前節

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 氷の川を雪の筏に乗り、石槍を水馴棹《みなれざお》にして、密かに敵地にと向ったコロボックル第一の勇者ヌマンベは、初めは水の流れに従って下るのを助け、後には汐の寄せるに連れて溯《のぼ》るのを防ぎ、斜《はす》に斜にと進んで行って、漸く大中洲に達する事を得た。

 筏の上から海鹿《あじか》の脂肪を入れた壺を抱えてヌマンベは洲に降りた。此所の砂は雪、此所の蘆は氷、踏めば鳴り、触れば鳴る。忍びの身は、それにも心を置くのである。

 敵の地は遠く無い。身支度を此処でして、水の中を泳ぎ行き、帰りには敵の刳《く》り船《ぶね》を引けるだけ引こうと思えば、寒さ冷めたさは何《ど》の毛孔《けあな》にも覚え無い。

 万一、見咎《みとが》められて闘いともならば、大酋長より授けられた両頭石斧《せきふ》、それを其儘、手に攫《つか》んで、手当り次第に打合うのみ。長い柄の物は、此場合に無用である。泳いで行くには身軽でなければ成らぬ。石槍を洲に突立てた下に、衣物《きもの》を脱いで置こう。頭巾も取って置こう。皮靴も素《もと》より捨て置こう。

 では有るが、首に懸けたる翡翠《ひすい》の飾り玉。彼《か》のネカッタから贈られたのは、如何しても肌身からは放されない。

 渇した時に口に入れば、忽ち氷を含むが如く感じられて、自然に湿《うるお》いを得て来るのである。戦いに疲れた時には、之で一息して勇気を得ねばならぬと、神符でもあるかの如く、それを手に取って、押頂かんとする、此時に、先きの洲の方で不意に大軍の突進する物音。

 ヌマンベは吃驚《びっくり》した。

 併し、それは、雁《かり》の群の、一時に立って飛んだので有った。

 急いで頭巾《ずきん》を取った。上衣を脱いだ。其股引に手を掛けた時に、枯蘆の氷は音を立て折れた。

 獺《かわうそ》でも上って居るのかと疑った。

 後の方でも亦《また》其音がする。

 如何も様子が変って居るので、ヌマンベは昵《じつ》として、耳を傾けた。

 雪は見る見る洲に積って、四辺《あたり》は薄く明かである。

 何やら二三間先に黒い影が見える。人かと思って油断なく其方を見詰めた時、いつしか後から忍び寄った一人、物をも云わず組着いた。

「扨《さて》は敵人!」とヌマンベは呼わりながら、握り持つ両頭石斧で、敵人の脇腹を打った。

「あッ〜」と叫んだ。其時には早やバラバラと、枯蘆の蔭から七八人。

「生けて捕れよ!」と中の一人が叫んだ。

「おう!」と口々の答え。

 群《むら》がり掛った其速さ!

「何ッ!」とヌマンベは叫んで、両頭石斧を打振った。

 二人三人、蹴飛した。

 又来る者を投飛した。

 又来る一人の脳天を打砕かんとした。

 鳴呼《ああ》、其手首は既に斬落されて居た。鋭い鉄《かね》の刀には敵し得ぬ。

「ちえッ!」と無念を叫んだ時に、肩先を切込まれた。紐も共に切られて、玉さえ散った。

 海上遥かに鯨の吼えるのが連《しき》りである。

 

26」へ続く

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