前節

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 明くる日は、晴れた。青いのは空ばかりである。彼方《あなた》も白し。此方《こなた》も白し。

 雪は敵へも味方へも平等に降ったと見える。

 常は清く玉の如く流れる川の水も、今朝は黄黒く濁って居る。

 岸頭には大酋長センゾック、故老タツクリ、其他此附近の集落の者、誰彼《たれかれ》となく大勢集まって、川の南の方をのみ見詰めて居る。

 だが、勇者ヌマンベは、帰り来らぬ。

 何時まで待っても帰り来らぬ。

 敵地の方には今日殊更《ことさら》に煙《けむり》の立つのが盛んである。

 中洲のあたりに浜烏《はまがらす》の多く集まるのが見える。

 ヌマンベは帰り来らぬ。

 何時まで待っても帰り来らぬ。

 大酋長の眼からは血の如き涙が鈍染《にじ》み出した。

     *

 ヌマンベは終《つい》に帰り来らなかった。

 併し妖婆ウノキの屍骸《しがい》は川尻の北岸に流れ着いて居た。水中で凍死したのであろう。

     *

 コロボックルの形勢は日に日に悪い。大和《やまと》民族の大進撃は今日か翌日かに迫って見えた。

 彼の来らぬ間《うち》に、此地を去るに若《し》かずとして、集落集落は準備をした。

 持ち行くに不便の器物は、悉《ことごと》く破壊して、掃溜《はきだめ》に捨てた。重い石捧《せきぼう》は地を掘って埋めた。

 住馴れし家には、火を放った。

 老人、小児《こども》、女子、皆先に立って落行《おちゆ》かした。心弱き壮者《わかもの》もそれに打混《うちまじ》った。向う処は北の方《かた》である。

 自己一人のみの安楽を考えて、国家集団の幸福を顧みなかった為に、戦えば必らず敗れ、戦わざるも亦《また》敗れて、終《つい》には人種の滅亡を見る運命の敗者の大集団は、混乱したる状態に於て幾条《いくすじ》にも立分れ、砂塵《すなほこり》の立つ荒野原《あれのはら》にと分入った。

 小児も泣く、女子も泣く、壮者《わかもの》も泣く、老人は殊更《ことさら》に泣くのである。泣きながら弱き著は、北へ北へと落ちて行った。

     *

 今は玉川の北岸にコロボックルの隻影《せきえい》を留めずと思いきや、亀甲山の下、淵に臨む大岩の上に立って、川の向うを見詰て居る一人の少女がある。夫《それ》は大酋長センゾックの娘ネカッタ。

 彼の女はコロボックル唯一の愛国者ヌマンベの帰来《きらい》を、此最後の幕の端《きわ》まで待つので有った。

 涙か、玉か。人か、石か。

 斯《か》くしてネカッタは民族移動の最後の最後まで踏留った。

 併し川の向うから敵軍の此方に迫るのを見て、意を決した。

 待つに甲斐なきを覚ったのである。

 心美しきコロボックル乙女は、終《つい》に北へは落ち行かず、清く美しき玉川の水に飛入って、果てた。

 

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