全部で16音で、何とすべて機械、器具、乗り物、映画内演奏(バックの挿入曲以外)の音ばかり。人間の会話は全くなしです。例えば、車がらみの音が3つ、マイクロオーブンの「チーン」が1回、拳銃の発射音2回、斧を研ぐ音、髭剃の音などなど...監督!冗談がキツイ。 いや、これは人間の交わす会話の無意味さを皮肉ったものなのでしょうか? それとももっと深い意味が...?

  夫婦がまだ幸せだった頃、差し込む月明かりで、部屋の窓があたかもフィンランドの国旗のように二人が眠りにつくベットの上に映しだされます。その国旗が雲に覆われて暗くなっていく翌朝、シェメイッカが現れます。 このあたりのことを取り上げた批評もありました。シェメイッカはあくまでロシア的な名前。 原作の小説は1911年発表で当時はツァーリ、ニコライ二世治世下でフィンランドのロシア化政策の暗い弾圧の時代でしたから、その辺のニュアンスが原作にも、またアキのこの映画にも残されているのでしょう。 当時のフィンランドの独立運動に芸術家達の果たした役割は高いのです。

  作家ユハニ・アホ、作曲家ジャン・シベリウス、画家のガッレン・カッレラ、ペッカ・ハロネンなどの民族高揚の芸術運動は国民ロマン主義の名前で知られており、現在でも高い評価を受けています。ラバーダックを大事そうにバックにつめるマルヤ。彼女は世間並みの、都会の生活に憧れるのです。 川岸で結ばれるマルヤとシェメイッカ。落水して流れる一輪の「白い花」は無垢の時の終わりを告げるようです。 そのあと、マルヤは白樺の枝で彼らの敷物の回りを飾ります。まるで白夜祭の時に家を飾るように。白夜祭の夜に結ばれた 恋人たちのように。そしてラズベリーの実の首輪は「悔恨」と「喜び」の混ざり合った気持ちを指すのです。

  シェメイッカの妹、娼館(?)のマダム(エリナ・サロ)が唄うシャンソン『さくらんぼの実のなる頃』もいいですね。『紅の 豚』のジーナ(加藤登紀子)が唄うシーンを思い出した方も多かったのでは? kitayajinはあっちの方が良かったナー。
  シェメイカを、街を逃れて、田舎に、ユハのもとに戻ろうとするマルヤ。しかし、おなかにできた赤ん坊のためにイーサルミ 行きの汽車に乗り損ねてプラットフォームに崩れ落ちるマルヤ。これはあきらかにユハニ・アホの出世作『Rautatie』(『鉄道』)のなかで老夫婦が始めて乗ったイーサルミ行きの汽車から降ろされてしまう場面のパロディーです。人生の 皮肉な運命を、このパロディーを使ってうまく表現しています。 主人公のサカリ・クオスマネン、レニグラの一員として、いくつもアキの作品に登場しますが、これがはじめての主演で す。(ロッキーVIでは主演...?) この映画の演技と同じように、本物もぎこちない男です。独立して作ったバンドもぎこちなかったし、テレビ出演でもぎこちないですね。このぎこちなさがフィンランドの人々に愛されています。

●Tendernessのコメント
 カウリスマキの「白い花びら」は、なんとサイレント映画。 淀川長治さんが「小津やキャプラのような映画感覚です」 「チャップリン、バスター・キートンのユーモアも入っています」と、「浮き雲」を解説していたのが思いだされた。 亡くなった淀川さんは、この数年後の「白い花びら」は観ていないはずだ。なんともやっぱり映画の歴史の生き証人、キラリと光る洞察力の際立つ話だ。

  「白い花びら」は、ぼくにはチャップリンの「街の灯」が意識された映画ではないだろうかと、観終わって思われた。 「白い花びら」この映画のものがたりは、かなりシンプルなのだが、しかもいつにも増して悲劇的な結末、が、正直に描けばどうしようもなく、ある「救い」と重なるという、なんとも不思議な結末の生み出されかたなのだ。
 これは単にカウリスマキが好奇心でサイレント映画に挑戦したわけではないということがわかる。
 この昔のサイレントスタイルで描かれた事で、この悲劇的物語を観客が拒絶せずに観ていられるとでも、まあ大袈裟にいえるような、特異な気分のする味わいを持つ映画だった。


★カウリスマキ関連リンク紹介 ★

「過去のない男」オフィシャルサイト

ユーロスペースの「特集
ユーロスペース
フィンランド政府観光局

制作: Sputnik Oy
所要時間:
監督: Aki Kaurismaki
脚本: Aki Kaurismaki
撮影: Timo Salminen
録音:
編集: Timo Linnasalo
舞台装置:
音楽:

キャスト: Markku Peltola (Lujanen)
Kati Outinen (Irma)
Annikki Tahti (救世軍オフィサー/歌手)
Juhani Niemela (Lujanenの友人)
Esko Nikkari (ビジネスマン)
Sakari Kuosmanen (Anttila)
Outi Maenpaa (銀行員)
Elina Salo (造船所の人事課長)
Peter von Bagh (救世軍オフィサー)
Tahti (Hannibal ワン君)

■2002 Mies vailla menneisyytta - Man Without a Past (L'uomo senza passato) 「過去のない男 」

 アキ・カウリスマキは2003年2月に発行された『過去のない男』の脚本(ISBN 951-0-27857-2)の序言にポーランド生まれの英国作家ジョセフ・コンラッドの『ノストロ−ム』の書き出しの一文を載せています。

 「エスパニア統治時代と、それに続く年月、このスラコの町では牛の生革とインディ ゴ商いの港の活況ばかりが目について、オレンジのたわわに実る果樹園の美しさや、 それが語る時の重みに気づく人すらないようです。」

 かっての植民地貿易の生革やインディゴにも匹敵する、現代の植民地貿易(?)を代 表する電子製品や消費物質。それらが、次々とコンテナーで運ばれてゆくヘルシンキ の港。その片隅にある小さな吹き溜まり。
 この映画は「善意」という名のオレンジがたわわに実る美しい果樹園の物語です。誰も気がつかない小さな楽園の物語です。

 カウリスマキ流のユーモアとペーソスがたっぷり盛り込まれたこの人情話で、一見重要な要素を占めるかと思われる「記憶喪失」は、Kitayajin流の解釈ではむしろマイ ナーな要素であり、むしろここでアキが伝えたかったのは「記憶喪失」ではなくて「過去喪失」ではなかったのでしょうか?
 主人公がかろうじて憶えている過去は「列車に 乗っていたこと」だけです。この映画のイントロを主人公が列車で南部に仕事を求め て旅する場面から始めたのも、監督がこの「汽車に乗っていること」こそが「一般の社会生活になんとか繋がり、乗っかっている」ことを暗示するための設定であることが判ります。 過去が偶然判明して、かっての妻との生活を清算して、再びイルマのいるところに戻る過去のない男。彼が最後に乗る列車で食べるお寿司は、彼がもう決して口にすることはないであろう、国際化の具現ともいえるグルメであり、お酒なのです。  この最後の晩餐を終える彼は、ここでグローバルぜーションへの、一般的な大衆消費生活への快別を意識しているにちがいありません。 彼を待つのはちいさな楽園。そこで主人公の周りに登場する人々はみんな、列車をおりてしまった人たち、いや列車を下ろされてしまった人たちです。各自各様の事情により「過去喪失」という共通の背景を持った人たちです。  過去を語れない人たち、語らない人たち。名もなき人たちが、外界の冷たい強風を避けて風待ちをする港のように、かろうじて見つけた楽園。 そこで営まれる善意に満ちた生活。この映画はそんなひっそりとした、つつましい 生活への賛歌なのです。

 最近のアキの作品の主流となってきた、ストレートで社会性の強いテーマの作品で す。 「社会不正義3部作」の第2弾になるこの映画はシリーズ前作の『浮雲』が「失業」 をテーマに取り上げたのに続いて、「ホームレス」をテーマとして扱っています。た だ、こうしたテーマをリアリズムの手法で描いていく時に陥りがちな重苦しさを救ってくれるのは、随所に散りばめられたカウリスマキ流のギャグと口語体で語られる台詞のぎこちなさ、それにあまりにも淡々とした主人公や周りの人たちの奇妙なおかしさです。  ここに織り込まれている喜劇的要素の多くは、以前のアキの作品に比べてフィンランド人でなければ気が付かないようなインサイダー的なものが多くなっているのが特徴です。こうしたギャグの内向化に反比例するかのように、この作品がアキの作品の中で一番国際的な評価を受けているのは、とても皮肉な気がします。

  さらに、ここで気が付くのは、彼が最も尊敬する監督であるロベール・ブレッソン流の「俳優の演技の排除」をさらに進めて、より多くの登場人物に本職を採用するという傾向です。それもcameo出演と言う形でなく、本物の弁護士や歌手やヤクザをまさにその役で参加させるというもので、ブレッソンのシネマトグラフ化というか、ドキュメンタリー化という傾向をさらに推し進める意図さえ感じられます。

  映画の最も胸に迫るシーンはラストシーンです。国境の向こうに残された故郷の町 ビープリ。今は見る影もないほど荒廃してしまったかっての国際貿易港。その冬菩提 樹の花の美しいモンレポ公園を偲んで唄うかっての歌姫、アンニッキ・タハティ。  『憶えているかい、モンレポ?』。 彼女の歌声が消え入るように流れていく中、名もなき踏み切りの向こうに続く小道を歩き始めるイルマと過去のない男、その二人の影を永久にかき消してしまうかのように、現代社会の大動脈、線路をコンテナー列車がゆっくりと通り過ぎてゆきます。そして、この二つの軌跡はもう決して交差することはないのです。  (2003.5.18 加筆)
**************************
●Tendernessの感想はこちら
★邦題「街のあかり」のkitayajin さん感想ページ はこちら(2006.3.18)

(文・kitayajin - 河田舜二)

■2002  Ten minutes older - the trumpet
 エピソードフィルム『Ten Minutes Older - The Trumpet』の一部として2002年5月にリリースされる。

制作: Aki Kaurismki  所要時間: 10 min  監督: Aki Kaurismki  脚本: Aki Kaurismki  撮影: Timo Salminen, Olli Varja  録音: 編集: 舞台装置: 音楽: Marko Haavisto ja Poutahaukat Piotr Tchaikovsky

キャスト: Kati Outinen (女) Markku Peltola (男) Sulevi Peltola (タイヤ会社の男) Kirsi Tykkylinen (切符売り) Aarre Karn (貴金属商) Janne Hyytiinen (ウェイター) Pirkko Hml

index  | No.1 | No.2 | No.3 | No.4
CINE ART 5_4

Home
pageの上へ戻る