マイラレポート1/4

 マイラレポ−ト1
2004年5月23日、AC002便は7:10pmに成田を飛び立った。出発予定時間は7:00、ほぼ定刻。こんなことは初めてだった。これはさいさきが良いと思ったが、12時間後、この予想は見事にはずれた。たどり着いたトロント空港は雷雨のために混乱していた。予定通り着いたものの飛行機は降りることが出来ず、上空を旋回していた。最初は私も余裕があり3年前に友達が住んでいた家を探して外を見ていた。もちろん分かるはずはない、それでも乗り継ぎの国内線に乗れないかもしれないという心配を忘れさせてくれた。ゆうに30分は過ぎた頃、ようやく滑走路が空いた。ところが、地上に降りると今度はゲートが空いてないと言う。やっとゲートが空いた。この頃は、すでにもう時計を見る余裕もなかった。飛行機を降りて一番先に、機内で受けたアドバイスに従い、地上係員に乗り継ぎのことを訊いた。「この雷雨で空港は混乱しているから大丈夫」という返事が返ってきた。長い工事の末、一ヶ月前にトロント空港は新しくなり、不便になった。国際線のゲートが税関、荷物の引き取りレーン、国内線のゲート等とは別のビルに入り、その間をバスで移動するようになったからだ。混乱は更に続く、とにかくバス乗り場へと急いだが、今度はそこにバスがいるのに自動扉が開かず表へでられない。誰かが、「Welcome Home.」と叫んだ。そう、確かに私はカナダへ帰ってきた。2、3分程して別のドアの所にいた係員がやってきてドアを開けてくれた。彼がどうやってドアを開けたのか見過ごしたが、もしかしたらすべてのドアが手動でないと開かない状態にあったのかも知れない。いつもならもう少し観察するのだがそんな時間はない。バスに飛び乗り、ひたすら急いだ。(続く)

マイラレポート2
かなりのスピードで私は荷物のレーンにたどり着いた。指定されたレーンは黒山の人だかり。他にもレーンがあるのに3便分の荷物がそこに集中していた。しかもすでにある荷物はいっこうに減らず、ただグルグルと回っていた。一方で次々と送られる新たな荷物が重なり山を作り始めた。カッターとその刃6個、ラグのアルバム、ラグ1本、冬から初夏までの衣服で私のスーツケースはかなり重い。積み上げられてしまったら取ることが非常に難しくなる。加えて、私は右腕に問題があり、あまり力を入れることが出来ない。減らない荷物に段々イライラしてきたが、出てきたスーツケースは少し減った荷物の隙間に落ち、手前になっていた。次は税関へダッシュ。どこへ行くという質問にラグフッキングを習いに行くと答えたが、Hookingと Cookingを聞き違えられ、なんで料理を習いに来たと尋ねられた。それで、マイラリバー・ラグフッキング・スクールへ行くと言い直したところ、他には何も訊かれず無事に通関した。最後のダッシュで国内線のターミナルへ行く。8:00pm、飛行機は8:15pmに発つ、「良かった間にあった。」と思ったのも、つかの間、ドアのそばにいた係員にチケットを見せろと言われた。チケットを出すと飛行機はもう出たと言われた。それ以上の指示も案内もないので、この信じがたい話を確認するために別の係員に尋ねる。聞き間違いではなかった。その人の指すカウンターの方に行き、順番を待つ。ようやく自分の番になると、再度飛行機はもう出たと教えられた。次の便は10:30pm、2時間も待つのかと思ったとたん追い打ちがあった。「I put your name on our waiting list for you、満席だからウエーティングリストに載せておいてあげた。ゲートに行ってそこでもう一度、カウンターに行きなさい。」ときた。さすがにムカッとした。予定より早く飛行機が出たのはこの人の責任ではないかも知れないが、何が"for you"だ"We are sorry"くらい言ったらどうだと思ったが、気を取り直しゲートに行くことにした。(続く)

マイラレポート3
荷物を預け直し、私は教えられたとおりエレベーターに乗り、2階へ行った。多分ノロノロ歩いたのだと思うが、手荷物検査を受けてからゲートまでの道は遠かった。9:00pm、ゲートに着く。カウンターに人がいた。10:30pm発の飛行機の係りの人にしては早いなとは思ったが、一応きいてみた。やはり違った。後から来る者に尋ねて下さいと言われた。こうなれば次の係員を待つしかない。少し落ち着いたので、家に電話をかけて国内線に乗り遅れたことを知らせる。電話が済むとドット疲れが出た。食欲は全然なかったが、食べたら元気が出るかも知れないと思い、フードコートに行った。食指が動くようなものはなかったので、ゲートに戻り持参した魔法瓶のお茶を飲む。しばらく本を読もうとしたが、集中できない。

雷はまだ鳴っていた。大きな稲光がした時、女の人が話しかけてきた。みると稲妻を指して笑っていた。中国語のように聞こえたが、何を言われたのか分からない。分からないと答えると、その人はまた同じことを繰り返した。仕方がないので、今度は中国語が話せませんと伝えたが、もう一度稲妻を指して笑った。多分すごい稲妻だと言っていたのではないかと思う。確かに迫力のある稲光だった。今思えば、あんなに広い場所でガラス越しに稲光を見る機会はそうそうない。もっと観察しておけば良かったが、そんな気力はなく、ぼんやり眺めていた。

ぼんやりと、着陸直前、機内に流れる「分からないことは地上員にお尋ね下さい」という案内の意味について考えていた。「分からないこと」って・・・? 地上員ってなんのために・・・? 乗り継ぎ便に間に合うかどうか分からないので地上員に尋ねた。彼女は確認もせずに「I think」に続けて、大丈夫と答えた。それを信じてその便が離陸しているのも知らずに走った。やはり「I think」は恐い。ちなみに、乗ってきた国際便も乗り継ごうとした国内便も同じ会社が経営している。

10:30pm、飛行機が出るはずなのに、誰もカウンターに来ない。ひとけがなくなり気温が下がったのか、寝不足と疲労のせいなのか、じっと座っていると寒い。私はますますぼんやりしてきた。そのうち何だかよく分かる会話が耳に入ってきた。それもそのはず、日本人の女の子が2人後ろで話していた。漫才の掛け合いみたいでとても面白かった。後で少しおしゃべりをしたが、私と同じ乗り遅れ組。ハリファックスに英語の勉強に行くと教えてくれた。(続く)

マイラレポート4
11:30pm、やっと係りの人がカウンターに現れる。10分ほど待っても何の案内もないので、カウンターまで出向いたが、チケットと搭乗券を預かると言われただけだった。いつの間にかカウンターの前には列が出来ていた。窓際のイスに戻ると、あの女の子達が心配そうに話していた。声をかけると、カウンターに行こうかどうか迷っているという。無理もない、普段ならチェックインは一度でよく、後はゲートで搭乗案内を待つだけだから。「満席なので、もう一度チェックインするように言われなかった」と尋ねるたら聞いていないという。念のため搭乗券を確かめるとやはり座席の番号がない。結局、1人が代表してカウンターまで出向いた。ほどなく番号がもらえたといって彼女が帰ってきた。「良かったね。それで、ハリファックスに着いたらどうするの。」という言葉をきっかけに話が始まる。何をしに来たのかときかれたので、ラグ・フッキングを紹介する。女の子のひとりはクラフトが好きだと言い、自分で作った指輪を見せてくれた。可愛い指輪だった。「じゃあ機会があったらみてね」と私のHPのURLを教えた。数日後、HPを見たとのメールが届いた。ネット時代の出会いはテンポが早い。二人は半年ここに滞在すると言っていたが、ハリファックスはフッキングの盛んな町なので、本物のラグを見られる機会があればいいと願っている。

12:00am、ようやく私も座席番号をもらえたところで、搭乗が始まった。どういうわけか私の席はビジネスクラスだったので、二人とはここで別れた。席に着くと12:30am出発予定のアナウンスがあり、やれやれと胸をなで下ろす。スチュワードが、待っている間に何か飲むかと声をかけてきた。オレンジジュースを貰う。次にカゴにごっそりのスナックを持ってきた。非常用にチョコーレトを取ったが、それだけで良いのと聞かれ、クッキーも貰った。結局、飛行機が飛んだのは1:30am頃だった。

いつの間にかウトウトしたらしい。目が覚めると飛行機は降下を始めていた。外は白みかけていた。トロント−ハリファクス間は3時間、もう4:00am近いはずだ。元気だったら日の出を探したと思うが、相変わらずぼんやりと空を眺めていた。やっと到着。再びダッシュ。今は少しでも早くホテルに着き、仮眠をとることしか頭にない。ところがロビーへの出口まで来ると外からカギがかかっている。体当たりする人まで出たが、ドアは開かない。ここであの女の子達にまた会った。機内でワインを飲んだという二人の話はますます面白くなっていた。とうとう乗客全員が足止めされてしまった。皆ブツブツ言っている。やっとドアが開いた。(続く)

マイラレポート5
一塊りになった乗客が荷物のレーンに向かった。お迎えの人が来ていた二人とはここでサヨナラする。迎えの人も大変だったに違いない。町と空港は40kmも離れている。ちょっと家に帰ってまた来ると言うわけにはいかなかったはずだ。

最後の荷物が出たのかベルトコンベアが止まった。しかし、私のスーツケースはなかった。思わず、向にいたツナギの人に"Is that all?"と尋ねた。"That's all."が返ってきた。「どうすればいいのでしょう。」との問いには「そこの事務所に行けばいいよ。5時になると人が来るから待つ?」という返事。時計を見ると4:40amだった。「待たない。」と答えると、「そうだよね。長い一日だったね。もう、充分だよね。」と言ってくれた。そういいながら事務所のドアに貼ってあるポケットから案内書を取り出し、「ここに電話してもいいんだよ。」と教えてくれた。さらに、ホテルへ行くシャトルのバス停を教えてくれてから、一旦立ち去った。出口の方に向かっている時、再び彼が現れ、ホテルに迎えを頼んだ方が早いかも知れないからと言いながら、わざわざ直通電話のあるところまで連れて行ってくれた。システムはいったん歯車が狂い出すと収拾がつかなくなる。そういう時の心がこもった臨機応変な対応はどんなに私達の心をいやしてくれるだろう。またひとつ素敵な出会いをした。お礼を言って、ホテルに電話をすると、すぐに行くのでバス停で待つように言われる。外は霧がかかっていた。かなり濃い。バス停までは10mほどある。明かりはあったが、そんなところに1人で立っているのはイヤだったので、ドアのそばで待つことにする。5分ぐらいして車が見えたので、バス停まで急いだ。

チェックインを済ませ家に連絡してから、エアカナダの事務所に電話する。6時以降にかけ直して欲しいとの音声メッセージが流れた。案内書に営業時間を書いておいてくれるといいのにと思いながら、受話器を置いた。

シドニーへの飛行機が出るのはお昼頃、本当ならゆっくり出来るはずだった。10:30amに空港に着けば良かった。それが、スーツケースが届かなかったことで、全く変わり、予定より1時間も早くホテルをチエックアウトすることになってしまった。9:00amまで寝たとしても3時間しかない。目覚ましをかけ、寝過ごした場合に備えて服のまま横になった。でも、寝過ごす心配の方が強く一向に眠くならない。30分後には起きていることにした。(続く)

マイラレポート6
9:30am、紛失荷物のクレームを扱う空港事務所。事情を説明し、荷物の預かり証を見せると係官は言った。「ミセス ヤマモト、あなたの荷物は30分後に着くトロントからの便で届きます」。届くと言われれば待つしかない。しかし、30分が過ぎても荷物のレーンは動かなかった。事務所に戻ると先刻の係官はおらず、最初から説明しなおした。するとトロントからの便は今着いたという。再びレーンへ・・・。結局、スーツケースは届かず事務所に逆戻り。そこで荷物が届かなかったことを告げ、ようやく手続きをとって貰えた。書類の写しを貰い、シドニー行きの便に乗るためチェックインカウンターまでダッシュ。

チェックインは簡単に終わったが、手荷物検査で時間をとられた。X線検査を無事終了後、係官が中を調べても良いかと一言。そしてハンドバッグとボストンバッグの中身をあけて、一点、一点調べ始めた。一番怪しまれたのは魔法瓶のお茶と安全ピン。魔法瓶の中身は何だと聞かれ「紅茶」と答えると、栓を開けて臭いをかいだ。「紅茶みたいだ」とうなずいたものの、別の係官にも確認させた。その係官も「紅茶」といってくれたのでそのままになったが、別な答えだったら中身は捨てられたのだろうか。二人の係官が安全ピンを持って何か相談を始めた時は「いいのよ、没収してくれても」と心の中でつぶやいた。もう11:00amを過ぎていて、飛行機は11:30amに出る。昨日の悪夢がよみがえる。後日談だがノーマにこの話をして、私が魔法瓶に爆弾でも入れていると思ったのかしらとふざけたら、真顔で「けっして係官にそんなことを言ってはダメよ」と注意してくれた。似たようなことを言って逮捕された人がいるらしい。今、北米の空港は相当ピリピリしているようだ。私はPadulaというネットのフッキング・グループに属しているのだが、そこにも手荷物のフックとラグバサミを没収されたというメールが時々入る。先日、「私は没収されなかった」という報告があり、その人はその理由を「My honesty or my beauty 」と書いていた。私の場合、係官は女性だったので、正直そうに見えなかったということらしい。

検査からやっと解放され、ひたすらゲートへダッシュ。これが遠かった。シドニーへはプロペラ機が飛び、ゲートは飛行場の片隅にあった。私が乗り込むとすぐ、飛行機は離陸した。時計を見ると11:25am。予定より5分早かった。

空の上から見ると木々の間には、"Bog"というのだろう、小さな池や湖が点々と散らばっていた。ケープブリトンはスコットランドに似ているという。眺めていたら昔読んだラッシーの一節を思い出した。売られたラッシーは元の飼い主の家まで戻る途中何度も"Bog"に出くわし、遠回りをしなければならなかった。それは大変な旅だったということを本には書いてあった。当時はその状況がイメージ出来なかったので『そうなんだ』と思っただけだが、それがどんなに大変な事かよく分かる。それは犬と男の子との絆の強さを表していた。これだから人生は面白い。飛行機の中で私は20年以上も前に読んだ子供の本を理解したのだ。

シドニー空港にはノーマが迎えにきてくれるはずだったが、いなかった。しかし、私は心配しなかった。来てくれると思ったし、手違いがあったとしてもタクシーで行けばよい。ついにケープブリトンにたどり着いた。その安堵感がひろがった。(続く)

シドニー空港とプロペラ機

マイラレポート7
ノーマを待っている間、今後のことを考えた。スーツケースは何時届くのか?届かなかったらどうすればいいのか?すべてがスーツケースに入っている。着替えは買えばいい。フッキングの道具はどうしよう。多分カッターは借りられるだろう。フープとフックはノーマから分けてもらえるだろう。ただ、手に入ったとしても、フックはやっかいな問題だ。手に馴染むまでに時間がかかるし、使い勝手がフッキングのスピードを左右する。マイラ滞在の時間は限られている。どのくらい早くなじむだろうか。また、出来たばかりのラグも入っている。テーマは友達の愛犬、タイトルは犬の名前を取って「イソップ」。アレはこのまま消えてしまうのだろうか?私はどうしてもその犬をフッキング仲間に見てもらいたかった。それに去年頂いた刺し布用の素材「ロービング(Roving)」は無事だろうか。新しい素材を使い、アケィデア・スタイルのラグを習うのが今度の旅の目的のひとつなのだ。

                     ロービング

しばらくしてノーマが現れた。出がけに車の汚れが気になり掃除をしていて遅くなってしまった、としきりに謝っていた。もちろん気にしないで下さいと答えた。想像したより小柄な人だった。2月に手術をしているので、心配していたが思ったより元気そうだったので安心した。それに、彼女は知り合いに似ていて、会った瞬間にそれまでの緊張が解け「すべて上手くいく」と思った。でも、今はいくら考えてもそれが誰だったのか思い出せない。英語ではこんなボケをした時に「Senior moment」というらしい。最近こういうボケが増えてきた。
第一印象は間違っていなかった。彼女は気さくないい人で、良いラグ・フッキングの先生だ。私は素晴らしい日々をマイラで過ごした。

シドニーはちょうど春が始まったばかりだった。沿道の家の庭にはチューリップが咲き始め、水仙がきれいだった。着いた日はビクトリア・デイ、カナダの祭日でのんびりした空気がながれていた。この日は天気も良く、北国独特の澄んだ春の光を楽しんだ。道はすいていて、マイラに着くまで車をほとんど見かけなかった。15分ほどでハイウエーから横道に入り、さらに5分ほどで家に着いた。そして、そのまま母屋を通り過ぎてそこから30mくらい離れたコテージに入った。

ところで、マイラ・リバー・ラグフッキング・スクールの名はすぐそばを流れる川に由来する。不思議な川だった。川幅は広く、流れはゆるいと言うよりは、全然流れていないようにさえ思えた。大きな湖と言われても信じてしまっただろう。(続く)

コテージとマイラ川

マイラレポート8

食堂の入り口付近)

むかし歯医者さんの夏の別荘だったというコテージはマイラ河畔に建っていた。入ってすぐの部屋は食堂で、その背後にカウンターを隔てて台所、そして更にその先は家の大半を占める居間になっていた。台所のレンジの上の戸棚には、ノーマが染め物に使うジャムの空き瓶がぎっしり並んでいた。私の寝室は食堂の左手、その壁際に洗濯機と乾燥機が置いてある。寝室に入ると、大きくはないが寝心地の良いベッドが2つ。寝る時はよじ登るという表現がぴったりの昔のベッド。隣合わせに同じような作りの寝室がもう一つ。これは居間に面していた。居間は三方が大きな窓になっていて、その向こうには白樺とマイラ川のパノラマが広がる。居間の右手には大きな暖炉、お天気が悪くなれば急激に寒くなる北の暮らしに備えてある。左隅にはノーマのおばあさんが使った織り機と本箱が2つ。フッキング関係の本は少なく、貝やランの図鑑など参考書類が並んでいた。

マイラスクールでは朝と昼をコテージで自炊し、夕食は母屋で食べることになっている。ひととおりコテージを見てまわってから台所に戻り、冷蔵庫の中身や食料品のストック置き場の説明をしてもらった。このころまでには昨夜の冒険談を話し終えていたので、ひどく荷物の少ないわけを彼女は知っていた。そして、夕食は6時だけれど食事はとっておくから目が覚めたら来ればいい、と言いながら母屋に戻って行った。

2:30pmお昼も食べずに私はベッドに直行した。普段から寝付きは良い方だが、バターン・キュー。7:00pm電話の音で目が覚めた。昼間、母屋との連絡は電話を使うように言われていたので、ノーマだと思って受話器を取ったが、それは外からの電話だった。内線の調子が悪くて切り替えられず、取り継ぎのため母屋に走った。これ以後は、話をややこしくしないように居留守を決め込んだ。母屋で「すぐご飯にする?」と聞かれたが、起き抜けで胃が落ち着かなかったので、もう少し後でと答えコテージに戻った。お茶を飲んで、一息入れていると息子さんがやってきて「これから荷物を届けるという電話が空港からあった」と教えてくれた。一件落着。安心して晩ご飯を食べに母屋に戻った。8:00pm食事。この日食べたフランクステーキはじつに美味しかった。

(居間)

9:30pmご主人とコテージに戻る。ステレオの使い方を説明していただくためだ。ステレオにはラジオも付いていてクラシックを聴くなら‘ten-nineteen’だとノーマは教えてくれた。それでご主人は「10.19」にチューニングしようとしたのだが、局が見つからない。一所懸命やって下さったのだが、どうしても見つけられない。ご主人が諦めて帰った後、届いたスーツケースを開け、明日の準備にかかった。翌朝分かったのだが正しい番号は「101.9」だった。英語では二桁ずつ数字を区切って読むくせがあり、これも‘ten-nineteen’と読めない事もない。(続く)
 

マイラレポート9

10:30pm、持参のラグ、アルバム、フッキングの道具を居間に運んで、翌日の準備完了。座る場所は、朝、光の具合を見て決めることにして床に就く。まだかなり疲れが残っていて翌朝まで熟睡できそうだった。しかし、2:00am、目が覚める。いつもの時差ボケコースと思ったが、すぐにうとうとする。二時間後、再び目が覚める。今度はもう眠りに戻れなかった。 5:00am、起きてお茶を飲むことにした。お茶を飲みながら、昨日ノーマが勧めてくれた本を読んだ。シャティキャンプ地方のラグ作りの歴史が書かれていて英訳されている。編集者は牧師さん、よほど教会とラグ作りは関係があったのだろうか。タイトルは"The History of Cheticamp Hooked Rugs and their Artisansモ, edited by Father Anselme Chiasson, Researched by Annie-Rose Deveau, translated by Marcel LeBlanc".カナダで英訳とは不思議に思われるかも知れないが、この地方は仏語圏である。1775年頃だったと思うが、英仏戦争に勝ったイギリスはフランス人をこの地から追放した。何人かは山の中に逃げ込み、ひっそりとラグ作りを続けたと聞いたことがある。そういう地でフランス語を話すことはとても危険だったはずだが、いつの間にか仏語圏になっている。
本の中に気の毒な話があった。春の大掃除の季節、英語圏から来た行商人が、ある家の裏庭に干してあった素敵なラグを見つけた。値段を聞いたところ"Nothing"という返事が返ってきた。持ち主の女性は売る気は全然なかったが英語が話せない。「売りません」という意味でそう言っただけ。しかし、その行商人は「タダです」と言われたと思い込み、"Thank you"と言ってラグを持ち去った。ビックリした彼女はラグを取り戻そうとして"Nothing, Nothing"と叫びながら、行商人を追いかけた。だが、彼はそのたびに"Thank you, thank you"と繰り返しつつ去っていった。行商人達がこの地方のラグの価値を見出し、物々交換をして歩いていた(1920−1940)頃の話で、この地方で作られていたラグの素晴らしさを物語るエピソードだ。面白くて心残りだったが、1時間程読んだところで中断した。朝食後、再び本に戻る。メモを取りたかったが、手にはいるかどうか分からない本だ、読めるだけ読んでおいた方が良いと考え、そのまま読み進んだ。余談だが、その三日後、シャティキャンプの博物館で本は手に入った。

昨夜、ノーマとレッスンは午前中の2時間と決めてあった。10時少し前座る場所を決め、カッターをテーブルに取り付けながら、ノーマを待った。10:00am待望のレッスンが始まった。(続く)

マイラレポート補

いよいよレッスンが始まりますが、その前に今回の旅のいきさつについて少しお話しておきます。マイラ・リバー・ラグフッキング・スクールはカナダのノバスコッチア州ケープブリトンにあり、日本からは成田−トロント−ハリファックス−シドニーと飛行機を乗り継いでいくのが一番速いルートです。飛行時間は16時間ぐらいですが、乗り継ぎがあるため2日かかります。シドニーからは車で、15分ぐらいのところにあります。そんなに遠いところまでどうして行くことにしたのか、不思議に思われる方もいるでしょう。ことの始まりは2002年の秋にいただいた一通のメールでした。

初めてマイラの名前を聞いたのは、「Nova ScotiaにあるMira River Rug Hooking Schoolという学校を見つけましたが、何かご存じですか?」という一通の問合わせのメールが届いた時でした。その方(Yさん)は旅先で見つけたラグ・フッキングに興味をもち、教室を探していらした方で、国内では、中々適当なところが見つからず、いっそのこと休みを利用して海外で習ってやろうとお考えになっていました。早速、ノバスコッチアの友達に尋ねところ、その学校は"Hooker's dream"だという返事が返ってきました。続いて送られてきたパンフレットには、「マイラ・リバー・ラグフッキング・スクールは、1997年の秋にノーマ・ファガソン・シルバースティン(Norma Ferguson Silverstein)によって設立された。ノーマはOHCG(Ontario Hooking Craft Guild)の認定教師」とあり、プログラムもユニークでした。さらに、河のそばで5、6人のフッカーがラグをひろげている写真には何とものんびりとした雰囲気があり、Yさんが何故マイラに行きたいと思われたのかが良く分かりました。ノーマ自身は自分のスクールは"Learning Vacation"の場所だと言っていますが、そのとおりです。この時からマイラは私にとっても何時かは行ってみたいワークショップリストの一番上の存在になりました。

同じ頃、早水さんとつくったラグ・フッカーズが始動し、私は日本でもラグ・キャンプを開きたいと考えていました。マイラのことは頭に浮かんだものの、いきなり海外というのはあまりにも無謀なので、まずは東京に近い箱根でやってみることにしました。これは希望者が集まらず、見事に失敗しました。原因を調べているときに「近すぎる」、「海外」なら家族に遠慮することなしに参加できるという声がありました。それならばと翌年はマイラでのキャンプを計画しました。最初は順調にいきましたが、結局、予定していた人数が集まらず、開催は難しくなりました。仕方なく、ノーマにキャンセルしたいとメールで伝えたのですが、「良かったら、あなた1人でも来ない?」と、お誘いを受けました。予算の事などを考えて数日迷いましたが、折角の機会でもあり、アケイディアンスタイルのラグも観てみたかったので、次回の下見も兼ねて出かける事にしました。それにあちらのお友達にも会えるし...。

すべてが新しい経験に向かって動き出したようにみえました。ところが、その後、思いがけない事が起きました。飛行機の都合で、予定を1日ずらさなくてはいけなくなり、ノーマに問い合わせのメールを送ったのですが、なかなか返事がありません。不思議に思って待っていたのですが、2月の終り頃になって、ノーマが急に入院、手術することになったという知らせが届きました。どのくらい悪いのか見当がつかず、いらっしゃいと言っていただいても、出かけて良いものかどうかわかりません。どうか手術がうまくいきますようにと気を揉んでいるうちに4月になりました。朗報は春と共にやってきました。もう大丈夫だからというメールが届き、漸く私の決心がつきました。そのメールにはもうひとつ良い知らせがありました。ノーマが1日はグループレッスンになるようにワークショップを計画してくれたのです。これは、予算の面でも大変助かりました。

以上が今回のマイラ行きの経緯です。もともとは、皆とワイワイ言いながらラグ・フッキングに専念する楽しさを日本にも紹介したくて立てた計画でしたが、当初は予想もしていなかった方向に進んでしまいました。

こうして私はマイラに行きましたが、肝心のYさんはまだです。なるべく早く機会がおとずれますようにと心から願っています。

マイラレポート10

レッスンが始まってすぐ、ノーマに作品を見せて欲しいと言われ、持参したラグとアルバムを見せた。黒い犬のラグをひろげたとたん、「犬のハイライトに青を選んだのは誰?」と聞かれビックリした。この質問は、その後も行く先々で繰り返され、いずれの場合も言外に「青、何故?」と聞かれているように思えた。答えはとても簡単、私がモデルにした犬の写真のハイライトが青になっていたから。それで私は単純に青を含めて色構成をした。また、刺し布を選ぶとき、手持ちの毛糸から一番イメージに近い色を選んだことも理由に挙げられるだろう。それに、濃い青は黒に見える。だから、私は青のハイライトに何の疑問も持たなかったが、突然青い犬を見せられた人たちは驚いたらしい。  

ノーマの貝                          イソップ

テーマを選ぶ段になって何がしたいと聞かれて困った。やりたい事はたくさんあるが、出来るだけ多くの事を習い、かつマイラにいる間に出来上がりのメドをつけておけるパターンを選ぶとなると限られている。はじめの計画では、近くの漁村に行き、その風景をスケッチするコースをとることになっていた。こういう形式のワークショップは他ではやっていない。しかし、これは10時から4時までのグループレッスンだ。マイラ行きはもともと、ラグ・フッカーズのためのグループ旅行として計画したものだが、今回は予算の関係で、一日2時間の個人レッスンに変更してある。魅力的だが時間がない、ボツ。同じ理由でノーマが万華鏡(kaleidoscope)と呼ぶパターンもボツ。マイラ独特のものなのに残念だ。あまりにも単純すぎる、というノーマの一言でアケイディア・スタイルのラグも消えた。このスタイルでは、アウトライン以外は全て水平にフックするだけで、ときにはアウトラインもとらないことがあるらしい。イロイロ考えた末にシェーディングを習う事にした。テーマは貝、コテージの暖炉の上にノーマの貝が飾ってある。それに心が魅かれていたので、同じパターンを選んだ。ノーマのラグはウール地にフックしてあるが、それでは用途が限られてしまうので、地布にはヘアレスリネンを選んだ。

テーマが決まれば、次は刺し布選びだ。コテージの前の赤い納屋にウールやスオッチが置いてある。ノーマは私をそこに残し、パターンを作りにコテージへ戻った。残された私はスオッチを2組選ぶ事になっていた。何通りかの組合せを試した後、ふだん自分が選ばない、ピンクサーモンとミント系の2色を選んだ。コテージに戻ると丁度パターンが出来上がったところだった。最初にフックする貝の形と色を選び、シェーディングのやり方を習ったところで、12:00pmとなる。1日目のレッスンは無事終了した。

赤い納屋

ところで、ここで習ったシェーディングは、ノーマの許可を貰い、マイラシェーディングと名付けた。(続く)

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