前回の「死にたくなるとき」には、もう少し内容を深めてほしい、続きがあればぜひ書いてほしい、というようなご感想を複数いただきましたので、もう少しこのテーマについて書いてみます。
死にたいと感じるときというのは、今の自分を超えた新しい自分に生まれ変わろうとする衝動が心の深いところからわきだしているのだけれど、それにどう対処していいかわからない、その衝動をどう扱っていいかわからない、そんなときだと思います。
ただ、そのときにいう「生まれ変わる」というのは、今こんなふうに行動してこんなふうに考えている自分が、それとは違うふうに行動して違うふうに考える自分になる、ということとは違うのです。
「生まれ変わる」という表現をすると、言葉の制約上どうしてもそんな感じがしてしまいますが、根本的に違うのです。
それは、それまでこれが私だと思っていたすべての考え、例えば
私は生きるのがつらい
私は誰のやくにも立たない
私は誰にも愛されない
私は寂しい
私は心配ばかりしている
私は自信がない
私は会社員だ
私は主婦だ
私は無職だ
私は親だ
私は子どもだ
私は男だ
私は女だ
私は人間だ
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などなど、、、
といったような、ありとあらゆる「私」にまつわる考え、思い込みを手放してしまう、ということなのです。
「生きるのがつらい」と考えなくてもやっぱり辛いよ、と思うかもしれません。もちろんそれはそうだと思うのですが、その辛さについて言葉を使って考え続けることでその辛さをいつまでも持続させている、という面もあります。
どんな感覚が起こってきても、そのことについて考えることをできるだけやめて、身体の中にわき起こってくる感覚そのものを意識することを心掛けて下さい。そうすると、その感覚自体が変化してきます。
あらゆるものは変化していくのが本来の性質ですから、同じ感覚(この場合は辛さ)がいつまでも続いているというのは、どこかで変化しないように心と身体を緊張させて、自分で頑張っているわけです。(そう言われてもまったく意味がわからない場合は、ブレスワークなどのセラピーを通して、身体の中にエネルギーが流れていく感覚を実感するのが効果的です。)
そして、その心身の緊張感、頑張っている感覚そのものが「私という感覚」です。つまり、心理的に死ぬこと、生まれ変わること、というのは、「私という感覚」なしに生きていく、ということなのです。
それは別に、身体や心が消えてなくなるわけではありません。それ以前と同じようにこの身体も心もここにあって、同じように機能しているけれど、私が動いたりしゃべったりしているという感覚が小さくなってきて、世界が(宇宙が、神が、意識が、でも言葉は何でもいいのですが)この心と身体を通して表現されている、という感覚です。小さな私が大きな私に場所をゆずっていくような感覚といってもいいでしょう。
小さな私がどんなにがんばって自分を改善して、楽になろうとか、よい人間になろうとしても、それは一時的、表面的な変化でしかありません。そもそも苦しみの原因は(心と身体にしばられた小さな)私という感覚があること、その感覚にとらわれていること、そのものだからです。
心の病、心理的な苦しみの本当の解決は、この「小さな自分」という感覚から解放されることにあるのです。(【まほろば通信】vol.139掲載2010/07/16)
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