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CINE ART-2


大林宣彦の映画 普遍的個人映画--A MOVIE

 1977年に「ハウス」を劇場映画として公開し、その後もコンスタントに撮り続けている監督というのは、めずらしいだろう。
 尾道三部作によって、日本中から尾道に故郷を求めるように降り立った人たちを、各所にある旅日誌ノートなどで見ると、自分がその一人であることを忘れて驚かされる。
転校生だから、どうしても尾道を舞台に描かれる物語が様々な場所で話の中心になるのも当然と言える。そのどれもが、原作があるということを忘れさせる程に私的に思えるし、尾道にカメラを据え、フィルムのなかで俳優達が動き出すと、それは元から、ここでしかありえないかのような、そんな物語に思えてしまう映画が誕生する。

 ぼくも以前、一度だけ8ミリ映画を近くの公園を主な舞台につくったことがあるのだが、やはりよく知っている馴染んだ場所というのは、なんでもない風景のひとこまにも、ファインダーを覗く眼に温度のある想いが伝わって、フィルムに焼きつけられるような気持ちがしたものだ。
 それは大林監督が
「ベテランの18才」の感性で作り上げようとする陰影のあるやさしさの彫像とでも表現するしかない、その映像と物語に込められた個人的な視線を理解する経験にもなったような気がする。 --真に個人的なるものは普遍性を持つにいたる--というのは大林監督自身も言っていたような気がするが、それは彼の映画と観客の反応で証明されていると言えるだろう。

 ぼくは、「大林」の名を知る前のずっと以前から、きっとファンの一人だったのだろうと思う。
 少年時代に、テレビのCMとしては特別にぼくに目を見張らせ魅了させた、
チャールス・ブロンソンが馬にのって登場する、ある整髪料のCMやカトリーヌ・ドヌーブのCMなどが、大林のCMディレクター時代のものと知ったのは、ずっと後になってのことである。
 それに「ハウス」は、監督のことなど眼中にないオカルト映画やホラーの面白さに傾倒していた頃、近くの映画館の封切り日に観に行っているのだから。

 そんなぼくが大林の名を意識しはじめたのは、「転校生」をテレビで観てからだと思う。
 その時はなぜか、今思うと不思議なのだが、ちょっと甘過ぎて気恥ずかしいような映画として受け取っていたような気もする。しかしこの映画は、ぼくの中のどこかにひっかかっていて、けして無視できない映画だった。それは、ずっと心の底の方にあるような感触の記憶だった。
 それがぼくの中ではっきりとかたちになり、この監督の映画に存在する特別な魅力を意識し始めることになったのは、数年後、当時とても入れ込んでいた映画だった「戦場のメリークリスマス」を2度目に観に行った時、偶然二本立てのもう一本として出逢った「時をかける少女」によってだった。時をかける-title
 その初めての主演映画のなかで、まさに時を彷徨うように ---映画とともに--- 慎重に、手探りに彷徨い、成長していくかのような少女・原田知世の、スクリーンに映し出されたフィルムの中の、ドキュメントな姿、フォームを生かしながら、そしてさらに暖かく包み込んだような、素晴らしくファンタジックな映画を作った監督の眼差しと手腕に感動してからだろう。
 その頃から友人に、大林宣彦と原田知世を絶賛し始め、この監督の映画に信頼と期待を持ちはじめたのである。 この映画の中の知世の台詞の発声は、上手いとか下手とかを超えた、少女のはかなく、しかも持続的に輪廻する愛の微熱を、そのままに伝えてくるかのようにぼくには聞こえた。それは、作家・大林宣彦の内にある想いそのものを重ねているようにさえ感じるものだった。

知世 そして、初めの尾道三部作の最後である「さびしんぼう」は、さらなる期待を裏切ることのない名作となって当時のぼくの心を掴んでしまった。
 ぼくはこの映画でぼろぼろと涙を流したなかの一人なのだが、後でそんな人が沢山いたし、あの黒澤 明が泣き、スタッフにぜひ観るように薦めたという話を聞いて、かなり安心したのだった。

さびしんぼう「さびしんぼう」には、少年少女時代の至福の楽しさと寂しさが、心の模様そのまま融合し描かれている。 主演の尾美としのりと、「アイコ16歳」で特別な才能をきらきらさせた富田靖子が、映画「さびしんぼう」のなかで滲み出させた寂しさと、やさしさの物語は、まさに普遍的な個人映画として大林映画ファンの多くがベストに挙げることだろう。
 この三部作で元々縁のあった尾道は、ぼくの幼少の頃の心模様を思い出すデジャ・ヴュ−な場所にもなった。

 
この三作で順に増していくというものを、ここであえて言えば、''死の世界に属する静かな幸福と輪廻する想い''とでも表現したい人の心の陰影の映像化である。つぎにその証拠を紹介しよう。
 
 それは福永武彦の原作である「廃市」と、コミックを原作としながら、全く異質な私的映画として誕生した「日本殉情伝-おかしなふたり-ものくるほしきひとびとの群れ」という2本であり、どちらもぼくには、それを最も色濃く感じさせる映画なのである。
 
廃市「廃市」は原作に忠実に映像化された、めずらしい映画かもしれない。原作を後で読んで、びっくりしたほどである。しかし、
福永武彦に対しての大林の傾倒と尊敬の念を知れば、当然と思える。それに過剰な程にさえ文学的な薫りを大切にしている成熟した映画として完成度が高い。
 この映画は16mmフィルムで創られ、小さなスクリーンで静かに観るのに適しているようかにさえ、つくり手の心が配られている。
 この映画の中で、すべての登場人物たちが互いに擦れ違う愛の想いを内に抱えながら、なぜか宿命的に伝えきれず、しかしそれでもそれを大切にして生き、または死んでいく姿は、全編の雰囲気にミステリアスなムードと、福永文学の魅力が映画時間のなかに底流している。 それが舞台になっている柳川の川の表情と、みごとにひとつの世界を完成させていて、福永武彦文学の読者にはぜひお薦めしたい、死と孤独を悲しく甘美に描いた映画である。

おかしなふたり1 「おかしなふたり」の原作のコミックは知らないのだが、きっとまるっきり違うだろうと確信させるような、個人的で独立した「想いの映画」を創ってしまった大林には、驚くと同時に感心もした。 企画から受け継いだものは、タイトルと、「おかしなふたり」のキャラクターの元となるモデルだけのようである。それも言ってみれば当初のメジャーな企画が壊れ、少予算に削られ、封切りさえも決まらないようになったおかげで生まれたようなものなのである。
 じつはそれは、この映画に限らず、「転校生」製作中などにも起こったことで、それを個人的なポジティブな動機に変えていく才能も、これまでの大林の作家としての、意図せずにもある独自性を生み出してきたのであろうと思う。このユニークな作家性も、日本にあって、いや世界にあってもめずらしいのかもしれない。
 そして、この映画の死の匂いはただならないほどである。といっても、演じられる劇中の話にはナンセンスとユーモアが縞模様のように繰り返されるにもかかわらず・・なのだ。それはまるで衰弱していく病人の、または死んでいった者のなつかしい回顧の想いのようである。 映画の初めから終わりまでが、人の足の踏み入れたことのない、山奥にある沈黙した湖の水面のように、静謐な悲しさがどこまでも拡がっているかのようである。
 ぼくは中野の小さな映画館で、数えるほどしかいない観客のなかで観ていて、この商業的な可能性を犠牲にした、贅沢さの矛盾のなかで、この映画を深く堪能し、この映画の悲しみに不可思議に共感しながら、涙を流して観たひとりだった。
 死者を見送るように・・。
おかしなふたり2 この映画で大林は福永武彦の探究した孤独な精神の世界に、深く共感と接近をさらに試みていたのかもしれない。
 このあまり知られていない一本は、とても好きなのに人に薦めるのは難しい。それは以前、文庫本のCMコピーにあった「純文学はあぶない」というようなセンテンスの気持ちに近いものかもしれない。だから、好みとなると観客が限られるかもしれない。
 この映画のサウンドトラックも「狂おしい音楽を・・」と要求した大林の注文に奇跡のように応えて、スクリーンと切り離せない程に全編を覆っている悲しい旋律が素晴らしいが、このメロディは当時、無名であった
KANが創ったものだということを知ってびっくりされる人もいるかもしれない。こうういう陰と陽の対極の才能をひきだし、あらたに生み出すのもまた、大林映画に付き合いシンクロして出てくる、参加者の受ける恩恵かもしれない。
 また、日本では珍しいアグファ・フィルムの色彩によって、特に海の色を含めて、たいへん美しい映像に仕上がっている。

 もうひとつ、あまり知られていない映画かもしれないものとして、紹介しておきたいものに
四月の魚「四月の魚(ポワソンダブリル)」がある。このビリーワイルダー的な小粋なドラマは、上記の映画と反対に、全編が午後の明るい光に照らされているような楽しい映画である。主演のミュージシャンである高橋幸宏のライトな演技と、この映画以外では残念ながらお目にかからない、今日かの子という女優のほのかなお色気が、とっても楽しい。
 おとぎ話のようなセットのなかで、あくまで明るい画面がとてもリラックスさせていて、「天国にいちばん近い島」の日射しに満足できなかった方に観てもらいたい。 とても不思議な明るさである。湿度が全く感じられないこのような日本映画もめずらしいだろう。


野ゆき山ゆき1 次の尾道三部作のなかに入るのだろう、
「野ゆき山ゆき海べゆき」は、
佐藤春夫の原作の映画化である。
 これはとても幸運なことに、封切り前の劇場試写が、当時、住んでいた街の近くのミニシアターであり、街頭でチラシとともに当日券を貰ったのである。だから生っ粋の白黒バージョンで、たいへん美しいフィルムだった。
 そして後にカラー版をテレビで観たが、特にそのテレビ放映版は全く別物に創り直してあった。上映時間が半分近くまで削られるのだから、フィルムとテレビ画面の違いにこだわる大林監督としては当然だが、しかし驚く程別物である。 カットを切るのでなく、早回しの編集を各所に取り入れ、内容そのものが削られず、まったく全体の印象が変わってしまい実験的ともいえる作品になっていた。
 それはぼくも、果たして成功したということはできないのだが、こういう大胆な試みを苦肉の作にさせるテレビの世界に複雑な思いも重ねさせた。
 できればぜひ白黒の映画を観て頂きたいと思う。独創的な白黒フィルムによる美しさが、この映画の世界そのものを現わすに切り離せないほどに感じられるからである。
野ゆき山ゆき2 ゆったりと描かれる時代の、その時間を、まるで忠実になぞるような贅沢な作りである。  冒頭の鐘を突くテンポと、子供達が歩くテンポが、そのまま懐かしくなる方々も多いだろう。 後で気づいたのだが、この映画冒頭、その導入の感じは、
小津安二郎の「東京物語」そのものでもあった。
 この映画の原爆のキノコ雲が、「美しいからこそ、怖いのだ」という大林のコメントに、テレビ対話者のオリバー・ストーンのアメリカ的単細胞頭脳が(・・久しぶりにけなした^_^;)、全く理解できず、禅の考案に怒り出すような反応をしていたのが思い出される。

 「異人たちとの夏」は、脚本家で作家の山田太一の原作である。 山田太一のドラマはとても好きで、見のがさない限りはできるだけ観るようにしている。会話のテンポが、日常と非日常の隙間にあるような、そんな非常にデリケートで揺らぎを感じさせる脚本だと思う。
 それが、市川森一という別の脚本家によってシナリオにされ、大林が映画化するというユニークな企画でもある。
 市川森一は不思議なロマンを話にする才能に長けた人と思ってきた。
 特に忘れられないのは、
NHKで何年も前にやった90分ドラマの「もどり橋」である。 それは、樋口可南子と、少年と大人の共棲した根津甚八の演じた、哀しいロマンとシュールな話が映像にされた、美しい傑作である。
異人たちの 「異人たちとの夏」では、そんな企画が生きた映画になっている。
幽霊である秋吉久美子と片岡鶴太郎の懐かしく、優しい、そんな両親の存在に涙した人は多かっただろう。映画館で、ぼくの前にいた若い女の子は、映画が終わってもぼろぼろ泣いていて、隣の友人に「良かったねぇ、、」と、しきりに言っていたのを思い出す。当然、当時も今もか、弱いワタシも言わずもがなのだが・・。
 この映画はホラーとしての企画のようだったが、ホラーなどいやだという人にも多く支持されたようだ。そのホラーの部分を受け持ったような名取裕子の神秘的で悲痛な変身シーンは賛否があったが、ぼくにはすんなりと受け入れられた。
 幽霊にならざるを得ない念いとか、傷というものは、そういうスペクタクルな恐さがあるのだろう。それを大林は視覚化することを選んだのだろうと思う。

 
新尾道三部作ふたり「ふたり」は、とても多くの人が好きなようだ。
NHKで2週に分けたテレビバージョンが先行して公開された後には視聴者の問い合わせが多かったと聞く。きっと、全国放送のテレビで、はじめて大林映画の魅力を幅広く知らしめた一本になったのだろう。
 しかも、大林自身が歌うテーマソング「草の想い」というCDを出させる程の問い合わせ、と言うからすごい。まあ、聴いてわかると思うけれど、すごい想い(憶い)の籠った唄いっぷりで、「おかしなふたり」や「廃市」のナレーションを彷佛させるものだから、うなずける。
 この映画で「尾道」も決定的に有名になってしまったような気がする。それほど尾道の風景の魅力も味わえるし、お話も年代を超えて楽しませたり、懐かしかったり、悲しませたりという健全なエンターティメントで、アイドル映画として考えたって上質で充実した映画である。
 この映画で石田ひかりは運命が決まったとも言えるが、その後の「はるか、ノスタルジィ」をピークにして、ぼくは関心が薄くなっていく女優のひとりなのは残念だ。 なにしろぼくには、大林のキャスティングにおいて予見の才能があるらしく、原田知世以来、石田ひかり
(デビュー当時の写真を見た時に思った)や、南 果歩(小栗康平の「伽椰子のために」を観た時から、これは「原田知世のネガの存在・・」と公言していた)が大林の映画にキャスティングされる日を予想していたのだ ! 。
そんな、自慢話はともかく、安心していろんな人に薦められる映画である。

 「はるか、ノスタルジィ」はそういう意味では観客を選ぶ映画かもしれない。
 誰か「あまりに私的に溺れすぎてる」なんて、言っていた人がいるが、そういう人がマニアな映画に溺れたりすることもあるから、まあ聞き流すことにしたい。
はるか1 多分、ぼくにとっては、大林の映画の中では5本に入ってしまうほど好きな映画でもある。それは、ぼく個人の性向のようなものが関係しているだろう。だから、好きじゃない人がいて当たり前だと思う。
 この映画のさみしさは、この世のものではないというような、そういう心の奥の繊細なところに達するような経験をさせたということでは、「さびしんぼう」や「おかしなふたり」や「廃市」とぼくのなかでは並んでいる。 まあ、ちょっと中年クライシスをジュブナイルな話にしたように誤解されると、若い女の子とかには気持ち悪がられてしまうかもしれない。しかし、そのくらい赤裸々に大胆に語ってくれる監督など、なかなかいるだろうか。そう、違う意味で
「ダメージ」を撮った時のルイ・マルはそうなのかもしれない・・。

 舞台である小樽がまた別の尾道のように、しっくりと、映画自体に欠かせない場所にまで命を与えられている。
 少年版「さびしんぼう」であると直感させる、松田洋治が演じた少年の闇の中の立ち姿や後ろ姿、表情などは、この映画のシンボルとなるぐらいに、すぐれたキャスティングであるとぼくは断言したいところだ。
(まあ、聞き流して下さい。映画というのは、そういうことを言わせてしまうのです) 
はるか2
 この映画や「転校生」「さびしんぼう」の原作者である、山中 恒さんが書いていた面白い話がある。
 「・・・本が出来上がる前に、小樽でロケがおこなわれました。私がロケの見学にでかけた時、カメラは入船の坂の途中に据えられていました。なんとそこは、私がかつて下宿していた祖父の家のあった場所で、しかもそこは私が、小樽にいる間、ふとんを敷いて寝起きしていた場所だったのです。もちろん大林さんはその場所を知っていたわけではありません。故郷の私を呪縛する不思議な力のようなものを感じました。・・・」
 映画って怖いでしょう・・。映画という創作それそのものが、縁と輪廻を包含しているような感じは、多くの作家がきっと感じているだろうと思う。よく、監督・黒澤 明が風を望んだら風が吹いた、といったような話があるが、あるんです本当に・・。8mmで映画をつくった時の、ファインダーを覗いていた経験からぼくは保証します。 まあ、それは反対に、望むと逆の天候に見舞われ現場で設定を変えたり、編集で予定にないシーンを入れたり、といったことによっても、映画に予期せぬ深みを与えたりするといったかたちでも現れたりするのだが。

 最後に、「青春デンデケデケデケ」を紹介したい。もしかしたら、一番好きな映画なのかも知れない。
 この映画のすべてが好きである。カットの多いテンポも、話も、なんといっても登場する人物たちの魅力も・・。
 ぼくは芦原すなおさんの原作も舐めるように読んだ。もちろん映画を観た後です。
 こんな、映画化をされる原作者は幸福だろうと思う。どちらも、イコールといって良い程に素晴らしい出来映えである。青春デンデケ
 ベンチャーズサウンドやビートルズを聴いて過ごしたことのある人は、それだけでも充分に楽しめる価値があるが、それ以上に、この映像で語られている高校生活の理想卿は、映画ならではの至福の時間を与えてくれるだろう。
 夏の空気をたっぷりと感じさせるシーンなども、映画の魔術で創られているとは思えない実感を呼び覚ます映像である。カット数が異常に多い実験的なところが、全くそれを意識させないほどに成功している。

 この映画でも尾道ならずといえ、舞台になる香川県観音寺の1965年から68年にわたる四季のうつろう情緒をも、主人公たちロッキング・ホースメンの輝かしい生活とともに、たっぷりと、また切なく味わうことができるだろう。 これは、今の時代の学園生活に失われつつあるもの、そのものがたりを、しっかり提示しているかもしれない。
 芸術選奨賞文部大臣賞・文部省推薦になっているが、それが壺を得ているレッテルといっていいものかどうかは、観客のひとりひとりに判断はおまかせしたい。

◆・・・ ある個人的な関心や、心の探究が、なぜ普遍的な価値に至るのか・・、ということが少しだけ伝わっていただけただろうか。
 喜びとか、悲しみ、・・たとえば悩み、苦しみといった、生きることにおいては誰でもが出逢うであろう心の模様、それはその個的・個人的な内容にも関わらず、根本的には万人に共通の普遍的な物語であるだろう。 ゆえに、つくり手の私的な探究と見えるものが、心をもって取り組まれ、そして形となって表現されることによって、ひろく共感と、さらに救いと、意義をも見い出す。生きるということのなかにある、さまざまな味わいと愛おしさを、孤独な切り離された個人ではない「人」として改めて感じる力、そんな力が心の奥から思い出され、目醒め、呼び起こすという奇跡が起こりうる・・。
 おおげさだが、そういうものが、もしかしたら映画を含めた創作物の持つ、ひとつのおおきな価値とも言えるのかもしれない。

 ◇この他にもまだまだ紹介できない映画も残った。が、このくらいにしたいと思う。
 今年の夏(1999年)は新・尾道三部作の最終章『あの、夏の日ーとんでろ じいちゃん』原作は山中恒作「とんでろ じいちゃん」が公開されるので、愉しみだ。 1999.5.24・・加筆訂正随時

               *すべての写真は、パンフレット、チラシ、資料などから取り込んだものです。

 ○このページは、雑誌「暮らしとパソコン」2001年、創刊号・78P〜81P「パソコン超伝導対談・大林宣彦+ミッキー・カーチス」に紹介されました。
  『「Tenderness」のシネマ紹介ページ。大林監督の他に、ビクトル・エリセ、トリュフォー、鈴木清順を紹介している。どれを読んでも、映画へのあふれる愛情が感じられる。必見』。必見です(笑)。
★大林映画、大林監督関連その他の記事は、ブログのシネマページに散在しています。下記にいくつかリンクを入れました(2007年12月)

近くて遠い人、遠くて近い人/ ベテランの18歳/ 「なごり雪」/ 「告別」/ 「淀川長治物語」/ 生憎の雨ですね/ 尾道それから、それから
  ★尾道渡船の旅スライドショー

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