Tenderness
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セピア

boy▼数年前、まだ田舎が海の側にあった頃、帰省した家の壁に子供の時によく見ていた貝殻で作った鶴の居る風景を絵にした額が飾ってあった。それは随分と久しぶりに出会った懐かしい対面だった。
 その絵をじっと観ているとその時、その絵とぼくとの間に、なにか想い出の塊が、強くぼくと交感しようと誘っているような、そんなめまいにも似たセンセーションと感情が起きた。
 ・・それは当時よく寝ころがって眺めていた少年のぼくに、いろいろな異国の情景や季節を呼び起こした空想のきっかけを作った絵だったのだ。
 その時のままの気持ちが言霊のようにぼくの胸に迫ってきたのだ。

 ぼくは、よく空想してひとりで遊んだ時期を思い出した。
 あの天井の、あのタンスの、扉の、木目模様が、・・どこか、こころの奥に眠っている巨人や怪物や、はっきりとはしないがきっと実在しているに違いない動物の姿になって、生き生きと脈打つように浮かび上がり、夜、寝床に入ったぼくのなかで静かに物語を構築していた。
 だからかどうかはわからないが、その頃ぼくの目に入る家の壁に無造作に貼ってあるカレンダーのアンリ・ルソーの絵も、有名な日本画家の絵も、夢のようでいながら、みんな生き生きとした印象を形づくり、ぼくを楽しませ、また怖がらせた。

 そういうぼくが学校の美術の授業で最も好きだったのは、当然いろんな画家の絵をスライドで見せてくれる暗闇のなかの至福の時間だった。 その時に観たシュールリアリズムのダリの絵も、印象派のスーラの「グランド・ジャケット島の休暇」もセザンヌの「赤いチョッキを着た青年」も、ぼくのなかでは区別のつかない夢の、恍惚の映像だった。
 そういう日々に在った静かな幸福を、ぼくは肯定も否定もできないまま、今もぼくのなかに、そしてぼくの目の前に、もう一度、新たにかたちづくろうとしているのだろうか。


and_mother▼いくつかの夢のなかで、どうしても思い出したくても思い出せない夢がある。 それは、言葉で説明できないし、お話しではない、おおきな感情の夢である。

 ぼくはその夢のなかで、もう絶対的に安心していた。まったく不安がなく幸福に満ち溢れていた。 そして、その感情は、けして与えられてあるというものではなく、いつもどこか奥深くにあって普段忘れてしまっているような気がするものだった。
 忘れているのだから思い出せそうな気がするのに、どうしても努力して思い出せるものではない。そんなジレンマにへたをすると、はまりそうな感情だった・・。
 しかし、感情というと少しそれをおとしめてしまいそうだから、なんと呼んだらいいのか解らないが、・・わかる人には解るのかもしれないとでも言っておくしかないだろう。
 そして、そんな絶対的な安心感、幸福感を忘れているから、この人の世での苦しみも悲しみも、ぼくらを圧倒してしまうことが多いのだろうと思った。

 ぼくは、時々その感情をふるさとのように感じて自分のなかを覗き込む。


youngster▼寝ている間に夢を見続けることは不可能なことだが、反対に人は現実が苦しかったり、解決がなかなか着かない問題に巡り会った時、否応なく夢を見る事が多いようだ。 だから、夜見る夢には、歓迎されないものもあるだろう。いわゆる悪夢と呼ばれる夢などもある。

 ある人が、日中、問題を残すことなく、心の隅々まで問題のかすを残すことなく常に目覚めていれば、夢も見る必要がなくなるということを言っていた。
・・それはぼくにとっては、まだ未知の意識状態である。それは現実のなかで一切逃げないという心の状態だろう。夢は見ないという人の多くは、気づいていないことのほうが多い。

 「蜘蛛女のキス」という映画があって、牢獄で日々拷問に合う政治犯の男が、拷問の苦痛から逃れるために、心は幻想のパラダイスを造っていた。それは、痛々しいほどのオアシスで、そのギャップは彼の体と心の唯一の逃避場所であった。
 極端な例かもしれないが、それはわかりやすい、身に覚えのある象徴的な話だ。

 以前、8ミリ映画を撮り、ひとり黙々と編集していた時、夢のなかにまで、そのフィルムの映像が出てきて、そのつなぎかたや場面の転換をもんもんと考えていたことがあった。
 映画・・フィルムというものは夢のなかの世界に容易に繋がりやすいのかもしれない。

 そう考えていると、夢も昼間の思考するという脳のはたらきも、根本的には同じだと云うことは明らかもしれない。
しかし夢はまた、遥かにどこか制限を超えて繋がろうとする、心の深淵から創作されるような気がする。
「ネバー エンディング ストーリー」ではそんな夢の想像力をファンタージェンとして象徴的に現わしていた。
おなさ心とのつながりを喪失した時に、ぼくたちは目の前に見えるものだけを「現実」と称して、引き換えに非常にデリケートな生き生きとした、そんな生命のエッセンスを失いがちのような感じもする。

 とはいえ、・・「夢」というものは、定義することを拒否する、まるで生きもののようなものなのかもしれない。


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