書簡展 〜手紙から見る交流〜


 書簡というものは扱いが難しい。独立した作品ではないが、資料としてだけ見るのも味気ない。ただ手紙だけをポンと置いてもわかりにくいので、相手やその手紙の背景も説明する。そうすると全体で何を伝えたいのかが弱くなり、多くの人が登場しただけという雑駁な印象が残る。書簡は年代順に整理されていたが、人々との交流よりも実篤の生涯を追っているように感じられた。書簡を中心にした展示では1997年の「書信往来」展があったが、こちらは志賀直哉との交流という軸があったからすっきり見られたと思う。書簡を通した多くの人々との交流という今回のテーマ自体が難しかったのだろう。

 こういう展示では手跡を楽しむという部分も大きいと思うが、5年も通って実篤の直筆を見慣れた(つもりの)私の眼には、新たな感激は薄かった。しかしこれは見る側の問題で、初めて見る人には興味深い部分だったと思う。実篤の字は達筆とは言い難く、専門家の「翻刻」なしではなかなか読めないところもあるが、慣れればそれなりに読めてくるものである。東大中退を志賀に伝えるハガキ(明治40年8月)や海外旅行先から家族に宛てたハガキ(昭和11年)など有名なものは網羅されていた。最晩年の実篤が病床の安子夫人に何度も書き直して書いた手紙もあったが、これは何度読んでも胸に迫るものがある。晩年特有のくどくどしい部分はあるが、夫人を思う実篤の真情がにじみ出ている名文だと思う。

 手紙は人と人をつなぐ心の懸け橋などと感傷的なことを言っている場合ではないが、日向の山奥の新しき村と白樺同人の間を往復したハガキを見ると、その効能と言うか果たした役割は小さくないと感じた。労働の合い間に読んだり書いたりするのには、ハガキがもっとも似つかわしいと感じられた。新しき村に限らず、旅先からのハガキあり、何人かで寄せ書きのようにして書いたものもあり、手軽に書けて同人をつないでいた書簡の存在を少し改めて認識した。昔風の巻紙の手紙が極めて少ないのも、彼らの特徴かもしれない。当時は「但馬国城崎三木屋」だけで届いたので(大正3年5月志賀宛て)今よりも手軽に書けたのではないかと思う。
 新しい発見としては、昭和初期のいわゆる実篤の失業時代に『主婦之友』での執筆を依頼した編集者の山内金三郎が、後に阪急百貨店美術部に移り実篤の書画を商ったというものがあった。また白樺同人は長命な人が多かったので驚くほどのことではなかったのだろうが、白樺創刊時の同人・園池公致からのハガキ(昭和46年)なども初見だったのでおもしろかった。また著名人から実篤宛の年賀状というのも展示されていて、山本安英、左卜全、緒形拳からのものなどがあった。

 公園は緑が深く、すっかり夏らしくなっていた。一部改修工事が行われていて、階段の横木などが新しいものに交換されていた。

(1999年7月18日見学)
(1999年7月31日:記)

ホームページへ戻る記念館のページへ戻る

(C) KONISHI Satoshi