I 遺跡の位置

 多摩丘陵は広くは八王子市から三浦半島までの多摩川右岸地域を指すが、狭義では多摩川中流域の支流である浅川から横浜市西部を流れる惟子(かたびら)川の間を指し、関東山地から連続する丘陵地形の卓越した部分に相当し、最も標高の高い地点では約230mで、南に向いながら高度を下げて横浜市西部では約70mとなっている。この丘陵は地形・地質学的にはT1面とT2面とに二分され、T1面の北西側は、古相模川による河成堆積物の御殿峠礫層が基盤を構成して高く、一方T2面に相当する南東側は下末吉海進による侵食と海成堆積物で構成され、前者よりも低い地形面を形成しており、その上部に古箱根あるいは古富士などを起源とする火山灰の堆積をみることができる(関東ローム研究会 1965)。そして、地形的には侵食・崩壊・堆積の各作用が頻繁に繰り返された結果、急峻な斜面と樹枝状に著しく発達する谷戸が多摩丘陵の大きな特徴とされている。

 さて、多摩ニュータウン事業地域はこの多摩丘陵北部の約3,000haが該当し、八王子市・町田市・多摩市・稲城市の四市にまたがり、西側は神奈川県との都県境である境川、そして南側は多摩川の支流である三沢川によって画され、石器は多摩ニュータウン事業区域の東部にあたる三沢川の左岸で発見された。新宿駅から西南西方向に直線距離で約21.5km、東経139°28’51”北緯35°37’38”の地点である。

 この地点は多摩市船ケ台の標高約160mの丘陵主頂部が東方に向かうに従い標高を減じながら連続し、この丘陵主頂部の南側一部から北側にかけては起伏に富んだ多摩ゴルフ場から広大な米軍多摩サービス補助施設の敷地へと続き、南側はその尾根から幾筋もの尾根が南方向の三沢川に向かって突出する。

 石器が発見された場所は、三沢川に向って突出する丘陵の痩せ細った尾粗筋に隣接した標高127mの地点で、東側と西側は標高差で40〜50mの深い谷により画されており、三沢川までは約500m、その河床との比高は約60mを測る。三沢川は幹線流路延長11.4km・全流域面積14km2で、左岸域は稲城市、上流域右岸側は神奈川県川崎市に相当し、京王相模原線が右岸側に敷設されている。

 三沢川の左岸地域一帯は多摩ニュータウン事業用地の範囲であったことから、その考古学的調査は昭和40年の遺跡分布調査以来、各時代の多くの遺跡が確認・登録・発掘されてきた。一方、右岸側でも京王相模原線の敷設工事に先立つ路線敷内で、No.2遺跡の発掘調査が行なわれた(亀田他 1975)、坂浜遣跡が昭和43年國學院大学によって調査されて、旧石器時代終末の石器群の検出が報告されている(樋口他 1969)。

 昭和61年以降においては、上流地域にある川崎市黒川遺跡群の調査で縄文時代草創期終末の撚糸文系土器群の集落が報告され(黒川地区遺跡調査団 1986〜1997)、また、駒沢学園短期大学建設に伴う調査により、縄文時代草創期の隆線文系土器が検出されている(駒沢学園校地内遺跡調査会 1989)。そして平成9・10年には東京都教育委員会により稲城・坂浜地区の分布調査が実施され、徐々にではあるが本水系における遺跡の分布状況が明らかになりつつあるといえる。


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