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CINE ART-1


 ビクトル・エリセの3本の映画についてのノート


1.ミツバチのささやき
(スペイン映画・1973年 1時間39分)
サン・セバスチャン国際映画祭グランプリ/シカゴ国際映画祭シルバーヒューゴー特別 賞/他受賞
●驚くべき確かな手腕で、この美しく、成熟した第1作をつくりだした若きスペイン人エリセは、
今後、ヨーロッパの新しい才能の最もすぐれたひとりとして必ず名があげられよう。この映画を必ず見にいかれるようお願いする。
これはまぎれもなく、映画の想像力を駆使した小さな大傑作だから。(英・ガーディアン)
●ゴヤの絵画のように美しく忘れがたい映像、驚嘆すべき演出力、そして、
絶対の完璧さに達したサウンド・トラックが生み出した芸術。(仏・ジューヌ・シネマ)
●スペイン映画の最高傑作、そしておそらく過去6年間に全世界で作られた最良の24本に入る1作。(米・ニューヨークタイムズ紙)


 日本での上映は1985年である。
 六本木シネ・ヴィヴァンで封切りされ、その後この手のミニシアター系の映画としてはロングランを続けた。

 その理由は主演のアナ・トレントというひとりの少女の不思議な魅力が大きかったとも思うが、その少女の存在を見つけだして、映画作家エリセは、現実と虚構の世界の境を、無意識的なアナの掴みがたい内面によって喪失させてしまうというような奇蹟の映像を生み出しているのである。

 有名な水辺でのフランケンシュタインとの出会いは、二度と他の映画では観ることのできない映像の真の魔術を体験させる。 
 全体を通して実に静かな映画なのに、観客は精神の深いところでドラマチックな、スペクタクルな経験をするだろう。

 少女アナの魂の通過儀礼にも思われる物語は、我々のイマジネーションの洗い直しを迫られる通過儀礼でもあるだろう。
 アナの姉の存在も、我々には手がかりとして愛おしく思われる。
 しかし、あなたが詩がお好きなら、この映画は間違いなく生涯になんども出会えるポエジーではないことがおわかりになるだろう。

 ミツバチの羽の音のような繊細なサウンドトラックも忘れられない。
 また、西部劇がお好きなかたには風景のパノラマは美しいと感じられるだろうし、ホラーが好きな人には本物の月光を浴びるという奇跡もあるだろう。
(・・ナントカ紙の続きみたいだな(笑))


2.エル・スール(スペイン・フランス合作・1983年 1時間35分)
シカゴ国際映画祭グランプリ・ゴールド・ヒューゴー賞/他
●ぼくは、このところ、やや映画禁断症状だったものですから、こんな密度の濃い映画を観て正直こたえたっていうのが実感です。
だが、こたえたって言っても、重くもたれるようなものではなくて実に気持ち良いんですね。感動しました。 何度も涙が出て困ったんです。こんなことひさしぶりですね。(武満 徹-作曲家)


 ミツバチ・・から10年、2作目。
 次に紹介する映画も、ほぼ10年後に作られるということで、1作、1作が非常に貴重に思われる人である。

 フォトエッセイの2
などでも紹介したが、観る度に表情を深くしていく映画だ。
 少女のエストレリャから、大人の梯子を上りはじめたエストレリャに至る、その内面の陰影を、その変化を、なんと静かに強く映し出しているのだろうか。
 大人になったエストレリャのモノローグが全編を導くのだが、そのモノローグ自体が音楽と詩のようで、映画の感情を深く表現している。
 ミツバチ・・の神秘から、生きることの、そのもののなかにある時間の感覚が色濃く感じられるという意味では、一冊の良質な短編小説そのものをも体験したような充実感があるだろう。

 しかし、この映画にもやはり神秘がある。
 父親の能力、その彼の内面において推察すれば、常識的な生活を送るには、それはある意味では背負った十字架のようにさえ思われる。 
 その能力が眩しく映っただろう幼い少女エストレリャの視線も、時間を経るにつれ、大人の視線を持ちはじめたエストレリャの目にとっては、その一見世俗にありがちに思われるだろう父親の苦しみが、なんとも安っぽく情けなく思われたのだろうか・・。
 あの思い出のレストランで食事するふたりの会話の、その残酷さは、最も親しい人との関係における心のすれ違いを知っている人には、胸を苦しくさせるものであるだろう。

 この映画の最初の計画には、南へ行ったエストリアも描かれる予定であったといわれているが、それを期待させながらも一本の映画として充分完成している。
 南スペインから訪ねてくる父の母と乳母の存在が、観ている我々にでさえ懐かしく思われるだろう。そして、あなたの「南」を想わせるだろう。


★エルスールの新しい記述-2019年9月-

3.マルメロの陽光(スペイン映画・1992年 2時間19分)
カンヌ国際映画祭審査員賞・国際映画批評家協会賞/シカゴ国際映画祭グランプリ・ゴールド・ヒューゴー賞
●映画史上全く類例をみない、例外的な存在であるがゆえに、「マルメロの陽光」は当惑や混乱にも、探究のまなざしや、
最も鋭利な視線にも、ひとしく開かれた作品である。この上なく純度の高い本映画は、今日、かってないほど再生と刷新を必要としているこの芸術、
ないし表現手段に対し、新たな、おそらく思いもよらぬ地平を切り開いている。(カルロス・F・エレデロ/西ディアオリオ16紙)
●・・・自分の庭でマルメロを描く画家アントニオ・ロペスの、これはドキュメンタリーでありながら、
どんなスペクタクル映画よりも豊かなファンタジーとイマジネーションと自由な呼吸が息吹いている。・・・(ダニエル・エイマン/仏・ルモンド紙)
●つつましいカメラワークで生み出した、驚くほど魅惑的で密度の濃い作品。精魂を込めたこの作品の純粋さ、そしてゆとりの大きさは、
一切の媚びを感じさせないスタイルとあいまって実に貴重だ。(ジャネット・マスリン/米・ニューヨーク・タイムズ紙)


 ひとりの画家が、庭にあるマルメロの木を忠実に、カンバスに写し取るように、毎日毎日、生活と制作の境がなく描いていくプロセスを、そのままに記録したかのように創られている。・・というと記録映画のように思われるかも知れない。

 しかし、この映画作家は今までも、ある意味ではドキュメンタリーのエッセンスを持っていた人だと気づかされる。
 がしかし、そうは言ってもドキュメンタリーの枠からはどうみてもどこか遠くはなれている。
 ドキュメンタリーとはなんだろうか。ぼくらはテレビなどで見るつくりに慣れているので、創造的な、イマジネーションに満ちたドキュメンタリーをあまり知らないのではないだろうか。

 「マルメロの陽光」・・その映像の一枚一枚を見つめていると、世界に向ける、あるひとりの人間の視線を思わせる。
 カメラも人の視線のようである。カメラが機械としてでなく、一個の人格を持っているかのように創作に加わる。それは、本来あたりまえなのかもしれない。

 ぼく自身は、実のところまだ封切りで一回しか観ていない。
しかし、いくつかの忘れがたい映像は説明できない深さで刻印されている。 BSでやったこともあるので観た人もいると思う。

 この画家の制作については謎が深くて、まだまだ理解できていないが、ジャコメッティという彫刻家の物理学者のような異様な執拗さとも違う、もっとゆったりとした、生活と分離していないところが清々しいと思った。
・・と言っても、もちろんそういって比較できるものではないのだが・・。

 途中で予算が都合できず、フィルムが手に入れられずに、制作の続くアントニオやマルメロの木を撮り続けるために、やむなくビデオで撮った画面が挿入されている。
 職業俳優がひとりもいないという意味では全くドキュメンタリーそのものなのに、そのプロセスのなかで出会う人や風景、音、天候、会話、日々の出来事は、この映画のために自然発生したかのように共時的で、陰影ある物語が時と共に流れていく。
 妻の制作中の絵のモデルとしてベッドに横たわったアントニオの姿や、夕暮れの街を俯瞰で映した映像は、観客に、永く、深く印象ずけられるだろう。
といっても、どちらの映像も静かすぎるほどに静かな映像なのだが・・・。


▼この3本に共通するものは、やはり「視線」である。その感を新ためて書いていて思った。
 ビクトル・エリセは、前の2本で女性を主人公に選ぶ理由について、「女性の目を通して世界を見ることに監督としての私が強く関心をもっていることです。女性は社会のシステムの周辺に、男性よりもはるかに昔から存在して来ました。中心の主役ではなく。
・・そうした女性の存在のあり方が、男性よりもはるかに興味があるのです。うまくは言えませんが、自分が子供の時に感じていた思考は、女性によってこそ表現できると思います。」
と語っている。

 話によるとビクトル・エリセは「奥の細道」をボロボロになるほどに、持ち歩いた人のようである。短いセンテンスで濃密に語れるという能力を持った人だとも思うが、そんなところにもカギがあるかもしれない。
 彼の新作はなかなか発表されない。 が、10年に1本というのは別に彼の本意というわけではないようである。(1999.5.5)

写真・引用などはCINE VIVANT冊子から。

 
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