歇《や》んで居た霙《みぞれ》は雪と変って降り出した。雪も雪も大雪、それに風さえ吹加わった。近き山々の頂きに積重なれる雪は更なり、遠き富士の山の頂き、千古の雪まで削り取って、一時に此所へ吹寄せるかとばかり。
鶴の羽を抜いて誰人《たれびと》が抛《なげう》つか? 兎の毛を挘《むし》って何者が投げるか?
舞下り、舞上り、散って、落ちて、又軽る。此軽さで以て初めて雪と知る。此大きさでは蛤《はまぐり》の貝殻としか思われぬ。
風は益々|吹荒《ふきすさ》んだ。亀甲山《きっこうやま》を根本から消し飛ばすかと恐ろしい。
雪は弥々降連《ふりしき》った。玉川を一面に埋めて了《しま》うかと凄《すさ》まじい。
二度の合図!
此風雪の間に立って、老巫女ウノキは三本の松明《たいまつ》を打振った。それは、ヌマンベを助ける為である。
右には大酋長センゾックが、石剣を握締めて見守って居る。左には故老タツクリが、環石《かんせき》を提げて見詰めて居る。
火は最初に渦巻を画いた。続いて横一文字、又続いて竪《たて》一文字。
火粉は雪片に混じて飛散。雪や紅き。火や白き。
これが併《しか》し敵の見張りの手配りを解くのであるか如何か。疑いを此間に生ぜぬでも無いが、それは経験多きタツクリの翁にも、思慮深きセンゾックにも、情けないかな、分らない。
「これでヌマンベの危難は免れた。妾の務めは之で了《おわ》った」と松明を投出してウノキは左右を顧みた。
「さらば少しも早く行けッ、川の向うへ」とセンゾヅクは促がした。
「再び此方の岸に来るなよ」とタツクリも急立《せきた》てた。
「却々《なかなか》来る気は御座りませぬ。此所で殺されたも同然、既《も》う懲《こ》り懲《ご》り致したわい」と言いつつ、ウノキは歩み出した。
雪と泥との山坂路、つるつると滑り降って、早く玉川の淵に臨む大巌頭《だいがんとう》にと達した。
後から松明を持ってセンゾックもタックリも附いて来た。
雪は並々降り盛って、山の上から吹下す他に、川の面からも舞上って来る。松ケ枝から落来る雪塊は、転々として次第に形を大にし、出張った岩角《いわかど》に当って、砕けて、淵に入る、其水音の凄まじさ。此所まで来ては早やウノキは、一言も発せぬ。送って来た二人も口を利《き》かね。互いに唯睨み合うのみである。
ウノキは淵に向って柏手《かしわで》打って、口の内で何やら唱えて居たが、思切って崖の上から水中へと飛込んだ。
雪頽《なだれ》の様な音が響いた。上から松明で照らしたけれど、妖婆の姿は早くも見えず成った。
水を切る音も次第に遠く成った。
タツクリの翁は、センゾックを促《うな》がして、「さア此上は少しも早く此所を去って、ヌマンベの帰るのを……」
「おう……筏で迎えにでも行くとしようか」とセンゾックは答えた。
此時、川の方からして、ウノキの高声が風雪を突切って響いた。
「ヌマンベが何んで帰ろう。二度目の合図で大和男子《やまとおのこ》に、敵は行く、油断すなど其事を知らせたのじゃ」
「何ッ!」とセンゾックは叫んだ。
「誰が彼奴を助けるものか。追放された意恨《うらみ》じゃ。むははははは」
「扨《さて》は、我等を欺《あざむ》いたのか」
「口惜しくば、わが後を追うて、川の中に入って来よ」
「何を!」
松明を投付けたが、吹雪に両眼を打たれて、妖婆の姿は見えぬ。
生憎《あいにく》に弓矢 (54) を持たず。礫《つぶて》を打つにも小石が見当らぬ。
「おのれ、憎ッくき……」と言いつつセンゾックは川の中に躍り込もうとした。
「無益な、大酋長《おおがしら》、彼奴は既《も》う此闇で、何処へやら……先ず先ず」とタツクリは抱留めた。
センゾックは無念さに、地鞴《じだんだ》を踏んだ。
松の雪、岩の雪、一時に滑って落下した。