前節

24

 歇《や》んで居た霙《みぞれ》は雪と変って降り出した。雪も雪も大雪、それに風さえ吹加わった。近き山々の頂きに積重なれる雪は更なり、遠き富士の山の頂き、千古の雪まで削り取って、一時に此所へ吹寄せるかとばかり。

 鶴の羽を抜いて誰人《たれびと》が抛《なげう》つか? 兎の毛を挘《むし》って何者が投げるか?

 舞下り、舞上り、散って、落ちて、又軽る。此軽さで以て初めて雪と知る。此大きさでは蛤《はまぐり》の貝殻としか思われぬ。

 風は益々吹荒《ふきすさ》んだ。亀甲山《きっこうやま》を根本から消し飛ばすかと恐ろしい。

 雪は弥々降連《ふりしき》った。玉川を一面に埋めて了《しま》うかと凄《すさ》まじい。

 二度の合図!

 此風雪の間に立って、老巫女ウノキは三本の松明《たいまつ》を打振った。それは、ヌマンベを助ける為である。

 右には大酋長センゾックが、石剣を握締めて見守って居る。左には故老タツクリが、環石《かんせき》を提げて見詰めて居る。

 火は最初に渦巻を画いた。続いて横一文字、又続いて竪《たて》一文字。

 火粉は雪片に混じて飛散。雪や紅き。火や白き。

 これが併《しか》し敵の見張りの手配りを解くのであるか如何か。疑いを此間に生ぜぬでも無いが、それは経験多きタツクリの翁にも、思慮深きセンゾックにも、情けないかな、分らない。

「これでヌマンベの危難は免れた。妾の務めは之で了《おわ》った」と松明を投出してウノキは左右を顧みた。

「さらば少しも早く行けッ、川の向うへ」とセンゾヅクは促がした。

「再び此方の岸に来るなよ」とタツクリも急立《せきた》てた。

「却々《なかなか》来る気は御座りませぬ。此所で殺されたも同然、既《も》う懲《こ》り懲《ご》り致したわい」と言いつつ、ウノキは歩み出した。

 雪と泥との山坂路、つるつると滑り降って、早く玉川の淵に臨む大巌頭《だいがんとう》にと達した。

 後から松明を持ってセンゾックもタックリも附いて来た。

 雪は並々降り盛って、山の上から吹下す他に、川の面からも舞上って来る。松ケ枝から落来る雪塊は、転々として次第に形を大にし、出張った岩角《いわかど》に当って、砕けて、淵に入る、其水音の凄まじさ。此所まで来ては早やウノキは、一言も発せぬ。送って来た二人も口を利《き》かね。互いに唯睨み合うのみである。

 ウノキは淵に向って柏手《かしわで》打って、口の内で何やら唱えて居たが、思切って崖の上から水中へと飛込んだ。

 雪頽《なだれ》の様な音が響いた。上から松明で照らしたけれど、妖婆の姿は早くも見えず成った。

 水を切る音も次第に遠く成った。

 タツクリの翁は、センゾックを促《うな》がして、「さア此上は少しも早く此所を去って、ヌマンベの帰るのを……」

「おう……筏で迎えにでも行くとしようか」とセンゾックは答えた。

 此時、川の方からして、ウノキの高声が風雪を突切って響いた。

「ヌマンベが何んで帰ろう。二度目の合図で大和男子《やまとおのこ》に、敵は行く、油断すなど其事を知らせたのじゃ」

「何ッ!」とセンゾックは叫んだ。

「誰が彼奴を助けるものか。追放された意恨《うらみ》じゃ。むははははは」

「扨《さて》は、我等を欺《あざむ》いたのか」

「口惜しくば、わが後を追うて、川の中に入って来よ」

「何を!」

 松明を投付けたが、吹雪に両眼を打たれて、妖婆の姿は見えぬ。

 生憎《あいにく》に弓矢 (54) を持たず。礫《つぶて》を打つにも小石が見当らぬ。

「おのれ、憎ッくき……」と言いつつセンゾックは川の中に躍り込もうとした。

「無益な、大酋長《おおがしら》、彼奴は既《も》う此闇で、何処へやら……先ず先ず」とタツクリは抱留めた。

 センゾックは無念さに、地鞴《じだんだ》を踏んだ。

 松の雪、岩の雪、一時に滑って落下した。


54) 矢の根石(石鏃)があるから、弓も有ったのであろうが、それは植物製なので、貝塚その他にも遣って居らぬ。しかしその弦掛と見るべき角器が発見されている(三河国豊秋村字平井貝塚)。これには異論もある。又似寄りの品で漁具に用いたものもあるけれど、余の蔵品はやはり弦掛と認める事が出来る。それから鹿角製の矢筈と認むべき品が数ケ所から出ている。
 

25」へ続く

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