以下の文章は『利根川』22(発行者:利根川同人、2001.5.20)からの転載である。明治大正期のことであるが、今日的意義もあり、含蓄のある本稿と江見水蔭(えみすいいん)を広く紹介したく、執筆者・利根川同人関係者の快諾を得て公開する次第である。中山氏の言を引用すれば> 揺籃期の考古学界の雰囲気と日本考古学史の豊かな一面を知っていただければと思う。
●『三千年前』の入力・公開を開始した。[03.8.4]


考古家江見水蔭のアマチュア精神
 −『地底探検記』の復刻に寄せて−

『利根川』22、61〜65頁(利根川同人、2001.5.20)

中山清隆

1.はじめに

 江見水蔭なる人物をどのくらいの人がご存知であろうか? おそらく若い世代の考古学徒で彼の名を知る人は少ないであろう。本名は江見忠功といい、岡山の池田藩士の家に生まれ、上京後、杉浦重剛の門を叩き、やがて尾崎紅葉らの硯友社同人として活躍した文士である。抒情的で詩趣あふれる短編小説が多かったが、軍事的な短編、探偵小説、冒険ものなども残し、多作な小説家であった。やがて作風は通俗に傾き、挫折感をおぼえていたときに、友人の谷活東の影響で考古趣味をおぼえ、ハマっていった。明治35年(1902)のことである。水谷幻花、高島多米治らとともに、発掘の三羽烏、三勇士、驍将などといわれた猛者であった。貝塚でシャベルを手にまたたく間に掘り上げる姿は、余人を圧倒したらしい。土器、石器、板碑をはじめ、珍品をかなり集めた収集家として、江湖に知られていた。珍品あさりが目的の無秩序な発掘で、後年乱掘者などのイメージであまり評価されないようであるが、彼の著作をよく読むと今日でも啓発される部分が少なくなく、時代を考慮して現在の目で見直す必要がある。

 今般、私は縁あって江見の『地底探検記』の復刻と編集に携わったが、その間にアマチュア考古家としての江見の生き方に、いささかの共感をおぼえたし、その作品は発掘・踏査のドキュメンタリーとしての記録的価値のみならず、学問的にもすぐれた私見が述べられており、アマチュア考古家としては上級の評価を与えてよいのではないかと思う。昨年11月アマチュア出身の考古学者による前代未聞の「前期旧石器ねつ造」が発覚したが、明治のアマチュア考古家はかくあった、といいたくて筆をとった。

 小稿では、明治・大正期に生きた一人のアマチュア考古家の活動と足跡を振り返り、揺籃期の考古学界の雰囲気と日本考古学史の豊かな一面を知っていただければと思う。

2.江見の考古三部作について

 江見は『地底探検記』(明治40年 博文館刊)、『探検実記 地中の秘密』(明治42年 博文館刊)、『考古小説 三千年前』(大正6年 実業之日本社刊)を残した。江見の考古三部作といわれ、知る人ぞ知る作品である。オールドファンには懐かしい書名であろう。これらは、江見の実地体験にもとづく発掘・発見のドキュメンタリーで、地名や人物名などは実名で記されている。『三千年前』は、当時の考古学の成果に基づいた考古物語の傑作であり、随所に付された詳細な脚註は学術的にも価値があり、学史的記録といってもよく、たんなる大衆小説の延長とみなすのはあたらない。

 江見は明治期の文壇にあっては行動派として知られ、明治40年には、自ら玄界灘、韓国沖の捕鯨船に同乗してまとめた体験ルポ『捕鯨船』を発表しているほどだ。

 考古三部作は、実地体験に基づくドキュメンタリーで、およそ100年前の20世紀初頭に書かれたきわめて珍しい考古記録なのである。しかも文士独特の筆致で綴られているから、読んでおもしろい。当時、八木奘三郎や中澤澄男らが著わした『日本考古学』などの難しい概説書はあったが、江見自らの発掘体験と学問的な蘊蓄をおもしろく読み物風に書き綴った作品は、青少年や初学者にとって好個の考古学入門として魅了したことであろう。大場磐雄博士は江見の作品を読んで、のちに考古学の道に入った一人である。

3.揺藍期の考古学界と江見らの活動

 すでに述べたように江見ら考古採集家に対しては、後年負の評価や誤解が先だっているようであるが、文化財保護法制定以前、少なくともさきの大戦までは、石器時代の遺跡・貝塚に於いては専門学者もアマチュア採集家も似たような行為で資料を集めていたし、専門学者の論文や著作には江見らの集めた資料がよく利用されたが、いずれも学術上価値のあるものばかりで、当時話題の出土品も少なくない。

 明治初年布告の太政官令では、石器時代遺物を拾得した場合、すべて人類学教室に差し出すことが義務づけられていたが、坪井はこれを適用すると、採集家や拾得者たちが遺物を隠匿するおそれがあるので、学問の進展と活性化のためにはむしろ採集家たちが積極的に遺跡を掘り、採集した遺物を公開する場をあたえ、資料が公になれば、学問の研究にも稗益すると判断したようで、江見らとも親しく交流していた。いわば官と民との問で良好な関係をたもちつつ斯学の全体的発展を坪井は企図していたといえよう。坪井は存命中にこの人類学教室の「伝家の宝刀」を抜くことはなかった。

 江見の蛮勇的発掘法は、いま考えれば問題であるが、当時は坪井ら学界の人々の温かい配慮のもとで、自由な採集活動ができたのである。坪井も彼らアマチュア考古家の立場に理解をしめし、論争や議論に加わったことが『東京人類学会雑誌』などから読みとれる。江見と中村士徳らとの間で議論された「有髯土偶」問題に坪井が加わったのもその例である。江見は坪井を師とあおぎ尊敬していたようで、明治の人種論争では師説のコロボックル説を支持した。

4.事実に忠実だった江見のポリシー

 江見はアマチュア考古家としての立場を貫き、活動した。趣味としての考古学ではあったが、そこには彼なりのポリシーがあった。そのいくつかを紹介しておきたい。

 川崎市南加瀬貝塚は、N.G.マンローの支援で八木奘三郎が発掘して、弥生土器(中間土器)と縄文土器の時期差を層位的に確認できた、学史的にも記憶に残る遺跡であるが、これを弥生式の大貝塚と人類学教室の「弥生式土器研究会」に報告したのは江見であった。これをうけて、同研究会のメンバーによる遠足会(じっさいは小発掘)が行なわれたが、十分な調査でなかったため、慎重論が出て、検証されなかった。その検証が不十分であったので、江見は「不得要領」と不満をもらし、その矛先は大野雲外に向けられた。(江見はこのときの小発掘に参加していない。)結果的に八木の発掘で証明されたわけであるが、江見にとってこの遠足会の検証に対する不満が頭から離れなかったらしく、のちに茨城県飯出広畑貝塚で「弥生式貝塚」を発見したとき、親のにでも巡りあったように欣喜している。「事は学術研究上に属するのである。(大野雲外に対する)私怨を晴らすのとは訳が違ふのである。事実を事実として伝えねばならぬのである」と述べているように、虚心に遺跡にのぞみ、観察する態度を崩すことがない。広畑貝塚の「弥生式土器」は縄文時代の製塩土器の誤認で、また当時は縄文後・晩期の精製・粗製土器の区別ができなかったのでしかたのないことではある。江見が遺跡の立地や形成についていだいた疑問は、今日多くが解決されているが、「高等土方」を自称し、学者と一線を引きながらも、豊かな実地体験をもとに、つねに考えながら掘っていたため、目のつけどころがよく、その後の学説、定説、常識へいたるプロセスとしても彼の残した記録は貴重である。「予は徒らに議論するを好まぬ。予の主義とするところは、実地に物を得てそを学者に提供し、学者の研究を俟つのである。故にこゝには実験上のことを述ぶるまでゝある。…」と立場を明言している。

 若き八幡一郎先生が大正12、13年頃、江見の家を訪れたさい、「物を集めることなどはおもしろおかしくやることはできても、こういう方面のことを学問として続けるのは並々ならぬことだよ」といわれたという。

 江見が、学問とはどういうものかをよく知っていたからで、肝に銘じるべき忠言であろう。

 『地底探検記』には遺物の贋造・贋作について、挿話をまじえながら自らの考えを述べている。そして、「(遺物は)自ら掘るに限るものだ。でなければ、研究材料にはならぬ。」と言っている。土器の取り上げについて「万一、失敗して、破れたとする−−−破れても構ばぬ。何も骨董的に土器を愛翫するのでは無い。学術上の研究材料とするのだから、形が分かれば、それで好いとせねばならぬ」(『三千年前』)とも言っており、土器石器などを「学術上の研究材料」として蒐集した江見は、事実に忠実な採集家であった。贋造は買う人がいるから後を絶たないのだという。「買ひさへ為ねば自然に贋造を売るものが無くなる道理だ」と戒める。

 江見は発掘の驍将としてもてはやされたが、つねにアマチュアとしての分を守り、謙虚な態度で考古活動に邁進し、資料蒐集、情報提供、啓蒙活動などを通して学界に貢献した。坪井正五郎を師と仰ぎ、コロボックル説を支持したが、野心や名誉欲などは万々なく、学説を開陳したり、学者然として振るまうことはなかった。

5.江見の功績と「学説」の再評価

 江見は自らを「高等土方」と称し、学説を好まなかったが、それでも注目すべきなかなかの卓見がみられ、専門家も顔負けするほどの論客であった。およそ100年前という時代を考えると後世の研究者にも引けをとらぬ見解がみられる。

 江見は発掘など遺跡で実際に体験したり、観察したことをもとに所論を展開しているので、アームチェア・アーケオロジストにはない新鮮な発想と説得力がある。

 江見は石器時代に、採集、狩猟、土器作り、道具作りなど集落問で分業が行なわれていたと考え、およそ大型の哺乳類が棲息しそうにないところから獣骨が出るので、物々交換による交易を想定した。また馬込貝塚では石器製作跡、土器製作跡などを見つけ、集落内での分業、支配者の存在を考えた。馬込貝塚を周辺の拠点集落と捉え、集落ごとの機能・役割の分担を考えたのは当時としては鋭い指摘である。

 貝塚の形成や定義に関しても非凡なる見方をしめしている。千葉県などでみられる大貝塚の成りたちを、短い期間に大量の貝が処理された結果だと明言した(「貝塚に就て」『人類学雑誌』30−5・1915)。ムキミにすればより多くの貝を遠くまで運びやすく、交換・交易のためのムキミ生産の処理作業が集落で行なわれていたと考えたのである。これに類似した所論に後藤和民氏の説がある。後藤氏の大貝塚=干貝加工工場説は、ムキミを干貝に置きかえ、その後の知見や成果を加味した所論であるから、半世紀以上も前にこのことに気付いていた江見にプライオリティーがあるといってよい。さらに低地に位置する中里貝塚や加瀬貝塚を疑間の貝塚として問題にした。最近の「ハマ貝塚」の概念に通ずる貝塚の成りたちや定義にも眼をむけていたことは学史的にも注目される。現在、研究者の間では当たり前となっている事象を、すでに大正の初めに公けにしていた江見の見識は再評価されてよい。

 江見は遺物に対してもすぐれた観察力で解釈した。たとえば、金山貝塚出土の二枚貝の穿孔品を単純に貝輪の未製品とみるのではなく、民俗例などから漁業用の錘と考えたことも彼の創見である。大野雲外の貝輪論(=腕輪説)を実験で批判し、「雲外サンは好い人だけれども學説を吐くので困るぢや」といっているのもおもしろい。貝輪といえば、貝塚ではときに小さめの貝に小孔をあけた粗製の貝輪がまとまって出ることがあるが、これは可児弘明氏によると「おどし漁法」の駆具でやはり腕輪の未製品ではない。金山貝塚では「奥州式」(亀ケ岡系土器)を見い出したことも、江見の土器をみる眼のたしかなことを物語っている。いまでは、関東各地で大洞系土器が、搬入もしくは模倣されて在地の土器に混じって出土するが、当時これを指摘したことはさすがである。ほかにも有髯土偶や骨角器をはじめ、縄文中期の「顔面把手」、後期の「筒形土偶」などを紹介したが、いずれも資料的価値の高いものばかりである。「顔面把手」の名称は、おそらく江見が命名した用語であろう。「筒形土偶」についても、大野雲外の論文以前に「略式土偶」と呼んで「地中の秘密」の中で紹介している。江見収集の土偶のうち、山形土偶ミミズク土偶の好資料があり、一部が、杉山寿栄男の手をへて、東京国立博物館の所蔵になっている。ヘヤピンなどの骨角器の珍しいものも東博に収蔵されている。これらの一部はこのたびの復刻に寄せて瓦吹堅、金子浩昌氏によって考察されている。江見の考古三部作には、これら出土品の発掘時の状況や採集した時の様子がはっきり記述されているものもある。江見の資料の多くは散失しているが、東博や京都大総合博物館などに収蔵されているものもあり、今後も追跡調査の必要が痛感される。

 このように、江見が当時の学界にもたらした多くの資料や情報は、学者たちにも有難く、重宝がられた。その意味でも学界に大きく貢献したといえよう。

 いまでは埋蔵文化財を許可なく勝手に掘ることはできないが、江見の生きた当時は、遺物蒐集の目的で発掘が可能であった。江見は情報公開につとめ、けっして遺物を秘匿することはなかった。南品川の自宅内に設けた太古遺物陳列所で公開していたし、乞われれば同好の士を遺跡に案内し、発掘のノウハウを伝授することもあった。行動的な彼は、あちこち歩きまわっていたので、大学や博物鎗の研究者よりも情報量が多く、ときには「地名表」の誤りなどを正したこともあり、人類学教室刊の『第三版日本石器時代人民遺物発見地名表』の記載の誤りを指摘したり、第四版の編者柴田常恵に訂正を求める書簡を送ったりしている。江見のアマチュアとしての活動の軌跡を記録や著作にみるかぎり、純粋な気持ちで誠実に人類学・考古学に取り組んだ態度をみてとることができる。当時の発掘は個人の労力とポケットマネーによってなされ、予算も規模もいまとは比べものにならなかったが、熱意と輝きをもって黎明期の考古学界に生きた彼の後半生をうらやましく思う。

6.『〈地底探検記〉の世界』復刻編集のいきさつ

 今般の復刻と編集は、考古少年であった私にとっても心愉しい気持ちであたることができた。少年の頃、生まれ故郷の福岡県遠賀川流域の縄文貝塚に出かけ、そっと移植ゴテをあてたときの感触はいまでも忘れられない。

雪のやうに眞白な貝殻で、其の間に種々の模様のある美しい土器の破片や其の他のものが混って居るのであるから、其の美しさは宛乎雪の中に咲いた紅梅でも見るやうである。時とすると、地下壱丈以上も掘り下げた時、非常な勢を以って、貝殻がくづれることがある。其の時の美観、貝塚を掘った経験のあるものでなければ、到底想像することは出来まい。

という一文は、貝塚を発掘した経験のある人であれば、実感をもって脳裏にうかぶ描写であろう。いまは貝塚の発掘調査が少なく文化財保護法で規制されているので、なかなかこのような場面に出会う機会はないけれども、現在専門家として名を馳せている中堅以上の考古学者の何人かの方は、こうした経験をおもちであろう。まさに発掘の醍醐味である。『地底探検記』の復刻をおもいたったのは、友人である坂本道夫さんが『品川歴史館紀要』に江見水蔭の生涯を、主に文学の立場から連載したことがきっかけで、江見の考古趣味について語るようになったからである。あるとき、どちらともなく復刻の話が出て、いきおいで賛成したというのが経緯である。私が学生だった昭和50年代にはすでに『地底探検記』を古書店で見ることはなかった。坂本さんもこの20年余りの間、古書店の目録や店頭で探しつづけたが、目録に出たのがわずか二回、そのうち数年前に神田の古書店で求めたときは45,000円だったというからいかに稀槻な本であるかがわかるであろう。

 そこで、まずもっとも入手が困難な『地底探検記』から復刻することを提案した。復刻だけでは芸がない(?)ので、詳細な註をつけ、江見が発掘・踏査したゆかりの遺跡のその後の調査・研究の履歴をたどり、学史的な意義を踏まえつつ解説することにした。江見は、関東各地−とくに都内、神奈川、千葉、茨城県によく出かけ、採集と発掘を熱心に行なった。『地底探検記』は、江見が国民新聞社の支援でおこなった常陸方面の踏査・発掘を中心に記された実記で、茨城県の考古学にとって貴重な記録である。このさい『地中の秘密』、『三千年前』の内容も検討し、江見が頻繁に訪れた都内・近郊の遺跡はやや詳しく解説した。その後の急速な都市化によって失われたり、埋れてわからなくなったところも多いので、後世に江見ゆかりの遺跡の情報を少しでも伝えておきたいと思ったからである。昨今の調査研究の進展をふまえ、最新の情報を盛るよう努めた。新しい見方や考えをしめしたところもある。明治期に知られた遺跡は、質・量ともに豊かな内容をもつものが多い。読者各位は本書を参考に遺跡を訪れ、古代のロマンに思いを馳せていただければ、私どもとしてもこの上ない喜びである。現代のように行政主導型の管理された文化財事情の中では、味わうことのできない考古学の醍醐味とイメージを、享受していただければとも思う。出版事情のきわめて悪い昨今のご時世に、かかる企画を一般書として刊行してくれた雄山閣出版の英断と見識に感謝と敬意の念を深くしている。いずれ『地中の秘密』と『三千年前』の復刻が実現されることを念願しているので、多くの方々の賛同と協力をお願いして、このへんで「手前味噌」な筆をおくこととしたい。

 近々、江見がこの魔道にハマってから100年が経つ。『地底探検記』が21世紀にも伝えられることを谷中墓地に眠る泉下の水蔭翁に報告し、ともに美酒をかわしたいと思う。

2001.5.20 ©NAKAYAMA


Web註(独自構成)

なお復刻版は下記の通り。
『江見水蔭『地底探検記』の世界』
江見水蔭著(復刻版235頁)、斎藤忠監修・中山清隆編(解説・研究編472頁)
雄山閣出版、菊判、二巻セット、2001年8月刊。ISBN:4-639-01725-1

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