新・闘わないプログラマ No.257

256回記念企画(1)


ええと、前回の最後の方で書きましたように、今週より「256回記念企画」ということで、今までにここに書いた文章を読み返してみて、自分でコメントを付けてみよう、などと思っています。
自分でも、いったいどんな恥ずかしいことを今まで書いてきたのかすっかり忘れている(というか恥ずかしいので記憶に残さないようにしている、と言った方が正しいかも)ので、けっこうヤバめの企画かも知れないなあ、などといまさらながら思っているのですが、もう先週宣言しちゃったので、とりあえず行ってみます。

No.1 「私の貧弱なコンピュータ環境」 1997.10.13
まず第1回です。これを書いてからもう5年以上経つんですね。当時はパソコン関連の製品ってどれも高かったせいもありますけど、今から見ると本当に貧弱な環境でした。そこにも書いているように、当時はMacintosh Quadra 700っていうのをメインで使っていまして、この文章も記憶によれば、確かこのMacで書いたはずです。
当時あった機器のうち、今でも現役なのは、ディスプレイのNANAO T560iくらいでして、これも夏頃に半分壊れかかったのですが、気温が低くなってきたら調子を取り戻したので、いまだに使っています。あとは、PC-9801RA2は、まだ押入れの中に眠っていて、この駄文を書くにあたって動かしてみようか、とも思ったのですが、ディスプレイケーブルが見つからなくて諦めました。Quadra 700も多分動くとは思います。物は目の前のラックに乗っかったまま埃をかぶっています。
しかし「パソコンなんてPentium 100MHzもあればほとんどの場合性能的に十分なんじゃないでしょうか」などと寝ぼけたこと書いてますね。このとき以降、デスクトップPCはi486SX 33MHzからCeleron 1.3GHzへ、ノートPCはPentium 100MHzからPentium III 866MHzへ、Macは 68040 25MHzからPowerPC G3 400MHzへと、かなりのパワーアップをしているわけでして…。

No.2 「98よ、安らかに眠れ」 1997.10.13
これは第1回と同じ日に書いています。当時は読者は皆無に等しかったのですけど、とりあえず2つくらい書いて載せておかないと格好がつかないかなあ、ということで同時に2つ書いて載せました。
最初のアホな話には目をつぶってください。当時、新たに開発する新MacOSに「Rhapsody」という名前(開発コード?)を付けた、というのが話のベースになっているのですが、そんな話、もう誰も覚えてもいないかも知れません。その後紆余曲折があって、今のMacOS Xがある訳ですけど、そこまでの間にあったその紆余曲折による寄り道が今のAppleの現状(惨状?)に繋がっているとも言えるかも知れません。
それはそれとして、この文章を書いた頃、ちょうどNECがPC98アーキテクチャを捨てようとしていた時期だったんですね。私自身PC98にはかなり思い入れがあるので、こんな文章を書いてみたわけです。後に「無印98」と呼ばれた初代モデル以降、かなり使い込んできましたし。
さて、このPC98、今でも売っているんだろうか、と思いNECのサイトを調べてみたところ、まだ一応売っているみたいです。私の知っている範囲でも、未だに98のCバス用のボード経由しか接続できない機器もあったりしますし、多少は需要があるんでしょうね。

No.3 「大手コンピュータメーカ営業マンの通信簿」 1997.10.20
あの、もしかして「営業マン」と言う言葉、男女差別だ、とかでまずかったでしょうか。女性の営業の方もたくさんいらっしゃるでしょうし。かといって当時の文章を今から書き直すようなことはしません。
さて、最近は外資系の会社の方とのお付き合いが増えていまして、日本の大手メーカの営業の方とは最近あまり話していないのですが、でも、今でも似たような傾向はあるかなあ、と思っています。もちろん私の見る範囲内のことですけど。
でもって、あいかわらず、あの社長さんのいらっしゃるF社とは、いまもってほとんど付き合いは無いです。理由はよく分かりません。なぜなんでしょ?

No.4 「『ほーむぺーじ』で世界に情報を発信!?」 1997.10.27
状況は変わって来ているので、当時と同じことが言えるわけでもないのでしょうけど、私自身の基本的な考え方は今でも変わっていません。この辺の話は、同じような話をこの後にも何度か書いていますので、特にコメントはしません。ただ、回線速度も速くなってきていますので、見栄えにこだわるページも「それはそれでいいんじゃない?」とは思いますけど(ただし、外でPHS等でつなぐ場合でなければ)。
しかし、当時はやたら顔文字を使ってましたね。今から見ると、まさに「ウザい」という言葉がぴったりです…すみません。

No.5 「アスキーはどこへ行く?」 1997.11.2
このサイト、最初はアスキーのやっていたインターネット接続サービスのAIXってところを使って始めました。完全従量料金制でweb用スペースが持てるところはここ以外にほとんど無かったもので、決めました。もちろんアスキーにそれなりに思い入れがあった、というのも選択理由の1つだったかも知れません。
しかし「西さんって、非常に見識を持った人だと思うんだけど」というのは私の完全な勘違いだったみたいです。わはは。例の1ch騒動などを見ると(というほど、私もよく知らないのですが)、アホかいな、と思ってしまうわけでして。
そういえば「ASCII」本誌などもう長いこと見てもいません。今ではどんな雑誌になっているんでしょう。あとで書店で立ち読みでもしてみようかな。

あれ? まだ5回分しか書いてないのに、やけに時間がかかってしまった。まいったなあ。過去の駄文を読んで適当にコメントを付ける、ってのは簡単だろうと思って始めたのに…。
もう時間も無いので、とりあえず今回はこの辺で。また来週。

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