思ツタコト No.28

通勤電車の掟


やっぱり怒っているよ、このおじさん。
そんなに睨まないでよ。
そりゃあね、普段より30分早い電車に乗ったことは認めるよ。だって仕方が無いじゃない、今日は仕事で早く会社に行かなければいけないんだから。

私の行っている職場、フレックスタイム制を導入しているのですが、私自身はあんまりその恩恵にあずかっていません。朝、トラブルがあったときのために早めに出ないといけない、というのもありますし、日によって出勤時間を変えたりすると、これはこれでややこしいですから。というわけで、私は毎日、同じ時刻の電車に乗って出勤しています。まあ、世の中そういう人が多いようで、大体、同じ時刻の電車の同じ車両に乗ると、だいたい顔ぶれが一緒だったりするわけですね。

先日、都合でいつもより30分ほど早く出勤する必要があり、普段と違う電車に乗ったわけです。ただ単にそれだけのことです、私には何の落ち度もありません。
30分も早いと、車内の雰囲気が全然違います。空いています……と言っても座れるほど空いているわけではありませんが。ちょうど全ての席が埋まっているけど、立っている人もいない、という実に腹立たしい状況です。仕方なくある座席の前に立ち、網棚にカバンを乗せました。こんな私を誰が責められるでしょうか。
駅に着くたびに車内の人の数は増えて行きます。3駅ほど過ぎた頃、一人のおじさんが乗ってきました。そのおじさん、私が立っているすぐ左隣に、私に擦り寄るように立ちました。私の右隣には既に人が立っているので、ずれるわけにもいきません。「かわいい女の子ならともかく、こんなおっさんに擦り寄られてもなあ…」
「まだ車内はそんなに込んでいるわけでもなく、いくらでも立つところがあるのに、なんでこのおっさん、擦り寄ってくるんだろう??」などと、疑問に思ったとしても、不思議ではありません。
ふと顔を左の方に向けると、件のおじさんは私の方の睨んでいます。「???」私は何がなんだか……特にこのおじさんの迷惑になるようなことはしていないつもりだし、そもそも擦り寄ってきたのは向こうの方だし。

それから二駅が過ぎました。私が横目で見ると、件のおじさんは相変わらず私の方を睨んでいるようです。でも特に何も文句をつけてくるわけでも無いので放っておくことにしました。しかし、ここで気付くべきだったのです、なぜおじさんが怒っているかを。
そうこうしているうちに電車はある駅に到着しました。この駅は他線との乗換駅であり、ぱらぱらと人が降り、そして、沢山の人が乗ってきます。ふと視線を下にやると、目の前の座席に座っていたおばさんが降りて行きました。「ラッキー、これでゆっくりと本が読める」などと思いながら、座席に座ったのは言うまでもありません。早速、文庫本を取り出して読みふける私、怒りのまなざしを向けるおじさんのことなどすっかり忘れて。
私が文庫本に熱中している間に車内はぎゅうぎゅう詰めになっていたようです。
「痛て!」
誰かが私のすねを蹴飛ばしました。いくら込んでいる車内とは言え、あきらかに故意です。ふと、顔を上げると、さっきのおじさんが目の前に知らん顔して立っていました。まだ何か怒っているようです。
「痛て!」
今度は足を思いっきり踏まれました。いったい何だというのでしょう。私が何をしたというのでしょうか。

すべての疑問が氷解したのは、次の日の通勤電車の中でした。その日も早く出勤する必要があり、昨日と同じ電車に乗りました。例のおじさんもその電車に乗ってきました。今日は私の隣りには擦り寄ってきません。そのかわり、脱兎のごとく、ある座席の前を目指して走って行きました。その座席に座っている人を見ると……そうです、昨日、乗換駅で降りていったあのおばさん。
あのおばさんの前は、おじさんの指定席(立っているのに指定席ってことは無いか)だったのです。たぶん、あの電車にいつも乗っている人は、まちがってあのおばさんの前に立ってしまうと、件のおじさんに睨まれてしまったのでしょう。そうやって、暗黙の掟が出来ていったのではないかと推測するわけのですが……。
でもね、でもね、そんなん私知るわけ無いじゃない。もうやらないから許して。

というわけで、普段と違う通勤電車に乗るのは恐い、というお話でした。

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