Tenderness Homepage
CINE ART 3

フランソワ・トリュフォー
の柔らかい話

●大人は判ってくれない

アントワール・ドワネルものとして最初の作品であり、トリュフォーがリベラルな批評家から映画作家としての地位を確立した作品。詩人で、「オルフェ」などの映画の傑作もあるジャン・コクトーも絶賛した。

アントワール・ドワネルはトリュフオーの分身ともいわれた登場人物で、まさにこの作品から、この人物像は青年期、そしてその後の人生を、トリュフォー映画の観客も、その映画の中で共にたどる事になる。
演じているジャン=ピエール=レオーの人生さえもオーバーラップさせて、巻き込んだこのような関係はめずらしい。
フェデリコ・フェリーニにとってはマルチェロ・マストロヤンニが思い浮かぶが、トリュフォーとレオーの関係は不思議な親子関係にも似て、レオーなしにはトリュフォーがこの自伝的な作品を取り続ける必然性は生まれなかったかもしれない。

この映画でデビューしたレオーは、ぼくにも深く感情移入のできる稀なフランス俳優で、この映画での彼は、そのマスクといい、また特に演技指導から生まれて来たわけではないのだろうと思える、陰影のあるその表情は、映画を観た人の心に永く留まる。
多くの男性にとっても、そんな普遍的な少年像としての原点、元型でもあるのではないだろうか。

この映画で少年の置かれている環境は、現在の日本の家庭崩壊という話題にひどくに近いものを見つけられるのではないだろうか。
日々のニュースを観ていると 、そう思えるのだ。
この映画のそんなレオーの孤独な逃走は、観る度に胸が痛くなるような気持ちにさせられる。

ビデオでは「あこがれ」が一緒に観れる。この短い映画は、ぼくにとっても8mm制作に手本となる。とても好きな小品。

TRU FFAUT

フランソワ・トリュフォー
フィルモグラフィー

1955 ある訪問
1957 あこがれ
1959 水の話
1959 大人は判ってくれない
1960 ピアニストを撃て
1961 突然炎のごとく
1962 二十歳の恋
1964 柔らかい肌
1966 華氏451
1967 黒衣の花嫁
1968 夜霧の恋人たち
1969 暗くなるまでこの恋を
1969 野生の少年
1970 家族
1971 恋のエチュード
1972 私のように美しい娘
1973 アメリカの夜
1975 アデルの恋の物語
1976 トリュフオーの思春期
1977 恋愛日記
1978 緑色の部屋
1978 逃げ去る恋
1980 終電車
1981 隣の女
1983 日曜日が待ち遠しい!

●二十歳の恋

二十歳になったアントワール・ドワネルの一人暮らしの日常を描いた作品。
タイムレコーダーにカードを入れて、毎朝レコード工場勤め。
儚い恋の行方にぼくらも自らの青春を重ねる。

ちいさなアパートのリアルな生活感がとても興味深い。パリの街で日々出遇う様々な人、そして恋人・・。田舎から都会へ一人出て来た青年には、共通の心の風景を感じさせる。

そのあまりに親近感を感じさせるこの青年像に、自らの東京での最初の数年を重ねて、甘酸っぱく、またひりひりするような気持ちでぼくはこの映画に接したが、そんな人も多いだろう。
そんな青年期の・・都会の孤独を、そのままにスクリーンに映し出されているようで他人事と思えない。

いったいぼくらは何処へ行くのか・・・。
アントワール・ドワネルとぼくらの、未知なる日々は続くのだ。・・街なかにある彼のアパートの窓から、「G線上のアリア」が鳴り響く光景は忘れられない。

『私にとってもっとも興味があるものは人間とその感情です。批評家たちはその点を追求して、私が理性的ではないとか、感情に流されやすいとか決めつけることが多い。人間とその感情に興味を持ちすぎることが作品の魅力にもなっているが弱味にもなっていると。
映画作家は自分の作品についての批評をひどく気にするものです。もちろん、わたしもその例外ではありませんが、ただ、私自身が批評家だったこともあって、どちらかと言えば普通 よりは気にしない方だと思います。 書いたり語ったりすることを軽蔑しているわけでもなく信用していないわけでもありませんが、何を言われても、そうたいしたことではないと考えているだけです。
「トリュフォーはやさしく傷つきやすい、感傷的だ」と言われても、本当にわたしの作品を見てくれているひとたちはそうではないことをよくわかってくれているし、「トリュフォーのやさしさ」などといった言いかたは間違っていることを知っているからです。
わたしの映画は感情にもとづいてつくられてはいるけれども、感傷的ではありません。たとえば「華氏451」や「柔らかい肌」は「つめたすぎる」「ドライすぎる」とか言われたものです。
「感傷的(センチメンタル)」という形容詞は軽蔑的な意味をこめて使われますが、たしかにわたしは最も多くの場合、心や感情を描いているので、この誤解もよくわかるのです。そんな誤解は迷惑だ、不愉快だとは思っていません。』

『わたしはいつも現実の人生よりも、書物や映画に描かれた人生の方を愛してきました・・・・わたしは観光のためにどこかを訪れたことすらないのです。少々異常かもしれませんが、本当にそうなのです。・・』

●柔らかい肌

中年の男の色恋沙汰の行く末・・と言ってしまうと不謹慎な話みたいだが、まあ話の中身はその通りなんだけど、ここまで丁寧に映画的な不倫を描いてくれるとうれしくなる。

モノクローム映像がこんなに官能的な匂いたつような効果があるのだという事をもはじめて体験した。
カトリーヌ・ドヌーブの姉か妹の方が出ていて、かのドヌーブより実に魅力的に感じるのだ。彼女は25歳の若さで事故で亡くなった。とてもみんなに惜しまれた、人間的にも女性としても魅力的な女優だったらしい。

それからそれから・・結末をばらしてもさほど支障はないのだけど・・というのは、ずいぶん昔の映画だし、しかも「結末を話さないでください」といった、お話だけに頼るような、やわな映画ではないから・・、それでも「奥さん怖い」・・という人は縮み上がるだろうとだけ申しておきます。この映画のモチーフは実際の事件の新聞記事から取られている。 トリュフォーは「突然炎のごとく」のアンチテーゼ的な意味を持って製作したようだ。つまり恋愛讃歌の作家と見られるに自分に対する挑戦なのか・・。
゜こんな気の滅入る作品は当たらないだろう」と思った通り当たらなかったらしいが、けっこう好きな人も多く、評価は高かった記憶がある。ぼくも好きな作品だ。

これまで書くのを忘れていた。トリュフオーの映画のサウンドトラックは、「大人は判ってくれない」からジョルドュ・ドルリューという映画狂の作曲家がずっと作っているというのだが、それは耳について離れないような独特で甘く、劇的で軽い・・非常にフランス的とも感じさせる素場らしい音楽である。

●私のように美しい娘

ストーリー的には、あまり記憶している事がないけど、とても面白かった印象がある。このころのトリュフオーの作品には女性がまさにミューズとしての存在であるかのように、映画も彼女たちの魅力で引っ張られていくようなところがある。
フランス女性の自由な肉体感も男性にはたまらないかも。
再見したらもっと詳しく書きます。

●恋のエチュード
もっとも繰返して観たくなる 作品として、この「恋のエチュード」や初期のアントワール・ドワネルものがある。
やはり、ジャン=ピエール=レオーの出演作でもあるからなのか・・。

登場する名前は違うけど、役柄的には彼そのものという感じ。しかし、正直に言うと「大人は判ってくれない」のレオーにあったような野性的な感じは、その後の彼からは、どんどん無くなっているように思えるのは何故だろう。
早くから俳優という仕事に天職を見つけた幸運か・・はたまた・・・。
しかし、それはそれで、レオーの繊細さと優柔不断的な風貌と演技には、チクチクしてくるような・・そんな観ているものをセンシティブにさせるものがあるのだ。

トリュフォーはレオーを現代的な青年像としてではなく、古典的なロマンチシズムの中にある青年像として、自らの描きたい世界を託しているようだ。トリュフォーは新しいものを追っていくタイプではないと自分でも言っている。どちらかというと過去に題材を求めるタイプの作家だという事だ。

この映画の原作は今回紹介できなかった「突然炎のごとく」の作者でもある。話では無名の作家らしいのだが、その名はアンリ=ピエール・ロシェ・・なにかトリュフォの映画に出て来そうな名だ。二作とも彼の実人生から題材が小説化されているという。
男女の愛・・というものを、これほど深く見つめるというのは大変な作業だろう。変な言い方なのだが・・。
この映画を、トリュフォーは新たに初めての第一作のようなつもりで取り組んだという。その手ごたえや緻密な表現は、そのころ若いぼくにも充分伝わった。映画館で観た初めてのトリュフォー映画だったと思う。封切り後二番館での三本立ての中の一本だったはずだ。それは、映画の「芸術性」「詩的性」「劇性」「フレグランス」であり、人の生理にすら伝わる情感を強く感受させる経験だった。今思えば、トリュフォーの女性的感性をも印象に残った作品だったのだろう。

ナレーションの素晴らしさも特徴。 トリュフォーの映画にはナレーションは多いが、やはりフランス人のプライドでもあるというせいかどうか・・、いわゆる棒読み的な口調で語られるのだが、それがかえって感情を露にするようで効果的なのだ。

二人の姉妹とレオーの・・官能ではなく感情、・・の軌跡を描こうとしたとトリュフォーは語っている。まったくその通りの出来映えだ。
・・でもぼくに言わせれば、やはりこの映画の映像が強烈に官能的であり、しかも気品に満ちていると感じるのは、アルメンドロスという名カメラマンの腕なのだろうか・・。
アデルの恋も終電車も、彼の撮影である。

大林宣彦監督も、この映画には深い情熱を持って語られることが多い。

●アデルの恋の物語

ビクトル・ユーゴーの娘であるアデル・ユーゴーの出逢った一つの恋から始まる波乱万丈の物語り。
これは彼女の生涯書き続けた日記の実話に基づくのだから・・・・、
それも並みの恋する姿ではない。
文豪の娘だからかどうは別にして、観ていて「すざまじい」という表現が浮かんでくるのだ。

主演のイザベル・アジャーニは、この映画で彼女の存在の印象を決定付けた。やや狂気を孕んだような彼女の美しき視線は、その後の出演作でも見られるが、アデル役ほど強烈な印象を超える事は未だにないのではないだろうか。

恋いこがれる相手は、ひとりの平凡なプレイボーイである軍人にしか見えないが、彼を世界のどこまでも捜し追い続けて、ついには狂気に至り、目の前にその恋人が現われていても気づかず、虚空を見つめたまま、ぼろぼろになった衣服で彷徨う姿が、強烈なパッションを持って描かれている。

トリュフォー自身の愛に対する価値観が現われているような感じがするのは、この後に作られる「隣の女」を重ねてみると、あながち間違いでもないのではないかと思う。

「野生の少年」では主演すらしているトリュフォーは、この映画でも少しだけ出演している。
写真の左は彼である。今ではスピルバーグの「未知との遭遇」に博士役で役者として出ていたことを、よく知っている人は少ない。

●トリュフォーの思春期
これは子供の登場する映画としては個性的な名作である。
演出にプレッシャーを受けていない、そんな登場する子供のナチュラルな姿を当時、映画で観る事はあまり経験がなかった。
ドキュメンタリーを思わせるタッチなのだが、子供たちのさまざまな日常的なエピソードが、はらはらどきどき・・しかも、フィルムの鮮明な映像の色彩が印象づよく、観終わって深い満足を感じた作品。
ただでさえ、金髪は絵になると・・そんなこともフランスの子供たちを見ていると感じさせられる。

たくさんの子供たちがランダムに登場する。どの話も生き生きとした表情が全編にみなぎっているかと思えば、なかには、悪戯と犯罪のぎりぎりみたいな少年たちの日常もある。家庭崩壊の少年の痛みもある。しかし一方では トリュフオーの映画の中ではもっとも明るい、太陽の光が感じられた作品かもしれない。
アパートの上階の窓から落ちる赤ん坊のエピソードは語り草になるほどだった。
とくに、このエピソードのドキュメントなカメラワークと映像は記憶に残る。
いつも、もう一度観たいと思っていたが、なかなか機会がなかった。
何時の間にかビデオ化されていて(トリュフオーの作品はほぼすべてビデオ化されている)見ようとは思うのだが、
当時フイルムで観た素晴らしさを壊しそうで躊躇してしまう。
実はフェリーニの「アマルコルド」をビデオで見直してがっかりした経験があって、そのせいなのだけど・・。

●隣の女
これはトリュフオーの映画としては最初に観たのは深夜のテレビなのだけど、それでも凄い衝撃的な出会いになった。
ジエラール・ドパルデューは、もういまでは有名な俳優になったが、その頃はちょっと珍しい俳優に思えた。この映画の頃はまだ割とスマートで好男子に見えたが、今ではやや怪物的な感じもある。
それにしてもトリュフオーの映画にはよく拳銃が出てくる。
しかしこれは「柔らかい肌」とは違っていて、一言で不倫の話なんて言えない深い因縁のある背景なのだが、それは観てもらわないと面白くないだろう。多分、小説にしても立派に成立して読みごたえのある話になるだろう。
トリュフオーを不健全とか不道徳とか・・通俗的とか・・そんなふうに思ってしまう人は、この映画に至っては呆れたり怒り出したりするかもしれない・・それは大袈裟だろうか。
亡くなった池田満寿夫がトリュフォーのベストワンにしていたけど、それはとてもよく分る。彼の愛と性に対する表現の究極を感じたのだと思う。
この「隣の女」にしても「柔らかい肌」にしても実に胸騒ぎのする映画で、緊張感の無い、あからさまなだけのサスペンス劇場などを観るより、絶対の自信を持ってお薦めする。

主演のもうひとりはファニー・アルダン。日本の女優でいえば倍賞美津子を想像させるのだが・・すべて大づくりな体格と顔の目鼻立ちが女優としてはスクリーンで映える人で、不思議に強いセクシーさが漂う。トリュフォーの映画に出演する女優はみんな「匂い」を感じさせるセクシーな人が多い。しかし・・待てよ、彼女にしてもこの映画の・・それが・・ただならないのは・・やはり、トリュフォー作という・・由縁なのかもしれない。
彼女はトリュフォー最後の作品となる「日曜日が待ち遠しい」にも出演する。

●終電車

カトリーヌ・ドヌーブとドバルデューの出演作。
背景はナチス支配下のパリ・・演劇人たちの話だったと思うが、それがあまり印象になく、カトリーヌの金髪の美しさばかりが記憶にあるのは、またしてもフィルムのおかげかもしれない。
市民ホールの上映会で観たのだが、多分、だから16mmのはずだが、充分に密度のある美しい映像だった。ステージのドヌーブの美しさも、女優名利に尽きると思わせるほど・・。これも撮影のアルメンドロスの腕でもあるだろう。

これは、また今後のバージョンアップで加筆することにします。・・というのは再見する必要があるようなので・・・。

※このページの写真・引用は「トリュフォーによるトリュフォー」
日本語版1994年、 Libro出版、
その他パンフレット・各雑誌資料 より転載しています。

 
●アメリカの夜

先ほど紹介した「トリュフォーの思春期」と、この「アメリカの夜」は、フエリーニの「アマルコルド」と「インテルビスタ」に素材の共通性が感じられるのだけど、まったく個性を異にするふたりの映画作りを象徴するようで、そういった意味でも興味深いものも感じる。これも封切りで観たと思う。で、やはりのちのビデオで観た時は、どうも色褪せて見えたのはどうしてなのだろう。ややフィルムに対しての禁断症状でもあるのだろうか。(訂正・最近再びBSで観たが、やはり面白かった。不思議です。観客のその時その場の状態にもよるのですね、映画というものは。)

映画制作の現場の面白さ、製作者の苦労が描かれているが、またそれ以上に俳優たちの互いの役者としての出会いと、役者同士の私的感情の調整の難しさなども描かれていてじっくり味わえる。そのすべてをトリュフォーは愛しているのだろう。日本の副題には「映画に愛をこめて」とあったと思うが、よくこの映画の本質を掴んでいると言える。
ジャン=ピエール=レオーが、またしても優柔不断で甘えん坊な俳優の役を演じているのだけど、ホントにこういう男なのかどうかとは別にして、アメリカ女優のジャックリーン・ビセットは高校生の時に観た映画でファンになってから、その美貌とエレガントな雰囲気に憧れてもいたから、レオー・・分るよ・・という感じで、ぼくは途中までは観ていたようだ。でも、ちょっと度を越していたと思うけれど(笑)。
最後に修羅場にならない大人な結末が、ある意味ではかえってレオーが可哀想だったかな。
淀川さんがその頃絶賛していた記憶があり、この映画でトリュフォーはアカデミー外国映画賞をとった。
このページはこれから徐々にバージョンアップしていく予定です。
フランソワ・トリュフォーの好きな方しか御覧になる事はないと思いますので、
不備な点や御感想御意見、また寄稿もお待ちしています。
「突然炎のごとく」「ピアニストを撃て」「野生の少年」「夜霧の恋人たち」「日曜日が待ち遠しい」「恋愛日記」「緑色の部屋」も・・次のバージョンアップでページを増やして載せたいと思います。

 2003.5.加筆訂正。

CINE ART 3
1. 2. 4. 5.

Home
pageの上へ戻る