以下に掲載するのは、江見水蔭《えみすいいん》(1869〜1934)の考古SF小説『三千年前(さんぜんねんぜん)』(1915)である。構成は、発端が三まで、本編が1から26まで。底本は『少年小説大系』第18巻(三一書房 1992)である。最終的には原本に当たる予定であるが、入力中から公開していく事にする。著作権に関しては、著者没後50年以上経過しており、青空文庫と同じ考え方に立つ。ルビ形式は青空文庫作業ファイルに準拠。ここでは、原文の改行は全てPタグを適用した。あくまで大正五年の作品であり、学説や遺跡との接し方には今昔の感があるが、その趣きもまた一興である。いずれ注を充実したい。〔03.8.4〕[説明とヘルプ




三千年前

江見水蔭   



発端 その一

 多摩川の南岸、夢見ケ崎の台地、其東端の円形古墳の上に立ったのは十一月十二日の午後。秋の日の釣瓶落し、秒一秒と暗く成りつつある五時二三十分の頃であった。

 此日は御大典《ごたいてん》の第三日。天津日嗣《あまつひつぎ》の御位《みくらい》に、我が大君の登りまして、神宮皇霊殿其処へ勅使の遣《つか》わせらるる日に当った。

 小子《おのれ》は、この度の御大典に際し、平常から熱して居る石器時代研究の遠足を試みて、当日採集したる石器に其故由《そのゆえよし》を記し、以て好箇の記念品としたいという考えで、実行すべく朝早く家を出た。

 電車で大森まで行った。此所が日本に於て初めて学術的に発掘された貝塚の元祖である。其所を今日の振出しにしたのは珠に目出度しと先ず祝した。(大森貝塚は明治十二年米人モールス氏監督の下に発掘され「大森貝墟篇」の著出ず)

 それから俥を急がせて久《く》ヶ原《はら》に至り、徒歩にてカニヤ窪の遺跡を探り、雪ケ谷の遺跡を廻って、下沼部の貝塚に出で、其所から又俥を傭いて、多摩川を越し、遺跡に関係薄き沖積層の地を駆抜けて、子母口《しぼぐち》の台地に至り、再び徒歩で同所の貝塚。久米《ひさすえ》、高田、駒林、駒ヶ橋、矢上の諸遺跡を駈廻り、然《そ》うして最後に南加瀬の台地、累々《るいるい》たる古墳脈の其尽きる処の最後の物の上に立ったのである。

 後の記念と思うので、出来るだけの強行軍を学んだのである。軍服擬《まが》いの服は汗食《あせば》んで居る。首袋を利用した採集袋には、石鏃《せきぞく》一本、磨製石斧《ませいせきふ》一本、打製石斧三十二本、破片四箇とを詰込んで担いで居る。其重さ、肩の痛さ!

 此日は、前日の雨に道の悪さと云ったら無かった。草硅《わらじ》は切れ、足袋《たび》は破れ、ゲートル一面泥だらけである。

 疲労困憊の状は、正に敗軍の卒である。文壇の落伍者たる小子を最も露骨に現わした形骸は今という今であると、我と我を客観して、自分自身の為に何者かが泣いて呉れて居る様な感じを覚えずには居られなかった。

 それと同時に又、疾《と》くに滅亡した先住民に就ても、思い遣《や》らずには居られなかった。

 三千年前に此所に住した或る人種。それが故坪井博士の所謂《いわゆる》コロボックルであると、小金井博士等の唱えるアイヌであるとに関らず、勇猛なるわが大和民族の為に撃退されて、北へ北へと追いまくられ、今は其行方も知れぬ人種─石器時代の人種に向って、弱者に対する同情の涙を、しみじみ絞らずには居られなく成った。殊に今日此頃の歓喜《よろこび》に満つ秋に於て。

 最少《もっと》此所に立って居たい。然《そ》うして人の前では泣きそうも無い男が、誰も居らぬ黄昏《たそがれ》の山の中で、思切って泣いて居たかったが、更に此所から一里余、泥濘《でいねい》の畑路《はたみち》を、暗夜に川崎まで歩かなければ成らぬを考えると、そんな事もして居られなかった。

 朝の快晴は、間もなく曇天《どんてん》と成り、夕には降らんばかりの空合《そらあい》と成って居る。常よりも早く暗く成りつつある。その端疾《きわど》き時間に於て、三千年前の回顧をするのは、余りに忙《せわ》しさに過ぎるのを知る。

 天《あめ》の色も、地《つち》の色も、一様に鈍く黒染みて来て、細かな線は早や見えなく成って居る。多摩河畔の低地、諸々の村落は、淡墨の一刷毛《ひとはけ》に塗り去られんとして居る。川の向うの洪積層《こうせきそう》、鵜《う》の木《き》、嶺、下沼部等の高台は、今に糢糊《ぼか》されて消えるかと見えて居る中に、有繁《さすが》に池上《いけがみ》の森のみは、真黒に濃く浮出して見える。それは併し此方の了源寺の森のすれすれに、高尾小仏《こぼとけ》の連山の聳《そばだ》つが遠く見える、此所に入日の名残の最も微かな光の尾が、纔《わずか》の雲の破れから甚だ未練な影を示して居る、それの反射に他ならぬ。

 この光景! 暗澹たる光景! それのみを唯見るのでは、此盛大なる御大礼中とは、如何しても思い浮べられぬ。少くも三千年前に、此所に古墳を遺《のこ》した我等の祖先が、向うに貝塚を遺した先住民の或者と、恰度《ちょうど》日露戦役の鴨緑江《おうりょっこう》の様に、多摩川を挟んで対峙《たいじ》して居た時分の、其大古の空気しか感じられぬ。

 だが、その幻影の幕を無遠慮に突き破る物がある。それは村落諸所に立つ煙突である。文明の煤煙を盛んに揚げて居る。殊に大森海岸の瓦斯《ガス》タンクが不調和に大きく見えるに至っては、全く懐古の夢も滅茶滅茶に破れざるを得ないのである。

 

「発端 その二」へ続く