マイラレポート3/4

マイラレポート21

シャティキャンプに近づくにつれ道路沿いの家が増えてきた。それらの家を見て少し違和感を覚えた。どの家の庭にも木や花がないのだ。芝生の真ん中に家だけがある。今まで見たカナダの家といえば、羨ましいくらい広い庭に数本の大きな木が立ち、花壇があるのが普通だった。フランス系カナダ人はまったく違った考え方をするらしい。それに家の配色が面白い。色のコントラストがまるで玩具の家みたいで、使っているペンキの色も見慣れた色ではない。家の壁は薄い水色やピンク、黄色をしている。ピンクも可愛かったが、明るい紺の壁にクリーム色の窓枠の組合せが一番気に入った。知り合いのカナダ人が、フランス系の人たちの家は派手だと言っていたが、確かにそのとおりだった。その一方で、見る人が楽しい気分になるこんな家も悪くはないなと思った。チョット残念だったのはペンキがハゲチョロケの家も所々に混ざっていたこと。それはひどく気の滅入る光景だった。

チラホラおみやげ屋さんらしい店やレストランを見かけるようになった頃、町の南端にあるレ・トロア・ピニョン(Les Trois Pignons) に到着した。それは赤い屋根に、紺の縁取りをした白壁のお洒落な建物だった。ここにはマルガリータ・ガラント美術館(Marguerite Gallant Museum)とエリザベス・ラフォート・ギャラリー(Elizabeth LeFort Gallery)がある。ノーマとドナは真っ直ぐ受付けに向かったが、私はしばらくホールに留まり、キョロキョロ辺りを見回してから彼女たちを追いかけた。私がノーマに追いついた時、彼女は十八、九世紀頃の装いをした女性と話をしていた。ガイドさんだった。その人はすぐに美術館へは入らず、まず受け付け近くの売店前に置いてある古式の木製フレームのところへ案内してくれた。フレームには刺しかけのラグが張ってあった。フックしてご覧なさいと言われ挑戦してみた。アケイディア地方のフックは小型の上、持ち方も違うので、慣れない私には扱いにくい。それにここの人たちはループをあまり高くしない。ループが地布にへばりついているようだ。かなり練習をしなければこんなに低く刺せそうもないと思ったが挑戦してみた。ぎこちない手つきでフックを掴み、数目、刺してみたが、やはり他のループの倍の高さになってしまった。こんな風にしてみんなでラグを作り上げるらしいのだが、途中のループが飛び出していてはみっともない。しばらくフックしてからほどいてしまった。刺し布には毛糸を使うと聞いていたが、ザラザラした麻紐に似た手触りだった。この地方で紡いだものだという。

後で、この糸の見本が欲しくなり売っているところを探したが、シーズン前で殆どのお店は閉まっていた。シャティキャンプの近くでお土産に買ったラグにも特産の毛糸は使っていなかった。もしかしたらと思い、帰りにバデックの毛糸屋さんにも寄ってみたが、扱っていなかった。結局、旅行中には手に入らず諦めかけていたところ、最近になって同じような材質の毛糸を貰ったことを思い出した。もう何年も前、アメリカでのラグ・キャンプで、ニューイングランドの人から頂いた毛糸玉の中にあった。その人はもう亡くなっているので、アケイディア産かどうか確かめようがない。残念ながら、色から判断するとアケイディアのものとは違っていた。

こうしてフッキングの実習を終えた私達は、入場料5ドルを払い、美術館に入った。

写真:上からレ・トロア・ピニョン, フック, フックキングの実習

マイラレポート22

マルグリット・ギャラン博物館には3つの展示室がある。入ってすぐの部屋は昔の寝室、居間、台所を模した中に洒落た家具や食器などが飾ってあり、真ん中がエリザベス・ラフォート ギャラリー、一番奥の部屋には歯医者さんの椅子を始め、人形、馬車のカンテラなどが所蔵されている。入館してすぐガイドさんからこの施設の由来について説明を受けた。それによると、この博物館をつくろうという計画が出されたのは1982年で、シャティキャンプの蒐集家マルグリット・ギャラン(Marguerite Gallant)が生涯にわたって集めてきた家具や古いお皿などのコレクションをレ・トロア・ピニョンに寄付したことがきっかけだそうだ。コレクションのほとんどがこの地方で作られた物で、保存状態も良かったという。寄付後すぐにアケィデイアの昔を語る貴重な歴史的資料を保存するため博物館建設計画が立てられたが、マルグリットはその完成を待たず翌83年に亡くなった。現在、博物館にはギャラン・コレクションを中心に寄贈された品々が陳列されている。

最初の部屋に入るとすぐスカルプチャーを施したラグが目に付いた。色が鮮やかでとても歳月を経たようには見えなかったので、レプリカかと思ったがオリジナルと言われ少し驚いた。黒のバックグラウンドに花柄のラグ。さわるとビロードの感触がありそうだったが、もちろん確かめなかった。皆でそんなことをすれば、手の油が付きたちまち汚れてしまう。さて、この花柄のラグはとても品がある。それに加えて、親しみやすさがある。この上で寝転がってもラグは怒らないだろう。それは大事にされながらも、使われてきた物だったからかも知れない。今、日々の役目を終えたラグはこうして展示室で訪れる人々の目を楽しませてくれている。

この作品を見ていて、思い描いていたアケイディアン・ラグ(Acadian Rug)の優雅なイメージとよく似ているなと直感した。私はこのラグの実物をまだ見た事はなく、本の解説や、古いラグのモノクロ写真を見て膨らませていたイメージだ。アケイディアン・ラグは中央に手の込んだパステルカラーの花束や花篭などのメダリオンを置き、その周りを蔦や花模様、スクロールなどで囲んでいるのが特徴だと聞いている。そしてスカルプチャーの技法をよく用いたそうだ。普通、フックト・ラグは耐久性を考え、ループの高さをそろえる。この技法は敢えて対象となるモチーフを他の部分よりも高く刺し、ハサミで選定するなどして形を整え立体感をもたせるものだ。うまくはまると、とても優雅な雰囲気をかもしだす。しかし、時間や技が必要なのであまり使われない技法で、米国メイン州のウァルドボロー・ラグ(Waldoboro Rug)が有名だ。アケイディアン・ラグの製作は、英仏戦争後のフランス系住人追放(1775)と共にこの地では途絶えたと聞く。もし、目の前のラグがそれならば今回の旅の目的のひとつが果せたことになるが、製作年代も作者の表示もなく何ともいえない。ところで、昔と今とでループの高さがこんなに違ってしまったのは何故だろう。いつかこの謎を解いてみたい。

先に進むと壁には小型のラグが何点か掛かっていた。ラグ・フッキングを知らなければ、ニードルポイントと言われても不思議ではないほど細かなループでフックされていた。印象的だったのは海に浮かぶ船と雲のピクトリアル。雲に動きがあり、風を感じた。色使いは単調なのだが、所々を細かく表現してあった。メリハリというか強弱というか、こういう表現方法も現実感を出すのだなと思いながら眺めていた。いつか自分のラグに取り入れてみようと思っている。

子供の声がするので振り返ると小学校6年生くらいの子供達が、ラグ・フッキングの説明を受けていた。実演しているのは、やはり昔の衣装を着た若い女性だった。私も少し離れて子供の仲間入りをした。見ていると手早く同じ高さのループを作っていく。その技術の高さは羨ましかった。ふと気が付くとガイドさんはいつの間にかいなくなり、ノーマとドナが隣の部屋に行くのが見えた。私も急いで二人の後を追った。

Les Trois PignonsとElizabeth LeFort GalleryのHP。
http://www.lestroispignons.com/index.eng.htm

マイラレポート23

二人を追って入ったラフォート・ギャラリーは、予想に反して回廊のような細長い部屋だった。右手の壁には長さ50cmくらいのポートレートラグが10数枚並び、左手には18m四方の大作がかかっていた。部屋には数名くらいの小さなグループが二、三みうけられた。

この人たちをよけながら、まずポートレートをゆっくり見て歩いた。エリザベス・ラフォートは多くの著名人の肖像をフックし寄贈した事で有名だ。モデルはアメリカ大統領、英国女王、ローマ法王、宇宙飛行士と幅広い。このプロジェクトは1955年に始まる。当時のマネージャー、ハンスフォード氏(後に二人は結婚する)が彼女にポートレートを作れるかと尋ねた事がきっかけだそうだ。記念すべき第一作は米国のアイゼンハワー大統領の肖像で、二年後、ホワイトハウスで彼に寄贈された。更にその二年後には英国のエリザベス女王のポートレートラグをカナダ訪問の際に献上した。その作品は現在バッキンガム宮殿に飾られているそうだ。

入ってすぐ目にした作品は、1962年に作られたアメリカの宇宙飛行士達の肖像で二段にして飾ってあった。一見簡単な色づかいに見えるが、20〜60色の毛糸が使われているそうだ。知っている顔がないか探してみたがどれも馴染みはなかった。宇宙飛行士達の隣には、5枚ほどの肖像が縦二列に展示されていた。その中にジョンソン米大統領とジャクリーン・ケネディーを見つけた。どちらも、新聞などで見た顔、受けた雰囲気そのままだった。大統領の方は、残念ながら私の記憶には白黒の心像しか残っていない。しかし、ジャクリーン・ケネディーのそれは、笑顔がとても活き活きとしていて存在感があった。

ポートレートを堪能した後、反対側の超大作に移る。300を超えるという彼女の作品の中でも特に有名なものだ。カナディアン・センテニアル (The Canadian Centennial) と呼ばれるこのタピストリーは1967年にカナダ建国100年を記念して作られたという。歴史上の出来事と歴代の首相、各州の紋章がモチーフになっている。60フィート(約18m)四方の画面に416色の毛糸が使われ、200万ものループがフックしてあるという。惜しむらくは、あまりに大きすぎて全体を把握できない。もっと下がって見たいのだが、後ろの壁がそれを阻む。その上、三々五々ではあるが目の前を人が横切り、なかなか落ち着いて鑑賞できない。人の流れが途絶えたすきに想い出深いブリティッシュ・コロンビア州を探した。そこには西洋人とインディアンが対峙している場面が描かれていた。キャプテン・バンクーバーの姿を予想していたが違うようだった。エリザベスが選んだこの州の歴史上の出来事は何だったのだろう。ところで、この大作を彼女は7ヶ月ちょっとで作り終えたという。その速度は舌を巻くばかりだ。エリザベスは毎分55ループの速度でフックしたという。私も決して遅い方ではないが、とても真似できるスピードではない。

また人が通ったのを潮に次のコーナーに移った。「回廊」を抜けると小さな部屋があり、そこにはキリストの誕生から復活までをテーマにした作品が並んでいた。思春期のキリストを描いたラグの前に立つ。この作品の写真を出発前に何度も見たが、そのときは女の子のようだと思った。実物もその印象通り、優しい面差しをしていた。顔を囲むように射している後光の色づかいは繊細で、そのあたる様をよく表していた。微妙に色が変化している、毛糸を何綛染めたのだろう。おしまいは作者お気に入りの作品、ダビンチの「最後の晩餐」からヒントを得たタピストリーだった。センテニアルに較べかなり小振りだが、それでも8x4.5フィート(2.4x1.4 m)はあり、154色の毛糸が使われているという。シャティキャンプ・スタイルの特徴は毛糸で表現された細やかなシェーディングにあると聞く。これはその代表のような作品なのだろう。他の作品と同じようにループは低い。細かく見るとフィンガーなどの技法は用いていないようだ。そのせいか刺繍をみるような印象も受ける。観賞しながらひとつ気になったことがある。作者のくせが、強く感じられないことだ。フッキングの作品は普通、作り手の個性を反映するが、これらのラグにはそれが見られない。夫からまたぎきした話だが、仏画は作者の個性がでてはいけないそうだ。そういった敬虔な気持ちで作品に対峙しているエリザベスの姿が目に浮かんだ。

一心不乱に作品に取組む彼女の姿を想像した私は、ただ、ただ圧倒され、フッキングの楽しみ方の幅の広さを考えながらギャラリーを後にした。

Les Trois PignonsとElizabeth LeFort GalleryのHP。
http://www.lestroispignons.com/index.eng.htm

マイラレポート24

ラフォートのギャラリーを離れ、次の展示室に足を踏み入れたとき、最初に目に飛び込んだのは大きな椅子だった。歯医者さんの椅子だ。マルグリットは何を考えてこれを手に入れたのだろう。彼女の心理にとても興味が湧いた。何処にでも売っている品物ではない。どこで買ったのかも興味がある。そしてまた、そのあと家の何処においてあったのだろう。もし、お宅にお邪魔してどうぞおかけ下さいと勧められたら、何と言って断ろうかと考えた。どう見ても座り心地は良さそうではない。そんな想像をするのは変かも知れないが、彼女の気まぐれにマッチすると思う。しかし、貴重な気まぐれを笑うわけにはいかない。彼女とその気まぐれがなかったなら、このユニークな博物館は存在しなかったのだから。

この部屋に入ったとたんに気がゆるんでしまったらしい。細かいことを思い出せない。入り口と反対の壁ぎわに縦長のショーケースが三つほど並んでいた。ケースの一つにはお人形のコレクションがあり、高さが15〜20cmぐらいの日本人形も含まれていた。それは最近では見かけなくなったが、大阪万博の頃、京都のお土産屋さんに並んでいた振り袖人形だった。もう20年以上もここにいるはずなのに、赤い着物は色あせていなかった。陳列してあった私信の中に弟さんが日本から送った絵葉書を見つけた。彼は世界中を旅したらしい。彼が日本で何を感じたのか興味をもったが、既にマルグリットに親近感を覚えていた私には、私信を読むのがはばかられた。

他にもこまごました展示物があったが、少し疲れてきた上、ノーマ達の姿も見えなかったので、部屋を出た。出てすぐ右手にミュージアムショップがあったので展示物のカタログを探したがおいていなかった。せめてラグの絵葉書でもと思っていると、思春期のキリストを描いたラグの絵葉書を見つけた。しかし、同じ作品の写真が、購読している雑誌にも掲載されているので買うのは見合わせた。

表に出ると、いつのまにか美術館の前では道路工事が始まっていて、しばらく足止めされた。2004年の夏、アケイディア入植400年を記念するお祭りがあり、その準備らしい。やっと許可がおり、来た道を引き返す。二人は町を出る前にお土産屋さんに連れて行ってくれようと車をゆっくり走らせているのだが、町はずれのこの辺りは店の数も少ない上に何処もしまっている。とある建物の一角に近づいたとき、並んでいる扉の一つを指して、あそこに行ってみようとノーマが促した。私にはただの事務所に見えたのだが、ドアを押して中をのぞくと雑貨店になっていた。そこには食料品と本、それにラグが少しだけ置いてあった。お店の人の感じは良かったが、「ボンジュール」と言ったきり、読んでいた本に戻ってしまった。全然商売をする気がないらしい。店内を一回りしたが、気に入ったラグも絵ハガキもなかった。店を出たところでノーマとドナが口を揃えて「Flora's」ならいつでも開いていると言うので、これ以上の寄り道はせずその店に直行することにした。

写真:Flora'sでもらったカード

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フローラズ(Flora's)は思ったより遠く、私はその間、フロントグラス一杯に展開する風景をぼんやりと眺めていた。右手に岩の海岸を見ながら車は走り続ける。その向こうには白鼠の空の下、灰色がかった紺色の海が輝いている。左手には草地が広がっていて、ときおり、民家や、来るときには気づかなかった小さな教会の前を通り過ぎる。教会の裏庭には墓地があり、手入れの行き届いた芝生の上に海を眺めるように墓石が並んでいた。やがて、前方に半島のように張り出した地形が現われ、その中腹に小さな教会と墓地が見えた。絵のようなという表現があるが、ラグのデザインになりそうだった。そういえばこんな景色のラグを見たことがある。墓地を見てのどかというのはおかしいが、こんな風に眠るのも悪くないなと思った。

20分くらいでお店に着いた。羽を広げたように二つの切妻をつないだ建物の店内は大きく二分され、左手にフックトラグ、右手にその他の土産物が置いてあった。まず、ラグの売り場を眺めて歩く。壁には長いものでも1フィートくらいの比較的小さなラグが掛けられていた。大きさや色形は様々だが、どれも小鳥の図案をベースにしていた。テーブルの上にも同じようなラグが山積みされていた。そのひとつひとつを丁寧に見ていったが、「これは」と思うものには出会わなかった。とはいっても、はっきりとした当てがあった訳ではなく、前述のYさんが見つけたような、この地方でしか手に入らない図柄の掘り出し物を漠然と探していた。デザインは殆ど一緒、どうしようかと迷った末、色で選ぶことにした。一つ選んで、それを持ったまま、フックトラグが写っているカードか2005年のカレンダーがないかと探したが、どちらもなかった。レジでお金を払いながらふと見ると、小さなフックが籠に入っていた。ここで作ったものだと聞いたのでそれも加えた。

店を出た後、昼食をとることにした。ドナがお昼を用意していなかったので、持参したサンドイッチを分けようとしたのだが、遠慮してどこかで買うと言う。途中の分岐点で一旦山側に入り、ようやく小さなお店付きのガソリンスタンドを見つけサンドイッチを手に入れた。その辺りはのんびり出来そうにもなかったので、来た道を先程の分岐点まで引き返し、また海岸道路に入る。ここから上り坂になる。しばらくのぼったが、なかなかお弁当を食べられそうな浜辺は見つからない。お腹はぺこぺこ、何処でも良いから車を止めようとしたとき、ホエールコーブ(Whale Cove)というところに着いた。看板にはそう書いてあったが、浜辺の名前なのか、町の名前なのかよく分からない。道路から10mほど下がったところが小さな入り江になっていて、絶好のピクニックスポットに見えた。ここなら外に出なくてもゆっくりできる。みんなお腹が空きすぎていて、「美味しい?」とノーマがドナにたずねた以外は黙々とお昼を済ませた。

お腹が一杯になると私達は元気を取り戻し、帰りのルートを話し合った。バデックの町には一年を通して開いているお店があるというのでそこに寄ること、途中で面白そうなお店や場所を見つけたらそこにも立ち寄ることを決め帰途についた。

昔、炭坑で栄えたというインバネス(Inverness)の町を通ったとき、二軒一組になった家が建ち並んでいる一角が目に入った。壁を共有している他は庭もあり、住み心地は良さそうだった。炭坑の社宅の特徴だとノーマが教えてくれた。私はエバと彼女のラグを思い出し、思い出をラグにした気持ちが分かるような気がした。

せっかく寄ってもらったバデックのお土産屋さんにラグは置いていなかった。ここでラグを諦める。マイラには真っ直ぐ戻れば1時間ほどで着くのだが、ドナはもと来た道を引き返してまで別のルートを選んでくれた。もっとアケイディアを見物できるように遠回りしてくれたのだ。その道はスコットランドからの入植者が多く住んでいたという地域を通っていて、途中には入植当時の建物を集めたテーマパークもあった。当時の床の様子を観てみたかったが、もう閉園時間も近かったのでそのまま通り過ぎた。次の機会には必ず立ち寄りたい。

写真はシャティキャンプラグ
左:フローラズで買ったラグ、中:ハリファクスで買った栞、右:お土産に頂いたコ−スター

マイラレポート26

5月29日、マイラ最後の朝も3:00amに目が覚めた。ただ、前日までとは違ってその後しばらくウトウトしていた。その時は、時差ボケが治ってきたのかと軽く考えていたが、実は疲れが溜まり始めた事を知らせる信号だったらしい。この段階で気をつけていたら、後であんなことも起きなかっただろう。5:00am、いつものように床を離れ、荷造りを開始する。これが思いのほか手間取ってしまったが、八時にはどうにか朝食を終えることができた。そこで書き残したハガキを済ませることにする。途中手を止めてマイラ河をみると、起きたときよりも雨足が速くなっていた。

十時少し前にノーマを撮りに母屋を訪ねたが、忙しそうだったのでコテージに引き返す。彼女を待ちながら、私はもうひとつの「アケイディアラグ」のことを考えていた。この地方には、1755年に起きた仏系移植者の追放で途絶えたとされる伝説の「アケイディアラグ」の他に、今につながるもうひとつの「アケイディアラグ」がある。そのラグは1929年の大恐慌が北米経済を襲ったとき、米国への出稼ぎ者の多かったこの地方の人々の生活を支えたといわれている。

その話は1900年ニューヨークの街で二人の女性が出会うことから始まる。ひとりは電話の発明者ベルの夫人、もうひとりはリリアン・バーク(Lillian Burke)、首都ワシントンの美術教師だ。二人は意気投合し、その後、バーク女史はケープブリトン島のバデックにあるベル家の夏の別荘をしばしば訪れる。ベル夫人は地元の女性たちのためにクラフト産業を興すことに腐心していたが、その夢は娘とバーク女史に引き継がれた。1927年、女史はシャティキャンプを訪れ、古着の廃物利用でつくる素朴なラグと出会う。当時、シャティキャンプの家庭では6種類ほどのラグをつくっていたらしい。そのうちの二つがフックキング手法を用いている。ひとつはブレロン(breillons)と呼ばれるウール以外の古着から作った半インチ程の刺し布をバーラップに刺したもので行商人達が物々交換の対象にしたという。もうひとつは毛糸を使ったフックトラグだった。しかし、彼女らは染料を混ぜる技術を知らなかったため、配色は単純だったようだ。バーク女史は染色法を教え、毛糸を提供し、新しいデザインと色彩を使ったラグを創ることを薦め、それをニューヨークで販売したという。ラグはたちまち人気を博し、やがてラグづくりは地場産業にまで発展していったと伝えられる。この辺のいきさつはA.Chiasson編の「シャティキャンプのフックトラグと職人達の歴史」に詳しい。

マイラスクールでのレッスンの初日、ノーマはニューヨークの骨董店で見つけたという一枚のラグを見せてくれた。花柄が可愛い約30cm四方のそのラグには$1.25という売られた当時のままの値札がまだ付いていた。ノーマの話しでは、この種のラグに造詣が深くないお店の人は何処で作られたのか知らなかったが、アケイデア地方で作られたものに間違いないそうだ。ノーマは値札の数字についてお母さんに尋ねてみたが、彼女にも記憶のないほど昔のものらしい。このことから、バーク女史がニューヨークでラグの販売に成功した頃の製作ではないかとノーマは推測する。女史の名を聞いて私は意外に感じた。その作品はケント氏の本にある昔のアケイディアンスタイルの写真をもとに膨らませた華やかなイメージとはかなりかけ離れていたからだ。シェーディングが簡単であっさりした感じだった。しかし、プリミティブシェーディングしかない時代に彼女が考え出した方法は画期的だったに違いない。

しばらくしてノーマが修了書を手に現れた。さっき手が離せなかったのはこれを作っていたためだった。私はこのワークショップで初めてもらった修了書を気にいっている。

空港へ向かう途中、雨はますます激しくなっていた。どちらからともなく、昨日で無くて良かったねという言葉が口をついてでた。相変わらず道はすいていて、空港にはすぐに着いた。大丈夫だからと遠慮したのだけれど、ノーマはカウンターまでついてきてくれた。無事に搭乗手続きを終え、彼女にサヨナラを言って私はゲートをくぐった。こうして六日間の貴重な体験を終え、次の目的地であるハリファックスに向かった。

写真:アケイディアラグ(推定製作年代1930年頃)

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1:51pm, およそ1時間のプロペラ機の旅を終え、私はハリファックス空港に降り立った。これから二晩、友人のキャロル・ハーベイ・クラーク(Carol Harvey Clark)のところでお世話になる。案内を見ながら歩いていたはずなのに曲がるところを間違えて手間どり、ロビーに出たらガランと人気がなかった。すぐに、迎えにきてくれたドリスのご主人ロンを見つけ、そちらに急ぐ。八年振りの再会だが、全然変わっていなかった。ただ、長い時間ドライブが出来なくなったそうで息子さんが一緒だった。まだ早いと思ったが、荷物の引き取りレーンに行くと、私のスーツケースだけがポツンと残っていた。五日前に起きた事件が信じられないほど手際のよい積み下ろし作業だった。

ときおり降っていた雨もマホーンベイ(Mahone Bay)に着く頃には止み、明るくなってきた。四時頃、スプルーストップ・ラグフッキング・スタジオ(Spruce Top Rug Hooking Studio)に到着。ロン達にお礼を言ってここで別れ、民家を改装したお店に勝手口から入る。キャロルは急に入った注文の毛糸を染めるところだった。待っている間、お茶をご馳走になる。美味しいお茶で疲れが抜けていくのが分かった。窓際のカウンターでは染めものが進んでいて、お湯がグラグラ煮えていた。気になって少し温度が高すぎないかと尋ねたら、いつもこの温度で染めているの、とすましていた。染め上がりを見せてもらったが、別段、縮んだ様子はなかった。染色した毛糸を外に干し終えたキャロルが、さあ帰ろうと促す。雨が降ったらと心配する私に、「だいじょうぶ」と一言。この辺りでは雨でも洗濯物が表に出ている。取り忘れたのだと思っていたが、気にしていないというのが真相だった。そういえば、いつかアメリカのメル友が、雨の日でもウールを外に干していると書いていたっけ。雨が柔らかくしてくれるというのだが、柔らかくなるのはウールなのか色合いなのかを聞き逃した。いずれにせよ汚れた雨の降る東京では考えにくい話だ。ちょっとしたカルチャーショックだった。

日が射してきた道のドライブは気持ちが良かった。途中で翌朝のパンを買いに高速を降りた。川辺に建つ木造のその店はちょっと目には何の建物かわからない。店の大きなガラス窓にBakeryと書いてあるだけ。六畳くらいの広さの店内も右手にスチール製の網棚、左手奥に四角いテーブルとレジがあるだけで飾り気がない。しかし、棚の10種類ほどの焼きたてのパン、テーブルの透明パック入り6個1組の見栄えを気にしないケーキはどれも美味しそうだった。選ぶのは彼女に任せておいて、私はお客がどれをとるか観察する。人気のある店らしく、客足が途絶えることがない。やがて買い物をすませた私たちはそのまま川沿いの道を彼女の自宅に直行する。

六時頃だろうか、ようやく家に着く。道路から戸口までは50m近くあった。戸を開けると、右手がキッチン、左手がダイニングルームになっていた。ダイニングの隅にスーツケースを置かせて貰いキッチンにもどると、キャロルがワインを注いでいた。花粉症が気になる私は紅茶をいただく。彼女はキッチンのまん中にあるカウンターの傍に窓の方を向いて腰掛け、やりかけの「オオアオサギ(Great Blue Heron)」を刺し始める。食事前に少しフックするのが楽しみで、こうして一日の疲れを取るのだそうだ。私も隣に並んで、刺しかけの「チューリップ」をフックする。窓からは道路を隔ててラヘイブ河(LaHave)の一部と対岸の嫋やかな丘陵が見える。芽吹きの頃で木々の柔らかな緑が美しい。空が刻々と変わっていく中、私たちは黙々とフッキングを続けた。

途中で手を休め、夕食をすませた後、キャロルはフッキングに戻った。私は彼女のラグが埋まっていくのをじっと眺めていた。しばらくして、あたりは暗くなり、庭の「フラミンゴ」に明かりが灯った。ピンク色のネオン管でこしらえたそれは、息子さんからの贈り物で、ご自慢の鳥だった。道路から見えるかどうか確かめに外に出てみたが、花壇のしげみが視界を遮っていた。星空の下、静かに時間が流れていった。

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上(二つ):スプルーストップ・ラグフッキング・スタジオの看板とお店
中:いつも出ている洗濯物
下:キャロルのオオアオサギ

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5月30日、今日はキャロルのお店でフックインのある日。六時に目は覚めたのだが、そのままウトウトしてしまう。気がつくと七時、辺りには明るい春の光が溢れていた。別段あわてることもないのに、その光に急かされて飛び起きた。部屋の窓から裏庭が見える。冬になると決まってキャロルの手紙に登場する鹿の活躍舞台だ。まさかと思いつつも姿を探してみたが、やはりいなかった。山に食べ物がある今の時期にはここまで降りてこないのだろう。

下の部屋で日記をつける事にする。居間からは対岸の丘の、木を切られた辺りがよく見えた。朝の光の中に照らし出されたその光景はとても痛々しかった。昨日、夕闇に包まれ始めたその場所を眺めたときは、ただ「もったいないな」と思っただけなのに。しばらくしてキャロルも下りて来て、オオアオサギのラグの続きを始めた。

日記を書き終え、彼女の様子を見に行くと、ちょうどボーダーの色を考えているところだった。黒にしようとしていたけれど、ちょっと強すぎる気がした。濃い緑はどうかと提案してみると、キャロルはすぐにウールを探しに二階へ消えた。この家には布を置いたラックがあちこちにある。それでも入りきれない分がバスルームまで占拠している。我が家のようにヨッコラショッと箱を取り出し、かき混ぜながら探さなくても良いのでとても便利。ほどなく、二、三色のウールを抱えて戻って来ると色合わせが始った。彼女が最初に選んだ色はボーダーを刺すにはちょっと不足気味だった。それでも諦めきれずにいろいろ計算していたが、結局、別の色に変えた。それは最初の色より濃かったが、試してみると予想どおりラグがしまる。彼女も同意見だった。

フックインはお昼からだったが、彼女の昔からのお気に入りの浜辺、メードコーブ(Made Cove)へ立ち寄ることになり、少し早めに家を出た。途中、あちらこちらで“For Sale(売り家)”の看板を出した家を見た。その上、残った家の多くは既にヨーロッパ人の別荘になっている。これではコミュニティが成り立たないと彼女は嘆いていた。浜辺に着き、車を降りる。水際まで家は建っていたが、ひと気はなく寂しかった。向こう岸の家も寂しげだった。お店もあって賑わっていたという昔の面影は今はもう何処にもない。一人だったら恐かったと思う。懐かしそうに昔話をするキャロルが気の毒だった。

11時頃、マホーンベイに戻る。今日は日曜日で大半のお店は閉まっている。営業する店もあるが、教会が終わる12時半までは開店しない。そんな中、しろめ(pewter)細工で有名なアモス(Amos)が店を開けていた。しろめは鉛と錫の合金で銀器が高価だった頃の代用品だが、銀の値段が下がった今でもその人気は衰えていない。私は八年前にもこの店を訪れている。外からはわからなかったが、店内はすっかり変わっていた。以前に比べ、売り場が小さくなり、陳列されている品物の数も種類も減った。その代わり、製作工程を見学できる立派な工房が店の奥にできていた。そこではちょうど実演が行われていたが、想像していたよりは簡単な作業だった。まず、鋳型を遠心分離機にセットして、上から融けたしろめを注ぎ込む。この合金は遠心分離中に冷えて固まるので、分離機を停めたら型から外し、形の良いモノだけを選んで次の工程にまわす。残念ながらこの日の実演者は、私に出来るのはここまでと、型から出したところで止めてしまい、その先を見ることはできなかった。

写真
上:メードコーブ
下:メードコーブの対岸の景色

マイラレポート29
マホーン・ベイの町の入り口には教会が三つ並んでいる。この景色は有名で、名所の一つになっている。キャロルが遠回りしてそこに連れて行ってくれたのだが、びっくりするような話を教えてくれた。その中の一つが資金を調達するために民宿(Bed and Breakfast, B & B)を始めたというのだ。堂々としたつくりの教会で、信者がそれほど少ないとは思えなかったが、時の流れだとこぼす彼女の寂しそうな姿には説得力があった。それにこの小さな町には他にも教会が幾つもある。教会当たりの信者数は少ないのかも知れない。考えて見れば日本でも宿坊に泊めるお寺はある。

十二時少し前、スプルーストップに着く。着いてすぐ、きのう裏庭に干した毛糸の様子を見た。毛糸はすっかり乾き、深い黄色が日の光に輝いていた。彼女がお店の準備をしている間、二階をのぞく。ここに上がるのは初めてだ。ほとんどの部屋は使われていなかったが、パターンが何枚か置いてある部屋を見つけた。そこにガレッツ(The Garretts)(※)の有名なパターン『ブルーノーズ(Bluenose)』があったので写真を撮らせて貰った。このパターンはノヴァ・スコシア(Nova Scotia)の漁船兼レース用のスクーナー(Schooner) 『ブルーノーズ』をモデルにデザインされ、1932年に発売されてから店を閉めるまで根強い人気があった。現在、この船の絵はカナダの10セント硬貨に使われている。

しばらくして、マリリン(Marilyn)とナン(Nan)がやってきた。二人とも愉快な人でおしゃべりが止まらない。この頃から次第に英語が出なくなった。幸い聞き取りだけは問題がなかったので、みんなと一緒に笑うことは出来たが、この状態はだんだん酷くなり、ついには無理にしゃべろうとすると、どもるようになってしまった。ハリファックスを発つ頃にはホテルに電話をかけ、空港に迎えにきて欲しいと頼むだけなのにどもっていた。同時に集中力もなくなっていたらしく、二人のラグを撮るのを忘れてしまった。

フックインが始り、マリリンはとぼけた顔のデザイン化された猫のラグ、ナンはきれいなチューリップのティーコージー、キャロルはオオアオサギ、私は『ランダムシェル』を刺した。三時頃、この日は参加できなかったメンバーが二人訪ねてきたところで、いったんお茶にしたが、二人が帰るとまたフッキングに戻った。私たちはそうやって四時頃までフックインを楽しんだ。キャロルは帰路、近くの港町ルーネンバーグ(Lunenburg)に寄り道をしてくれた。この町はちょっと変わっている。町の中心部にある家々に庭がないのだ。隣との間もほとんど隙間がない。都会では見慣れた光景も、この辺りにしては珍しいつくりだ。昔、町は砦の中にあったため敷地が狭く、庭は塀の外に割り当てるしかなかったそうだ。当時の人はその庭で野菜を作っていたとキャロルが教えてくれた。運がよければ船がみられるというので、波止場に行ってみると、一艘のスクーナーが停泊していた。もしや、ブルーノーズではと期待したがはずれた。残念だったねと言いながら、港の反対側に移動した。そこからは雛壇のように洒落た家が建ち並ぶ町の様子が一望でき、観光スポットの一つになっている。青空の下、丘陵の若葉を背景に赤茶を中心とした鮮やかな色彩の民家が密集して海を向いている。風もなく、冬着から顔だけ出して、爽やかな空気をしばらく楽しんだ。

その後もいくつか土地の見所をみながら、かなり遠回りをして帰ったのだが、六時頃には家に着いた。そして、また昨日と同じように静かな時が過ぎていった。夕食の時、このつぎ来るときにはワークショップで教えてみないかとキャロルが誘ってくれた。もちろん異論はなく、やってみたいと答えたが、「このつぎ」はあるのだろうか。

※ ガレッツは1897年にジョン・E・ガレット(John E. Garrett)が創設した地元ノヴァ・スコシアのラグ材料のお店で、1970年代半ば頃までカナダ東海岸の家庭を楽しませた。そのデザインは四百種以上にも及び『ブルーノーズ・パターン』として有名。店は第二次大戦前までは繁盛し、戦後再開したが、リノリウムや部屋全体を被うカーペットの台頭、品質の悪いバーラップの過剰在庫、火事によるバーラップの大量遺失など悪条件が重なり、店を閉めるに至った。

写真上:ブルーノーズパターン
  中:スプルーストップのフックイン
  下:ラグになったルーネンバーグ(リサ・ベック作、hooked by Lisa Beck)

マイラレポート30
5月31日、月曜日。この日も晴れ。ここのところ毎晩、明日は雨と予報されているのだが天気は保たれていた。時計を見ると五時だった。そのまま起きて下に行くと、キャロルはもうオオアオサギのフックを始めていた。ラグづくりが終わりに近づくと急にフックがはかどるものなのだが、彼女のラグもその時期に入っていた。どんどん埋まっていくラグを見るのは楽しい。私の一番好きな時間だった。そうして幸せな時間が過ぎていく中、何の前触れもなく、キャロルが完成できなかったラグの話を始めた。それはあるワークショップで出た課題作品で、デザインがどうしても好きになれなかったそうだ。私の場合、ワークショップの課題作品は必ず完成させることにしている。完成して初めて分かる事も多い。時には気が進まないパターンもあるが、「勉強のため」と思って仕上げ、色々な事を学んできた。決して途中で投げ出さない。彼女も私と同じで、その彼女がお手上げというパターンに興味が湧き、見せて欲しいと頼んだ。それで探してくれたのだが、どこかに仕舞い込んでしまったらしく、とうとう見つからなかった。どんなパターンだったのか今でも気にかかる。

朝食のとき、キャロルがジョーン・パターソン(Joan Patterson)の家まで送って上げると言ってくれた。これから二晩、お世話になる家だ。直線距離にすれば10kmくらいしか離れていないのだが、川向こうにあり、この付近で河を渡る手段はフェリーだけ。おまけにキャロルのお店があるマホーンベイとは反対方向、寄れば30km以上も大回りをすることになる。遠回りになるからと遠慮したのだが、「私が日本に行ったら、あなただって同じ事をするでしょう」とゆずらない。結局、甘えることにした。別れ際、もう読んでしまったからあげる、とハリーポッターの最新版、五巻目の装丁本を手渡された。少し前、その本の話題になり、ペーパーバックスを待っていてまだ読んでいない、と教えたばかりだった。この後、この本は旅の良い伴侶になった。少し空いた時間ができると、それを読んでリラックスした。ハリーにはときどきイライラさせられるけれど、やはりこの本は面白い。

九時少し前、ラへイブ(LaHave)河をフェリーで渡る。この辺りには橋がなく、人々は公営のフェリーを利用している。そのフェリーをめぐって、数年前にちょっとした騒動があった。政府が経費削減のため色々調べていたら、1960年代から料金が一度も改訂されていないことに気づいた。それで、いきなりフェリーを廃止することが決まった。驚いたのは住人達。フェリーなら10分ほどで渡れた河を、10km以上も上流のブリッジウォーター(Bridgewater)まで遡って渡ることになる。当然ものすごい反対運動が起き、料金の値上げと存続が決まった。この船をめぐってもうひとつエピソードがある。船には動力が無く、河底に張ったワイヤーを利用して、行き来している。それがある天候の悪い日に切れてしまった。自力でどうすることも出来ず、流されている船を貨物船が見つけ救出したそうだ。そのまま海まで流されたら大変なことになったとキャロルは話してくれた。

ジョーンの家の前でお礼を言ってキャロルと別れた。すぐに車の音を聞きつけたジョーンが出てきて歓迎のハグをしてくれた。彼女もラグフッカーでB&Bもやっている。三日後の政府のB&B検査の準備で忙しい中、私を泊めてくれ、次の日は小さなパーティまでひらいてくれた。いつも明るく楽しい人だ。簡単な挨拶の後、一階の入口に近い部屋に案内された。「あとで買い物に一緒に行こう。それまでゆっくりしていなさい」と言ってジョーンは部屋から出ていった。しばらく寝ようかと思ったが、マイラで起きられなかったことを思い出した。そうかといって疲れることはしたくなかったので、さっきもらったハリーを早速ひもといて時間を潰すことにした。

写真

上:フェリーに乗り込む車
中:ラヘイブ河を渡るフェリー
下:ジョーンのB&B「リトル・リバー」

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