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発端 その二

 思切って小子《おのれ》は古墳の上を降りた。然うして加瀬の小学校の裏の方に出で様として、坂を降り掛けて、吀{叶}《あ》と叫ばずには居られなかった。

 驚いたからである。驚いたのも此位大きな驚き方は近来に無かった。それは山が一ツ無く成って居るからだ。

 山が一ツ無く成ったのだ。本統に山が一ツ無く成ったのだ。驚かずに居られようか。

 それが地文学上の変動でなく、人間が寄って集《たか》って、わずかの間に山を一つ破壊《こわ》して了ったのだ。

 参謀本部の地図を見ても分る。加瀬の独立丘《きゅう》(標高三十二米突《メートル》)の東南端に別箇の小丘が標記してある、それが殆ど全部消えて失く成って居る。桑田碧海《そうでんへきかい》の変どころでは無い。つい一二年来なかった間に、地形の這《こ》んな大変動を生じて居る。

 これは川崎の電気会社が埋地を為《す》るので軌道まで敷いて此所の土を持去ったのだという。人力、機械力、文明力、驚くべしである。此所に江戸城よりも前に城を築かんとした太田道灌《どうかん》をして再生せしめたなら、どんなに魂消《たまげ》るか知れぬ事だ。それが為に学者間に於て疑問として居た此所の弥生式の大貝塚は、全部亡びて了ったのだ。これでは議論も何も仕様が無い。

 一二年で既に這んな大変化を見るのである。それを我々は三千年前に遡《さかのぼ》って其当時の住民の生活を考えなければ成らぬ。難《かた》い哉《かな》という感がムラムラと簇《むら》がり来って、悪い頭は益々悪く成った。足のつかれも亦《また》増して来た。肩の石斧《せきふ》の重さと云ったら無い。

 日は全く暮れて了った。其暗い中を小子《おのれ》はトボトボと歩き出した。然り真暗で路も何も分らない。某所を小子は記憶に依って僅かに辿《たど》るのである。危い事!

「誰にだッて分るのでは無い」とつぶやきながら歩いた。学校裏から杉山神社の中を抜けて、それから小倉村、塚越村の方に向って進みつつ、

「坪井先生は死んで了われたし。石器時代専門の研究者として、今これという人も出て居らぬ。真暗だ。真暗な道を今辿って居るのだ」と小子は独語《どくご》を続けずには居られなかった。

 貝塚が掘尽されたばかりでなく、其貝塚を有した山全部が無く成って了う世の中だ。それは単に加瀬のみでは無い。小子の知る処では、神奈川の桐《きり》ヶ畑《はた》が然うだ。品川在《ざい》の権現台が然うだ。此調子で行くと今に何処にも貝塚は無く成って了うかも知れぬ。残る物は理論ばかりだろう。

 其理論も少しばかり貝塚を引掻き廻すと直ぐ学説を掘出される。然うした人達の理論が残るのだろう。それでは情けない。

 抑《そもそ》も大和《やまと》民族が現今の如く隆盛で無かった時代、即ち昔の昔の大昔に北辺に居た民族は、何人種で有ったろうか。石器を使用し、貝塚を積成した民族は、何者であったろうか。未だ解決は着いて居らない。

 いや、それはアイヌに極《きま》って居るという論者がある。貝塚から出た遺物を一寸見て、直ぐと断定する人がある。(小金井博士は、最も真摯《しんし》なる態度で、熱心に、忠実に、専《もっぱ》ら遺骨を科学の上から研究調査されて、既にアイヌ説の発表は有った。小子は同先生に対しては最も深く敬意を払って居る。故に同先生を前の論者の中には決して混入しない)

 小子は決して学説を立てる資格の有る者では無い。遺物を採集する高等人足に過ぎないので。アイヌともコロボックルとも明言し得る学者では無い。けれど、多年貝塚を発掘し、且つは諸家の蔵品を熟視し、各所の遺跡を巡覧して居る間に、何時としもなく得た感応《かんおう》がある。直覚がある。これを語る事は出来るのである。

 其誇りの感応に従うと、如何しても故坪井博士の学説を疑うを許さない。

 則《すなわ》ちコロボックル説に籍を置かざるを得ないのである。

 いたずらに神秘を尊信する小子では無い。科学の権威は何処までも敬重して居る身ではあるけれど、貝層深く掘り入って疲労を極《きわ》めた其時に、万鍬《まんくわ》を持った儘破片交りの貝殻の中に寝転んで居ると、幻の如く其処に石器時代の人が出て来て「我等はアイヌに非ず。コロボックルである」と叫ぶかに思われて成らぬ。

 今も此暗中に於て姿を明かに示す者は、コロボックルである。

 何故それを今の世に伝えて呉れないか。先史の住民の霊魂は汝に宿って、それを現代に発表して貰うより他には無いと、然ういう声がする様に思われて成らなかった。

 

「発端 その三」へ続く

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