以下の文章は、SEAAサイトに掲載された、キーリ氏による寄稿
"Japanese Scandals - This Time It's Archaeology: A Preliminary Report" www.ancienteastasia.org/special/japanarchscandal.htm)の翻訳である。 ただしセンタリングして[ ]に入れた小見出しは、翻訳版で挿入したものであり、原文には無い。一部、訳者の判断を訳注の形で挿入した。 …00.12.25
●関連文献
「スキャンダルから掘り出すべきもの」(ブリード 2000.11.28.)←本稿へのリプライ
「いかに2カ所の前期旧石器遺跡の偽造が日本考古学全体にダメージを与えたか」(キーリ 2000.12.14.)
「プレクロビス論争との比較」(キーリ 2001.1.10.)

The Society for East Asian Archaeology
Special Report

今度は考古学のスキャンダル:予備的リポート

© C.T.Keally 2000年11月17日
チャールズ・T・キーリ

Background … 背景

[毎日新聞のスクープ]

2000年11月5日、毎日新聞の日曜朝刊において、上高森遺跡(宮城県築館町)で石器を埋込む藤村新一の様子が写真付きで報道された。

上高森遺跡は、少なくとも8つの文化層(50〜70万年前)を持つ日本列島最古の前期旧石器遺跡としてよく知られていた。特に注目すべきなのは、石器がきれいに並べられた埋納遺構の存在である。それらは、原人(ホモエレクトス)の象徴的認知能力が、これまでアフリカやヨーロッパで推定されていたものより、はるかに上回るものであったことを示唆していた。上高森の資料が正しいものであれば、人類進化史を書き換える必要があった。

今や、おそらく、日本列島における全ての前期中期旧石器資料がスキャンダルにまみれてしまった。日本の新聞1面を毎日のように飾っているスキャンダルを見ているかのようだった。政治家、官僚、社長、医者、弁護士、あらゆる分野の指導的立場の人間が、不面目によって頭をたれている図柄と同じだった。

毎日新聞のスクープは、まさに調査報道の傑作だった。これは日本では極めて珍しい。日本の前期中期旧石器の黒い噂は、長いこと流れていた。筆者が最初に遺物埋込みの可能性(北海道の総進不動坂遺跡)に気付いたのは、1999年12月の盛岡での「東北日本の旧石器文化を語る会」であった(註1)。 前期中期旧石器研究の問題について、少なくとも1986年には、批判が印刷媒体に掲載されていた(小田静夫・C.T.キーリ 1986)。しかし批判が公にされることは珍しい[文末訳注]。

[調査報道の経緯]

毎日新聞社は、今年の夏(2000年8月)調査チームを結成し、噂の真相を確かめるプロジェクトを開始した。筆者は詳細を知らないが、9月6日朝6時20分、総進不動坂遺跡での藤村氏の行動が目撃され、撮影された。彼はそこで石器を埋込んでいたと思われる。この様子は、11月6日の毎日新聞紙上で写真付きで報道されている。これが、遺跡偽造の証拠固めの第一歩だったと思われる。
そして10月22日午前6時18分、上高森遺跡の発掘現場に彼は現れ、ビデオカメラに一部始終を目撃されるところとなった。発掘調査団は、10月27日に現場で記者発表を行ない、70万年を越えるという新発見資料が報告された。藤村氏はテレビカメラの前で、新発見資料をとくと説明していた。
毎日新聞社は11月4日、仙台市内に藤村氏を呼び出し、偽造の証拠をつきつけた。翌朝の毎日新聞は、1、2、3、25、26、27頁において、大きく伸ばした写真を用いて、いささかも疑問の余地が残らないように、遺跡の捏造を報道した。

ニュースはテレビでも大きく扱われ、他の新聞でも月曜朝刊の1面を飾るところとなった(筆者が確認したのは、毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、産経新聞、東京新聞、The Japan Timesであるが、他にもいっぱいあるに違いない。日本経済新聞は、産経新聞と同様、経済報道中心であるが、やはり38頁で、このスキャンダルを扱っていた)。関連報道は、今でも続いている。

Discussion & Criticisms … 考察と批判

[争点の所在]

報道によれば、藤村氏の関わった全ての遺跡、日本列島における前期・中期旧石器、日本の学界全般、日本全体が、疑いの目で見られているようだった。筆者でもそう思う。藤村某は遺物の埋込みに関して全ての責めを負っている。しかし日本の社会全体、特にアカデミズムの世界、とりわけ考古学界こそ、最大の責任を負っているのではなかろうか。

筆者は、日本考古学の世界で、職業的専門家として30年間活動してきた(普通、日本人でない研究者は、フィールドワークに時折訪れるだけの場合が多い)。私の主な研究分野は日本列島の旧石器なので、前期・中期旧石器問題については、大いに関心を持っていた。これは1960年代初頭から論争が続いている問題なのである(註2)。しかしこの問題は、これまで決して学問的及び科学的なアプローチで扱われてこなかった。

[不十分な学問的アプローチ]

中国北部に、少なくとも70万年前以降ヒト属がいたことは、世界的に認められている。日本列島は過去70万年の間に少なくとも2回陸橋で大陸とつながり、大型哺乳類が移入していたことが知られている。日本列島にヒト属が来ていなかったとは、どうしても考えにくい。しかしそれを証明するには、確固たる科学的証拠が必要だし、それを我々は未だ手にしていないのである。

日本で前期中期旧石器を探索し、発掘している考古学者達(註3)は、筆者には、あまりにも学問的注意を欠いているように思われた。彼等は、批判を無視する傾向が強く、批判者を嘲笑することすらある。彼等は、発見遺跡に対する地質学者や年代測定研究者の専門家としての意見を、拒絶することがある。彼等には、注意力と懐疑が、決定的に不足していた(註4)。遺跡の立地する古地形を検証すべき地質学者の研究を、見たことが無い。石器石材の由来について、適切な研究が行なわれていた形跡も乏しい。「ピット(土坑)」が、人為的なものでなく、自然の作用で説明できる可能性が、検証された形跡もない。遺跡の堆積層が、どのように現在の状態に至ったかという、遺跡形成作用のまともな研究も無いようだ。テフラクロノロジー(火山灰編年学)と年代測定学の重要性は、いうまでもない。

前期中期旧石器を疑う考古学者も、不十分な仕事しかしてこなかった。噂をしているばかりで、批判を印刷媒体に掲載することは稀である(註5)。懐疑的な考古学者は、遺跡の年代値を批判するが、年代測定学について充分な知識を持っていないのだ。地質学的作用で生じる偽石器と人工の石器を如何に峻別するか理解せずに、提出された石器を批判する。批判者は、彼等自身の関わる発掘調査で、前期中期旧石器の探索を目指すべき、より深い地層を、適切に調査してこなかった。多くの人々は、前期中期旧石器に関する研究会やシンポジウムに出席しようとしなかった。そして、批判者は誰も、なぜ約35,000年前以前に日本列島にヒト属がいなかったのか、説明しようとしてこなかった(註6)。

[批判者の陥穽]

筆者は、考古学者として、この問題に批判者として深く関わってきた。ただし、多少他の批判者とは若干異なるアプローチをとってきた。日本列島における前期中期旧石器の証拠として提出されていた資料には、深刻な問題があったように思えた。極めて強い疑念を抱いていたのだが、私は1986年に批判論文を発表した直後から、梶原氏や鎌田氏(註3)と、密接なコンタクトを保ってきた。彼等は、私を全ての仕事に関わらせてくれるよう、計らってくれた。発見資料が本物であるとしたら、それらの資料は極めて重要なものであった。そして私は、少なくとも中期旧石器時代の遺跡の一部は(例えば福島県大平遺跡)、いずれ本物と立証されるだろうと考えるようになった。しかし同時に、多くの疑念の根拠を見い出していたが、いずれそれらの疑念は晴らされるだろうと考えていた。彼等の資料を却下するだけの、科学的に充分な根拠を、私は持ち合わせていなかった。

しかし私は、彼等の発掘に深く関わらず、現場を訪れてもそれほど長いこと滞在しなかった。彼等のコレクションを充分に注意深く検討することもしなかった。疑念を公には発言せず、投稿することもなかった。彼等の資料の弱味を晴らすため、一貫した枠組みの元で検討する時間も無かった(時間が無いとは、よくある言い訳であるが)。「上高森の石器は縄文石器によく似ている」という梶原氏の1994年のコメントにも、それ程気をとめることはなかった。1999年の総進不動坂遺跡の発表内容も、それ程長く心に留まらなかった。藤村某の関わった前期中期旧石器が埋込みであった可能性を示唆していたにも関わらず。
11月6日朝刊のヘッドラインを見た時、私は驚愕した。何と許し難いことを! しかし毎日新聞の11月5日のスクープのおかげで、前期中期旧石器につきまとってきた様々な資料的な弱味が、実は遺物埋込みの証拠であったことに気付かされた。

国中の考古学者が批判にさらされてしまった後であるが(筆者も例外ではない)、批判の対象はもっと広げるべきだと思われる。地質学者も、これらの前期中期旧石器遺跡を研究対象としてこなかった傾向があるし、見解や疑念を学術雑誌に投稿することもなかった。これは考古学上の問題であって、地質学上の問題ではないと彼等は言う。年代測定を行なってきた研究者達は、年代値の大きすぎる統計的誤差、10%ないし20%を越えるようなプラスマイナス誤差を、議論の対象としてこなかった。10%を越えるようなプラスマイナス誤差は、年代と地層の前後関係に、何か問題があることを示している。

[アカデミズムの閉鎖的な体質]

日本のアカデミズムは、閉鎖的な体質で知られている。学生は教師を忌避できない。下位にランクされる教師と学生は、上位にランクされる教師や指導者の意見に従わなければならない。さもなければ、グループから排斥されてしまう。殆どの研究者は、同じ大学の中で経歴を終始する(学生→教師→引退)。自然科学部門のノーベル賞受賞者が日本に少ない理由、殆どの受賞者が国外で研究活動を行なってきた理由、受賞によって世界的に評価されるまで日本国内では無名であった理由、全てこうした閉鎖的なアカデミズムの体質で説明できる。藤村某の行為と、それが今まで表沙汰にならなかったことの責任の多くは、こうした構造に帰せられる。

日本では、教育改革が大いに議論されている。学部教育の重視が言われている。つまり日本の学部は、充分に教育された卒業生=学士を送りだしていない、と誰もが認めているらしい。日本の考古学者の半分が学士(BA)で占められているのは、注目に値する。院に進む者も、考古学の分野でしか教育を受けない。考古学と深い関連を持つ他の分野−地質学、年代測定、花粉研究、生物学、文化人類学、その他−の学際的教育を受けることもない。こうした狭量で、近親相姦的な教育が、考古学者が前期中期旧石器遺跡の問題を直視しようとしなかった責任の一端を負うている。

[日本社会の体質的な問題]

日本の高い地位に属する政治家−官僚−実業家達の鉄のトライアングルから生じるスキャンダルは、やはり閉鎖的なシステムから生じている。強いられる集団への従順、階層的な社会構造、秘密主義、こうした日本社会の傾向は、まさに今回の考古学スキャンダルの究極の原因の一面といえる。

多くの報道は、藤村氏個人の動機に焦点をあてている。彼は結果を出すよう、プレッシャーがあったと言われている。パーティで裸で踊り、場を盛り上げようとしていたのだとか(『アエラ』11月20日号,2000,p.19)。この種の分析は、気晴らしにしかならない。
筆者は、多くの考古学者が、予算獲得のために、報告書をでっち上げてきたことを知っている。藤村某は一人で裸踊りをしていたわけではなく、周りで多くの観客が、劇場を満喫していたように見える。殆どのシンポジウムの参加者は、夜は必ず−場を盛り上げるべく−酒宴にいそしみ、翌朝まで飲み明かし、二日酔いで発表すら覚束ない者もいた。藤村某の行為が、彼の精神状態の反映であったとしたら、他の多くの研究者も同様だったに違いない。
問題点を「ゴッドハンド」の能力で解釈し、残る疑念を前期中期旧石器遺跡自体の性質に帰してきたことが、問題なのである。
本当になぜ、多くの指導的な立場の考古学者達が、弱点だらけの資料を、全て本物と見なして受け入れてきたのだろう?

藤村某の行為をどう解釈するにせよ、それは余りにも直接的な説明にしかならない。真に問題とすべき原因は、一個人を越えたところにある。彼の行為は批判に値する。しかし同時にシンパシー(同情)も誘う。彼は、これまでも多くのスキャンダル(ストレス、自殺)を生み出してきた「システム」の産物なのだ。ほとんど毎日のように報道されているスキャンダルは、氷山の一角にすぎない。

Conclusion … 結論

最初に戻るが、藤村氏は、2カ所の遺跡での遺物埋込みを認めている。上高森、総進不動坂の2カ所である。しかし全ての前期中期旧石器遺跡の関連文献(註7)、自分のメモ、記憶、及び新しく報道される情報を総合すると、彼の関わった遺跡が全て偽造であったように思える。彼が全く関わっていない数少ない前期旧石器遺跡資料もあるが、それら自身の問題点を抱えている。我々は、35,000年をさかのぼる議論の、ゼロ地点に戻る必要がある。
つまり、日本列島に前期ないし中期旧石器遺跡が存在しなかったことを証明するか、ヒト属が来なかったことを上手く説明する理論を考え出す必要がある。日本考古学が、どちらの設問であれ、答えることができるかどうか、全く保証の限りではない。


註1
1999年12月18〜19日に盛岡で開催された第13回東北日本の旧石器文化を語る会。そこで筆者は、総進不動坂の発表を聞きながら、以下のようなメモをとっていた。

その発表は(発表者の意図とは異なるだろう)私の印象であるが、藤村氏が遺物を上手く埋込んでいた様子を説明しているように聞こえた。含み笑いが聴衆の中で起こっていた。私の考えは、一人だけのものではなかったようだ。しかし、この会に前後して発表された長崎潤一氏の報告文を読むと、彼は全く疑問を感じていないようであり、遺跡が本物であると認識しているようだった。

註2
60年代〜70年代の前期(中期)旧石器論争は、芹沢長介教授の発見した北関東[訳注:栃木県栃木市星野遺跡、同向山遺跡、群馬県笠懸町岩宿遺跡D地点]や九州北部(大分県日出町早水台遺跡)の資料を中心としていた。筆者の知る限り、これらの資料は日本考古学の主流の認めるところとはならなかった。星野と岩宿ゼロ(D地点)の資料は、地質学者[訳注:おそらく新井房夫氏]によって崖錐性の堆積物であったと判断されている[訳注:この説を考古学者が真剣に検討して検証したとは必ずしもいえない…多くの場合、単に賛成しただけである]。芹沢氏の提出した資料の内、早水台資料だけは、人工か自然かの論争が続いている。
1980年以降、宮城県のある考古学者達の発表によって、状況に変化が訪れた。彼等は当時、芹沢氏と共に仙台周辺で活動していた若い研究者達だった。彼等とは、岡村道雄氏(現在、文化庁)、梶原 洋氏、鎌田俊昭氏、藤村新一氏などである。彼等にとって、芹沢長介氏は師といえる存在だった[訳注:必ずしも意見を一にしていたわけではない]。彼等は石器文化談話会の中心メンバーであり、後に梶原・鎌田・藤村氏は東北旧石器文化研究所を設立した。宮城県における彼等の輝かしい成果は、主要な研究者を含めた日本中の考古学者の多くが、支持するところとなった。それ以来、日本における前期(中期)旧石器論争は、かのグループの発見資料を中心に進められるようになった。
註3
[訳注:註2の後半と重複する]主な研究者は、梶原 洋氏(現在、東北福祉大学)、鎌田俊昭氏(研究者・僧侶)、藤村新一氏(アマチュア考古学者)、その他あまり知られていない研究者。岡村道雄氏(現在、文化庁)は[訳注修正]1987年まで彼等の同僚であった。芹沢長介氏は彼等の師といえる存在だった。
註4
1994年12月17〜18日に東北芸術工科大学で開催された第8回東北日本の旧石器文化を語る会において、筆者は、上高森の発表を聞きながら、以下のようなメモをとっていた。


梶原氏は「上高森遺跡の石器は縄文石器と区別がつかない」と、今から6年前(1994年)に認識していた。しかし、この問題について、何らかの「疑惑」の根拠になると考えた者はいなかったようである。筆者としては、地層が大規模に撹乱を受けている証拠だと受け取り、遺物は縄文時代より古いものとは考えなかった。まさか誰かが遺物を埋込んでいた証拠だとは、考えなかった(今では、まさにそう考えているが)。

小田静夫氏と私は、14年前に以下のような批判を行なった(小田静夫・C. T. キーリ 1986)


竹岡俊樹氏の最近の批判も、重要なものである(11月10日の朝日新聞,p.13)。


以上のような疑問点自体は、捏造を証明するものではない。しかし提出されていた遺跡や石器資料を正当と認めるためには、こうした疑問に答えなくてはならないし、そのために多くの仕事をこなす必要があるはずだ。

こうした問題点を全て並べて考えてみると、これらの資料を安易に受け入れ、何のためらいも表明しなかった研究者の、インテリジェンス自体に大きな疑問符がつく。指導的な立場の考古学者ですら、例外ではない。
註5
私は、こうした疑念を印刷媒体に載せるよう勧めた(小田・キーリ 1986)。この投稿が掲載されて以降、芹沢長介氏の視界から、私は消え去ってしまった。大会などで出会っても、挨拶をかわすことは無くなってしまった。竹岡俊樹氏も疑念を公けにした一人である[訳注:竹岡 1998]が、彼の場合も、それ以降遺物を見せてもらえなくなってしまったという[訳注:竹岡氏以降にも重要な批判文献が2点ある]。

この文脈で振り返ってみると、前期旧石器推進派のグループも、ビールを飲みながらであれば、芹沢氏の前期旧石器資料は(早水台を除いて)認められないと言う。しかし決して、その批判を印刷媒体に載せることはないのである。岡村氏も[訳注:1987年に]文化庁に入るまでは、彼等の仲間だった。芹沢氏の「珪岩製旧石器文化」が無効であると、その著書『日本旧石器時代史』(岡村 1990,雄山閣考古学選書33,pp.41-42)で長々と論証したのは、1990年のことだった。
註6
1991年5月20日東京における第36回国際東方学会で、筆者はこの主旨の発表を行なった。しかし自分としては、日本列島に35,000年前(あるいは10万年前)以前にヒト属がいなかったという仮説を、全くもって上手く論証できなかったと思う。
註7
手元に、前期中期旧石器遺跡の最終的な報告書(本報告)が12冊ある(おそらく存在する全てだと思う)。その他の18遺跡については、大会等の資料があり、さらに学術雑誌の論文が2遺跡分ある。筆者自ら訪れた遺跡現場は8カ所である。また「東北日本の旧石器文化を語る会」には殆ど参加してきた。

参照文献

▼訳注

1986年以降の主な批判:

▲top    [※翻訳にあたってキーリ氏の快諾を得ております。原文の著作権はキーリ氏にあり、SEAAサイトでも原文の著作権は執筆者に帰属するとのことです]


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