V 遺構と遺物

1 旧石器時代

1)遺物出土状態(第5図、図版4)

第5図 発掘区と遺物出土位置 発掘調査は痩せ尾根をおおよそ4等分するような形で区切り、断面から採取された5点の石器分布範囲から着手した。この区域は遺跡の南東部分にあたる4・5−C・D・E区に相当する約90m2の範囲で、石器の包含される層序と地形の関係を把握する目的で土層断面を十文字の位置取りで設定した。遺跡の上半部は篠竹が密集する荒れ地であったことからバックフォーで削り落とし、笹根の影響が消え始めるところでスコップ掘りに替えて掘削した。おおよそ多摩ニュータウン基本層序第V層のハードローム層から斜面の一部は第VII層に達したことになる。スコップ掘りは土層断面を観察しながら横一列に並び、全体が一様に下がるように平均的にすすめ、ある部分が極端に深くなることを避ける手順をとった。

 このような作業を進めるなか、4・5−E区北壁で広域火山灰のAT層が確認され、それを追求するように西壁からC−5区へと展開していった。このように、東西セクションと南北セクションの交点で層を確認し暫時掘削を繰り返しながら、下部に向かって作業を進めた。5月27日から開始した発掘調査も、しばらくは立川ローム層の掘削に終止したものの遺物の検出はなかった。6月に入り武蔵野ローム層の掘削が進む中、北壁の観察では谷側に向かって小規模ではあるが斜めにずれる地層の変化などに注意を注ぐとともに、垂直掘削の危険回避のために幅上5mの犬足りを設けて、断面採取石器5点の測量記録をとるべく水糸設定のためのグリッドポイントを準備しつつ掘り下げを行なっていったが、周辺が掘削作業で深くなる為に、このグリッドポイントは高い位置として残っていった。5−E区にあった高い位置として残っていったグリッドポイントの上柱を切り崩す作業において、M−4層下部から5層上部の堅緻な土層のなかから敲石1点が発見された。この部分は丘陵の尾根線に対して丁度平行するような位置関係で、若干捲れて盛り上がるような形状を示している特徴が観察され、あたかも幅の狭い土手が存在するような状態で、敲石はその上の位置から出土したと言える。

上層 そして、6月6日当日は、石器文化談話会メンバーほかの人々も調査に参加し、断面採取石器のレベルに近付くにしたがいジョレンと移植鏝に切り替えて細かな掘削作業を繰り返す中、午後の早い時間に5−C区のM−5層の上部において小剥離痕を有する剥片1点、5−D区で楔形石器1点・小剥離痕を有する剥片1点が、そして午後3時以降に5−D区で尖頭器1点が検出された。5−C区の北側から5−D区の南側にかけて標高126.5m以下の部分のM−5層の状態は、調査中ではあっても乾燥すると西から東に向かって、あたかも層の傾斜に沿って潜り込むような状態で薄い紙が束状になって剥がれるごとく掘削でき、パリパリした様子が観察された。

 M−4・5層の調査においても炭化物の粒子や砕片に対しての注意は怠りなく観察してはみたものの、確認することはできなかった。また、調査範囲のM−4層下部からM−5層の排出土(コンテナ約300箱分の土壌)を3mmの篩にかけたが、出土石器に関係する砕片などは検出されなかった。これで上層から出土した石器は合計10点となった。

 これら10点の石器の平面分布は、南北約6m・東西約2mの範囲に、それぞれが接することなく疎らな状態のあり方を示しているが、遣物の分布域の東側の一部は、工事用の道路によって削平されてしまった可能性が高いと推定される。

 6月8日以降は、東西および南北の土層断面図の作成・出土状態の写真撮影をはじめとした諸作業を行なった。

下層 6月15日に東京都教育委員会において記者発表した以降は報道関係者および考古学・地質関係者が大勢来跡しているが、現場の実質的な作業は、石器群が発見された場所から東西土層断面の壁面を挟んだ北側地区で、4・5−E〜H区の掘削作業を継続し、遺跡の広がりを確認した。6月20日の週末には報道関係者の来跡は落ち着くものの、考古学関係者の来跡は相変わらず多く、石器文化談話会の鎌田、藤村、梶原、柳沢の4氏が再度訪れ、この調査区北側の壁面に寄った5−H区の東京パミス層より下位のM−10層上部で流紋岩の石器が発見される。さらに、上層石器群の石器分布と地形との関係を把握する目的で東京パミス層を平面露出させるとともに、1m間隔で深掘りを行ない下層の石器群の探査に入る。東京パミス層は断面で確認し、その堆積状況を観察しながら上面コンタを追跡して10cm間隔の微地形図を作成するための記録を行なうが、5−D区の西側において東京パミス層より下位のM−7層から瑪瑠製の剥片1点が発見された。また、6月22日には上述の石器の発見された同じサブトレンチの4−D区のM−7層から凝灰岩製のへラ形石器1点が検出された。東京パミス層より下位の微細遺物の確認は、この1m間隔のサブトレンチからの排出土を上層と同じように篩にかけたが、成果はなかった。これで下層から出土した石器は合計3点となったが、5−H区出土の石器1点は極端に離れた場所からの出土が特徴となった。

 発掘調査の終了は6月末日の予定で進めてきたものの、雨天の影響や来跡者対応などから終了時期の遅延が確実となったが、センターでの内部調整、事業者の住宅都市整備公団との協議を重ねて、結果的には7月17日に現場を撤収した。7月上旬からの作業は、土層断面図の延長部分の図化・層序の説明を記録するとともに、尾根の西側および送電線の鉄塔設置時に広く撹乱されていた北西部地区の掘削を行ない、旧地形の復元に必要な図面作成のための記録を行なった。また、5−H区北側の断面で確認された基盤を構成する上総層上半部の礫層のサンプルを採集するとともに、発見当初から気にかけていた露頭の斜面に崩落していた土層の篩いかけ作業も行なったが、成果はなかった。

 さて、発掘調査に取り掛かる時点の観察からは、一筋の痩せ尾根上の東側に営まれた遺跡ではと想定していたが、尾根全体を断ち切る調査とその土層の観察から見ると、本来は緩やかな起伏の尾根で、4ラインの西側に寄った部分には南北方向の浅い沢筋とも思える微地形が確認できた。

 つまり、両側は深い谷によって隔てられた二筋の尾根であったこと、そして、そのうちの東側に位置する尾根の東側に遺跡が営まれたことが判明した。


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