Tenderness

Home

title

セピア


beach_color思春期の情景・・長崎県-口之津の海・白浜・港、そして島原

 ▼いつも夏が近づくと、あの海が浮かぶ。
その海は長崎県島原半島の南にある海、白浜という海岸だ。
だがもう何年も見ていない。こうして、だんだん・・本当に、写真より先に記憶の中でもセピア色になってしまうのかもしれない。beach・・というのも、そこにはもうその町とぼくとの関係を繋ぐものが、しだいになくなってしまって来たからでもある。

数年前まで両親もまだ、その海の近くにある家に住んでいて、九州に帰るといえば、きまって夏。とにかく海さえあれば、ひとりで毎日を楽しんでいられた。だからそこでの台風と重なった日々など、貴重な滞在時間を奪われるかのようなものだ。(ただ、台風前の荒れはじめる風の強い海岸の光景も、なかなかの体験だが・・。)


 ▼この田舎の港のある街に引越してきたのは、中学生の2年の夏だった。それまでは島原の市内にずっと住んでいた。引越して来た、このちいさな港町は、島原の市内の変化に富んだ街や自然から比較すると、もうどうしようもなく退屈な街に思えた。
引越して来た夏休みのひと月の時間は、ただただ、その退屈との戦いの様な気がしたものだ。
友人はいない、小さな田舎街の狭い空間と、道で出会う人々との、
なんとなく他所者に対する様な視線が、その頃の思春期のぼくには息苦しく感じられた。
だから、海にはよく行った・・。

海というのは今思えば、どこの海においてもそうなのかもしれないのだが・・、
そこで出会った海も、ぼくに感じさせるものは、匿名で、誰にとっても平等な・・自然がつくった「容器」のようだった。
よく「母」という名に例えられるけれど、それは実感として、なにか真実を含んでいるような気がする。


harbor ▼海の色というのも、その地方、場所で違いがある。
以前、まだ冬の訪れる前の季節に、新潟の日本海の海を見て、重たく暗い色に感じたことがあった。もちろん南の海も季節によって表情をかなり変えてしまう。
夏はやはり、その陽射しの強さに海の青の色も明るさを増す。
そして砂浜の砂は熱く、裸足で長く立っていることなどはできない。
それどころか海水浴に行けば、脱いだ服を松林の枝にかけて、準備体操をしている余裕もなく、海の、波の中へと一直線に飛込んだ。
夏の陽射しで暖められた海は、一度入るとずっと、その水の中に浸されていたい心地よさだった。
・・耳もとで波の音がする。それは「ひとり」という自分との出会いの実感と、静かに充足する変えがたい完全な時間になる。
他に何もないことがあたりまえのような・・。



 ▼田舎の海辺というのは、ちよっと夏も盛りを過ぎはじめると、海水浴に来る客もすっかり少なくなる。
とくに数年前に帰郷し知ったことだが、最近は、ぼくが高校生まで親しんだような、
そんな海との付き合いかたなど、している人は少なくなっている感じだ。
バス停には夏休みだというのに学生服を着た進学生たちらしい姿が目立ち、
たまにデートに来て海辺を眺めているカップルなどを目にするばかりだった。
その土地の海の風景は、さして以前と変らずにあるとはいえ、
当時の頃のぼくと彼らとの精神の中身は、ずいぶん変ってきたのだろうと思う。wave
まあ、ぼくが海ばかり行っていたので、お袋からは「変わり者」と言われていたから、どちらがどうなのか・・、それに傍目には劣等生の、勉強よりも夢想家の危ないやつだったのかもしれないし・・ね。

ともあれ・・夏も半ばを過ぎた季節にも、ぼくは海に行くのが好きだった。
それはもしかすると劣等生であればの恩恵かもしれない・・・。
まだまだ、じりじりと照りつける陽射しに、痩せっぽちな体を焼きながら・・、しだいに傾きはじめる太陽の下、その海と砂浜とともにいて、いつまでも去りがたい時間をのんびりと味わう「変わり者」だった。おかげで、クラゲにも顔を刺されたりしたけれど。


 ▼さて・・その海のある口之津という街にぼくが住んでいたのは高校を卒業するまでの、
わずか5年足らずなのだ・・。
そうはいってもやはり、考えてみると中学2年から高校生活3年という時間は、自分の最近の5年という感覚から比較していうと、はるかにとても長く・・そして記憶に残る出来ごとが沢山、情緒を伴って刻まれているような密度の濃い時間の長さなのだ。



 ▼話は前後したけれど、ほぼ人として育った時間の長さからいうと、
「故郷」というに相応しいのは島原での生まれてからの15年の時間の方なのだろう。
物心ついてから住んで居た家は、玄関から道に出る間に細い川があり、
その水はつい飲みたくなるほどに透きとおった・・美しい水の流れる川だった。実際、非公式に飲んだことはあるし、
近くに、その川の水の湧き出ている源流の一つである水源が、一軒の家の玄関を入ったところにあり、
そこでも水はいつでも気兼ねなく飲むことができた。・・・


water
 ---(以下は去年の夏を迎える月に書いた日記を元に抜粋し、さらに加筆しました)---

 ■島原の水が映るテレビの画面を見ていて甦った。
・・ 本当にここは、水が町の各所から豊富に湧いていて、ぼくが住んでいた家の玄関の前にもまさに、その水が流れる川があり、その透き通った川の水は、子供の時に日常、最も身近で当り前のように眺め、またその川で水遊びしていたことは、今思えば実に贅沢なことだったのだろう。
その川の水の源泉も、50メートルほど離れた、お屋敷の湧き水が混ざりあっていて、その水をよく飲みにいった。

そういえば忘れていたが、水と砂糖だけの汁に漬けたおだんごがとても美味しいという・・、そう「かんざらし」という名の・・それが有名にさえもなっているほどだ。
「かんざらし」はもっともシンプルなおやつだと思う。
まるで水の恵みがそのまま生かされたような珠玉の御菓子といえるだろう。
全国には普賢岳の噴火によって知らない人はいない市にもなったが、島原の乱という名も有名な城下町、なによりそして、そんな豊かな水に恵まれた土地が島原なのだ。
数年前、島原の親戚の家に泊まった時に、出しっ放しの水の天然の冷たさと美味しさに唖然として、暇があれば飲んでいる、そんな感じだった。
その親戚の水道管から出る水もやはり、近くから湧いている水を水道管に通して使っているのだった。
出しっ放しというと、勿体無いと思われるだろうけど、どんどん湧いて来る水で尽きるということがないのである。
テレビの映像でも川の底から数多く湧いている清水が、懐かしく子供の頃の夏休みをも思い出させた。


 ◎この島原のお盆に行なわれる鐘楼舟(しょうろうぶね)の祭りは、
死者のちょうちんをたくさん乗せる、藁(わら)で作ったお神輿舟の祭りである。
各、町内から出るその鐘楼舟を担いで夜の町を賑やかに行進し、どんどんみんなが揃って、海まで行くのである。


remembranceその夜の、ろうそくの匂いと藁の匂いと、ちょうちんの灯りに埋め尽くされる町の情景が目に浮かぶ。
もちろんぼくも、その鐘楼舟を子供の時に担いだことがある。大人に混じってなので、 時々ぶら下がっていたのは言うまでもない。
海まではさすがに担げなかったけど、大人の担ぎ手たちによって海に運ばれて入り、徐々に沖へ離れていき、そして傾き・・、
街の中では華やかに見えた、その舟のちょうちんが、ぱ〜っと一斉に燃えて炎を上げ、 やがて静かに海へと沈んでいく鐘楼船の美しさは、子供心にも死者を見送るのに相応しい、
そういう不思議な気持ちがしたものだった。

・・翌日、遠く離れた海岸にも、その舟の残骸が波に打ち寄せられていて、真昼の明るい日射しに照らされたそれを、
なぜかこわごわと近づいて覗き込んだことも、去り行く夏を感じさせる出来事だった・・。■


▲上にある横長の写真は・・、撮影した時にフイルムの巻き上げが不完全と思われるせいで、左右の端が重なって現像されたもので、オーバーラップしているのだけど・・不思議なことに左側は、ぼくが中学2年の夏まで住んでいた家のある道で、この並びにある屋根の見える家はまさにその家である。前に流れる川は、今では観光客向けのサービスも兼ねているのか・・たくさんの鯉が各所に放たれている。水は未だに美しい。しかし、ぼくは鯉は不用だと思ったのだけど・・・。
小さな魚が素早く泳いでいたあの昔の川のほうが絶対的に美しいと思う。

右側はなんと親戚の・・家族同様の付き合いだった古い家のある川の写真で、この河はこの先すぐに海へと繋がる・・河と海が混じりあう場所であった。右側に見える家が今は引っ越し誰も住んでいない懐かしい家だ。
・・なんと・・なんて言っても他人事で、何を感動している?と思われそうだが(笑)、あんまり情緒的に・・しかも美しくオーバーラップしているので、フイルムの偶然とはいえ、ぼくは驚いたのである。
このふたつの写真を写した角度も・・ぼくにはもっとも印象にある角度なのである。
(ニ枚の写真はつないで、一枚にしてみた。しかし・・こんな個人的なページを読んで頂いて感謝します。)


  2000.5.31記入。6.1訂正加筆。(写真は長崎県島原市、また口之津で撮ったものを加工したものです)



pageの上へ戻る

Home  CINE ART | セピアの1 | セピアの2

satom@amy.hi-ho.ne.jp