愚行連鎖 珍品入手-続き:4

GB楽器博物館

Niセルマー deマカフェリ(にせるまー・でまかふぇり…)
経過報告
前回発注した“DR Tailpiece For Maccaferri”は少量輸入品と言う事で、入荷までに今しばらくの時間が掛かると言うことである。

発売元のStringphonicに直メールオーダーならすぐに手に入ったのかも知れないのだが、不精者なので、行きつけの楽器屋に頼んでしまったのであった。



Intermission

ジプシー音楽とその周辺

2003年はジャンゴ・ラインハルト没後50周年と言う事で、世界的な注目を集めているジプシー(ロマ、マヌーシュ:後述)の音楽。
「ジプシー音楽」と一括りにしてしまうと、その範囲は定型を持たないくらい広がってしまうのだが、ここではジャンゴ・ラインハルトとその周辺に限って論を進める。
実は我が国でも、ジャンゴの音楽はかなり昔から紹介されており、知る人ぞ知る。いや、多くの人は一度位は耳にしたことがあるはずなのだ。
映画「ルシアンの青春」ではジャンゴのスウィングが軽快に使われていたし、最近はジャンゴやジプシー・スウィングそのものをテーマにした映画も幾つか封切られている。

>ショコラ:Chocolat
>ギター弾きの恋:Sweet and Lowdown
>僕のスウィング:swing・ 特にお奨め!

ルシアンの青春

ルシアンの青春[LACOMBE LUCIAN]1973 仏/伊
1974年 第27回 イギリス・アカデミー賞受賞
フランス・ヌーベルバーグの巨匠ルイ・マルの製作、演出
あの、史上最大の作戦、Dデー(第二次大戦、連合軍のノルマンディ上陸作戦)直後のフランスの片田舎でのナチとフランス・レジスタンスとの死闘。
過酷な運命に巻きこまれた若者とナチに追われるユダヤ娘との純愛を描いた秀作。


ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt:1910-1953)

Django Reinhardt 1930〜50年代に主にフランスで活躍したジプシー・ギタリスト。
ジプシー・スウィングの創始者である巨人で、今でも多くのファンがいる。
ジプシー・スウィングは20〜30年代にジャンゴ・ラインハルトによって作り上げられた孤高のスタイルで、スウィング・ジャズをジプシー的解釈した音楽。マヌーシュ・スウィング、ジプシー・ジャズとも呼ばれる。
多くのジプシーの少年達と同じように、彼も物心付くと楽器を手にし、最初はバンジョー、12歳になってギターに手を染める。
当然、彼は最期まで音楽教育は受けなかったし、読符も出来なかった。


彼はミュゼット(ジプシーの門付け街頭音楽)ではメインでは使われることの無かったギターに着目し、特殊な構造のギター:マカフェリによって独特な音楽世界を作り出した。

Django Reinhardt 不幸な火災事故でギタリストの命とも言える左手の2指(薬指、小指)の癒着と言うハンデを背負うが、障害を乗り越えて3本指による独特の奏法を編み出す。
残された映像などで見る彼のフィンガリングは、自由になるたった2本の指が華麗に指板上を踊り、その優雅な動きは感動的でさえある。
ちなみにジプシー・ジャズのギターではピックも通常の物より数段分厚く、硬い物が用いられることが多い。
ジプシー・ギタリストの多くは貝ボタンや石、堅木等を自分で削ってピックを作ったらしい。
このピックも独特な音色の一因となっている。

Django Reinhardt ジャンゴの正式デビューはルイ・ヴォラの楽団に加わった1932年、パリとカンヌでのことであった。
1934年にフィドル(バイオリン)奏者のステファン・グラッペリ(彼は高等音楽教育を受けたフランス人で、ジプシーではない)と「フランス・ホット・クラブ五重奏団」を結成した。
「フランス・ホット・クラブ五重奏団」は弦楽器のみの特異な編成であるが、ドラムやピアノなどの運搬に労力を必要とする楽器を持たない編成は、常に移動を伴うジプシー音楽の伝統を考えれば納得のゆく、と言うか当然の結果であろう。

写真のジャケットのギターはマカフェリの中でも特に特殊な構造(内部に共鳴箱を持つ)のDホールと呼ばれる物。

Django Reinhardt 後にジャンゴはデューク・エリントンの招聘により渡米し、アメリカのジャズ・シーンにも絶大な影響を及ぼした。
当時のアメリカでの評判は、必ずしも芳しいものとは言えなかったようではあるが…

渡米時に知り合ったGibsonのエレクトリック・ギターに名を残す、レス・ポールとも親交が深く、不遇というに近かった最期、その葬儀はレス・ポールが執り行ったという話も残っている。

フランス・ホット・クラブ五重奏団


参考資料:ジャンゴ・ラインハルト ジプシー・ジャズ・ギター奏法(有田純弘/リットーミュージック)
VINTAGE GUITER Vol.8 まるごと1冊セルマー/マカフェリ(エイ出版)他


ジプシーについて

流浪の民ジプシーは11世紀頃に、民族発祥の地とされるインド北西部から旅立ち、トルコ、エジプト、アラブからギリシャを経てヨーロッパに入る数世紀の苦難の歴史を旅と共に歩み続けた悲劇の人々である。

ジプシー達はヨーロッパにたどり着いたものの、15世紀後半から漂泊民への国外追放等の迫害が激しくなり、彼らは再び放浪生活や更なる移動を余儀なくされ、ヨーロッパ全域に散っていった。その後、17世紀にポルトガルからアフリカ大陸の植民地やブラジルに追放され、19世紀後半には東欧諸国からアメリカ合州国に大規模な移住が行われた。
近年では、象徴的な、ナチ時代の虐殺がある。ナチ時代の犠牲者数には諸説あり、最少で20万人、最大で150万人、定説では50万人だとされているが、ユダヤ人に対するホロコーストの人数カウントとされている内、かなりの数、半数近くの被害者が実はジプシー達だったという説もあるくらいである。
西欧においては、現在でも社会、経済、政治、文化の各方面での差別は根強く残っており、1989年からの東欧の崩壊の過程で各国における彼らへの迫害が表面化し、最近ではコソボの紛争において、アルバニア系住民とセルビア系住民の間で、どちらの民族グループからも敵視され、差別されるという事態も問題となり、ドイツがコソボからきたセルビア人難民とその他のマイノリティ(Gypsyを含む)に対して帰還するように迫っている。(何処へ?)

ジプシーと音楽

ジプシーの非定住生活は民族の「習性」ではなく、長い長い社会的差別の結果、余儀なくされた生活様式と言える。
迫害を繰り返された彼らにとって「安住の地」等どこにも無く、自らの生命を守るために連綿と流浪=逃亡生活を続けざるを得なかったのだ。

そんな歴史の事実が「ジプシーは漂浪の民」という概念の元となっている。

文字をもたなかった彼らは、旅の記憶、民族の歴史を歌や踊りで後世に託した。
彼らの大きな収入源は、神秘的な占い(タロットの起源は彼らだという説もある)や巡る村々の冠婚葬祭に欠かせない「音楽」だった。
生活の糧としての音楽:門付け芸は、訪れた地の文化と邂逅、相互に影響しあい、新たなスタイルを生み、その長い長い彷徨の記憶が、ジプシー音楽の持つ多面性の根幹を成していると言える。

ジプシーの音楽は、バルトークやリストなどクラシックの作曲家にも多大な影響を与え、また、スペイン南部ではフラメンコを生み出した。

彼らの中には現在でも旅を続ける人々もいるが、多くはスペイン、フランス、東欧などに定住している。


ジプシーという呼称について

“ジプシー(Gypsy/Gipsy)”とは、そう呼ばれる人たちが自分たちで名乗った呼び方ではない。
“ジプシー”の語源はフランス語の“ジタン(Gitane)”、スペイン語の“ヒターノ(Gitano,女性形はヒターナGitana)”とおなじく、エジプシャン(Egyptian:英語)が語源で、エジプトの方から来た人々(否定的意味を持った…)と言った意味だろうか。
前述のように、フラメンコは彼ら(ヒターノ)由来の音楽・舞踊である。
フランス語では“チガーヌ(Tsiganes:Cigano=“Gypsy”に相当するポルトガル語。語源はギリシア語)”“マヌーシェ(Manus/Manouche)”ハンガリー語では“ジィガーヌ(=Zigeuner?)”“チガニー(Cigany=Cigano)”等とも呼ばれる。

チガーヌはフランス国内のジプシーに対する総称で、これが広く一般に用いられているそうだ。その他フランスでは、東欧系ジプシーを“ロマ(Roma)”、スペイン系ジプシーを“ジタン(Gitane)”、放浪しているジプシーを“ボヘミアン(Bohemien:彼らがボヘミアから来たとされたことから)”という風に使い分けている。

ドイツでは、彼らの発祥地といわれるインド北部「シンド(Sind)」地方から来た“シンティ(Sinti)”ともいう。発祥の地インド・ヒンズー語の“ドム(Dom/ドミ:Domi)”と“ロマ”とは元は「人間」を意味する言葉であり、言語学的に同根だそうで、かつてインドでも、彼らはカースト外で迫害されて生きていたのだろう。

ギリシア人からは異教徒集団を意味する“チゴイナー(Zigeuner)”とか“チガーノ(Zigano)”と呼ばれ、これが前述のポルトガル語やフランス語の呼称の元になった。
名曲チゴイネル・ワイゼンのチゴイネルである。
ブラームスの「流浪の民」、これもジプシーのことに他ならない。

前述のように耳馴染みのある“ボヘミアン”、更には“タタール(Tatar=塔塔爾:韃靼人だったんじん)”=中国の少数民族、“サラセン(Saracen)”等の言葉も彼らを指す事があるようだ。これらはエジプトからの人=Gypsy同様、彼らの長い旅の経由地からの事実混同の定着と思われる。

タルタル・ソース(茹で卵をベースとしたタレ:魚介のフライなど、特に牡蠣フライに美味である)、タルタル・ステーキ(≠ハンバーグ)は韃靼人のタレ、韃靼人の肉の意味である。
モンゴル系遊牧民族“タタール:韃靼人”と呼び、その「タルタル人」は刻んだ肉(恐らく馬肉)を、生のまま細かく潰して食べる習慣があったとされ、これがドイツの港町ハンブルグに伝わり「タルタル人のステーキ」となる。
時代は下りドイツ系移民がこれをアメリカに伝え、牛肉などをミンチにしてかため、焼いて食べる「ハンバーグ(ハンブルグ風)・ステーキ」となったと言うエピソードを私は支持する。
ソースの方は、フランス料理が出自のようで、その風味から「異国風」を象徴して「タタール地方の」と言う形容をしたという説が一番信憑性が高い。
現在一般的なタルタル・ソースは、マヨネーズをベースにきゅうりのピクルス、玉ねぎ、パセリなどをみじん切りにしてまぜた物である。
「韃靼人の踊り」という有名な曲もある。

伝統的に「金物職人」をしていた彼らのグループを“フェラリ(Ferari)”、“へラリ(Herari)と呼んでいると言うことも知った。あの「スポーツカー・跳ね馬フェラーリ」も出自はジプシーだったのだろうか?

Gitane アラン・ドロンの傑作映画
「ル・ジタン」[LE GITAN]1975 仏/伊
このジタンという渾名で呼ばれる主人公もジプシー出身という設定だったのだろうか?
良く覚えていないのだが…(この程度の認識である。私の意識は)
イメージはエキゾチックなデザインのフランスタバコ…位の貧しい物である。


彼ら自身の多くは、侮蔑的な意味合いを持つ差別呼称とされる“ジプシー(Gypsy)”という呼び方を好まず、“ロマ(Roma)”あるいは“ロム(Rom)”、“ロマニー(複数形ロマニーズ)”または“シンティ(スィンティ)”と称しているらしい。
しかし、中東や北アフリカでは、多くの者がいまだにドムやドミと名乗っているし、スペイン・ジプシーの成功者は自ら誇りを持って“ヒターノ”と自称するそうだ。
日本でも、“ジプシー”という呼称をやめ、“スィンティ・ロマ”と呼ぶようにする動きがあるようだが、『そもそも全世界のジプシーを統べる「民族名」はないため、機械的に“ジプシー”を“ロマ”に置き換えることは不可能だし、そのような置き換えは非ロム・ジプシー(と言う人々もいるらしいのだ)の排除を意味している。』と言う意見もある。
本人が好まない呼称を敢えて使うのは問題であるし、用語の使用には十分な注意を払わなければならないが、言葉狩りの自己満足で終わるのは問題の解決にならない。

以前、「エスキモーは差別語であるので、イヌイットと呼ぶべきである」という主張に対し、当のエスキモーが「イヌイットは単なる一部族名。一括りにしないで欲しい」と述べているのを、どこかで目にしたことがある。

ヨーロッパで白人が“ジプシー”と言う呼称を使うときは、少なからず差別的意味合いがあるらしいが、日本人の語彙にあるカタカナの“ジプシー”と言う単語には、差別的な意味合いは多分、無いと思う。
事実、私自身は彼らに対して(恐らく)全く差別意識を持っていないし、西欧に於ける彼らへの差別の現状がそもそも見えてこない。今回調べた内容も、恥ずかしながら、この歳まで知らないことだらけだった。本当に彼らの全てが“ジプシー”と言う名称を嫌っているのかも判らないし、更には私の中では新しい用語がどうもしっくりこないので、当面は敢えて“ジプシー”と言う表現を使っている。

なお、英語圏では“Gypsy”の頭文字を大文字にすることで差別的な含意を払拭できるそうであり、本文もそれに倣って、同様の意識で全ての該当単語の頭文字を大文字で表記した。

・下記のサイト他を参考にしました。
>反差別国際運動
>ロマ情報館(サイト消滅)
>株式会社プランクトン

ロマ:ジプシーのトレーラー・ハウス
商品到着後に、続く…



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