VI まとめ

 本遺跡の存在は昭和62年5月2日、露頭の断面から5点の石器が発見されたことによって明らかとなり、同年5月28日から同年7月17日の期間で発掘調査を実施した。

 調査範囲は標高128mを中心とした痩せ尾根の約440m2で、調査深度は最終的には基盤の上総層群直上まで完掘したことになる。調査範囲の北側は高圧鉄塔の付設で大きく撹乱され、西側の谷は造成工事による造成地が完成している状況であった。そして、東側と南側はすでに工事用道路で削平されていたことから、結局この発掘調査地点だけがかろうじて残っていたことになる訳である。平成13年現在では、調査時点に存在した高圧鉄塔は付け替えられ、地盤高が切り下げられて尾根幹線道路が開通し、地番も長峰3丁目と変更された。

 本遺跡からは、東京パミス層を挟んで上層にあたるM−4層下部からM−5層上部で10点、下層のM−7層上部からM一9層上部で3点の石器群が検出されている。石器石材の特徴から推定すると、両者ともに良く類似しているが、出土層序が異なることから二つの文化層として扱い、それぞれを上層石器群・下層石器群と認識しているが、ローム層の堆積学的な検討と文化層とのあり方との関係は今後の研究課題として残さざるを得ない。この点に関しては、大規模の火砕流に伴って広域な堆積を示した新期箱根火山を給源とする東京パミス層の堆積状況を考える時、より近い地域で見られるように直接周辺土壌の巻き込み現象が捉えられないまでも、この遺跡の東西セクションに観察されるように、概して尾根の東側に良く観察されるパミス層のあり方や5−H区のパミス層の捲れ上がり現象、更には微細遺物をはじめとした炭化物等の検出できないことと無関係ではないだろうと思慮されるところである。発掘現場における都立大の町田 洋氏や羽鳥謙三氏の御教示により、本遺跡で観察される東京パミスは、火砕流に伴って形成される無層理堆積物ではなく成層堆積物であろうとの指摘を頂いたものの、末端地域での堆積状態や、その後における浸食による影響はいかなるものだったのか、検討の余地が残るだろう。

 さて、上層石器群の10点は尾根の東側で傾斜変換点周辺に位置し、各々が疎らに分布している状況がみられ、石器製作あるいは製品補修に関係する剥片や砕片、さらに炭化物粒子などの微細遺物は検出することができない点が大きな特徴として指摘でき、これまで発見・調査されてきた宮城県・福島県を中心とした前・中期旧石器時代の諸遺跡と共通するものである。石器石材は10点のうち、1点の砂岩製の敲石を除いてすべて非在地石材の流紋岩であり、発掘当初から北関東方面にその由来を求める考え方をもっていた。そして、石材に関する現地指導を要請した都立上野高校の柴田 徹氏からも場所の特定は困難であるものの、恐らく間違いではないであろうとの見解が示された。その後、平成8年頃からは栃木県中東部の鬼怒川および那珂川流域を踏査し、硬軟多種におよぶ流紋岩を採集したものの、肉眼観察の段階にとどまっているので同定することはできていない。また、本遺跡の石器石材は、これまでに明らかになった栃木県七曲遺跡や群馬県新里村入ノ沢遺跡出土の石器石材に良く類似するものが含まれており、このことからみると北関東地方あるいは福島県南部の阿武隈川水系方面からもたらされた可能性が極めて高いと推察できよう。

 この9点の石材は包含される石英の状態・層理のあり方・礫表面の淘汰の度合いなどを肉眼観察する限りにおいては9個体9母岩に分類でき、とくに同一母岩の認定はできなかった。そして、接合関係を持たない石器群であることが判明し、この点からも前・中期旧石器時代の諸遺跡から発見された石器群は多くが異母岩・非接合という特徴と共通すると言える。

 上層石器群の器種構成は、尖頭器1点・楔形石器1点・削器1点・小剥離痕を有する剥片5点・石核1点・敲石1点で、後期旧石器時代に通有なナイフ形石器・台形様石器などを伴わない内容となっている。この他に、上層石器群には大形石器としての石斧・礫器などの組成が確認されていない。これら10点が当時の石器組成のすべてであると言う保証はできないまでも、各器種の点数は少ないにもかかわらず、それぞれが程よく組成されていることも特徴の一つとして指摘できるであろう。

 本文化層の剥片剥離技術については、石核と削器を中心に、素材の形状、打面・打点・打角の状態、剥離面の切り合い等の観察に主眼を置きつつ、その他の石器の情報を加えたものであるが、なにぶんにも総計10点の個体資料であること、また非接合関係の資料のため多くを語ることには制約がある。

 石核は一辺が約6cmの直方体状の良く淘汰された礫表をもつもので、とりわけより平坦な礫表をそのまま打面とし、その小口部分を剥片剥離作業面に設け、長さ約5cm前後の剥片を生産するものである。いわば、輪切り状の工程で進行するようであるが、石核調整は側面および底面にみられること、打面の転位はみられないこと、打点は平坦な一辺の範囲に留まることからすると、明らかに打面の固定化がうかがえる。しかしながら、背面に残された剥片剥離の状態は、末広がりで階段状を呈していることからすると、石刃技法にみるような規格的な剥片を生産する痕跡は窺えないうえに、剥離の連続性を積極的に支持することはできない。しかし、比較的に厚い剥片を生産する結果、生じた著しい作業面の凹凸を回避するために、打点の位置を既剥片との稜が形成され突出する部分に近づけて設置することで、作業面の平坦性を確保する意識は読み取れることからすると、ひいては剥片を数枚程度は生産する連続意識は存在したのであろう。このことは削器の背面に残された剥離痕からも観察できる一方、さらに残り5点の資料には単剥離打面の痕跡が観察されることから、剥片生産の規格性と連続性を保証する一連の技術体系の存在は肯定できよう。

 また、この2点以外の資料から得られるデーターとしては、剥片は平面の大きさに比較すると厚く、その平面形態は左右非対称で左右縁辺の厚さに差があること、そして打角は99°〜120°の範囲で集中することなく分散すること、石器の剥片の斜軸地に巾があることなどの特徴があるもう一方では、打点が小さい割りには、バルブの高まりが大きいことを指摘することができる。

 尖頭器は、その素材剥片の形態の観察からすると背面に対向剥離が見られないこと、打面の位置については振幅はあるものの一定の方向性が窺えることから、円盤状石核との対応関係を考えることは否定的であろう。そして、一方では斜軸度の大きい左右非対称形の不定形剥片素材の特徴を持つものの、剥片剥離作業面の固定化・打面固定化・高い打面調整の比率・剥片剥離作業の連続性への傾向が指摘できる。この一連の技術的な相互連関特徴は、同じ上層石器群の削器の観察からも良好に認められるとともに、その他の資料からも窺え、それぞれの技術基盤の親和性を示していると考えられる。

 上層石器群の5点の小剥離痕を有する剥片については、小剥離痕の状態から大きく2種類に分類される。一つは1〜2mm程度の極めて微細な剥離痕が連続するもの、もう一つは、9mm程度の大きいものから3mm程度の小さいものまでが混在してみられるもので、背面側あるいは腹面側のいずれか片方に観察されている。観察される部位とその平面形状についての相関関係は明らかではない点から使用痕と断定することはできない。また、小剥離痕を有する剥片1の背面に位置する剥離面の交差する稜上および腹面の片側のバルブにみられる稜上には光沢が観察されるが、これも小剥離痕同様に使用痕と断定することはできない。

 このことから、上層石器群の根幹を占有している剥片剥離技術は、縦横の比率に大きな差の無い、矩形の剥片を生産するもので、尖頭器・削器・楔形石器などを組成するものである。

 一方、下層石器群は合計3点で、2点の流紋岩・1点の瑪瑙で、これらもすべて非在地石材で構成されており、いずれの石器も背面側に淘汰の進んだ礫面が観察され、これら石器石材の原石の由来環境や始発形状を推測することができよう。

 この2点の流紋岩製の石器は先述したように、1点は流理構造の発達したもので、残りの1点は凝灰岩質に富むことから、この2点は明らかに異母岩であり、したがって3個体3母岩の資料で当然接合関係はない。また、上層石器群を構成している石器石材と同一のものは認められない。

 下層石器群の器種構成は、ヘラ形石器1点・加工痕を有する剥片1点・小剥離痕を有する剥片1点である。しかしながら、加工痕を有する剥片として分類した瑪瑙製の石器については、左側縁の腹面側に微細な使用痕とも考えられる傷が確認されることからすれば、あるいは台形様石器の一員に加えても良いのかも知れない。

 以上のことから、上・下層石器群の出土層位は武蔵野ローム層であること、石器群の出土層位の上・下位にはフィッション・トラック年代測定で49,000±5,000BPの値を示す新期箱根起源の東京パミスが位置することから、中期旧石器時代に属する石器群であると位置づけられる。


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