此所で妖婆を殺して了えば、勇者を救うの法は無い。と云って敵に通じて味方の滅亡を謀《はか》って居た人面獣心の老巫女を、如何して助けて置かれよう。
焼殺そうか? 撃殺そうか?
待て! 併し……ヌマンベには老いたる母がある。若い妻が有るべく近寄って居る。彼は一身を犠牲《いけにえ》にして、我等の領する国の為に尽す。素《もと》より死は覚悟して、敵地に探り入ったのであるが、途中で伏勢《ふせぜい》に取囲まれて、鉄《かね》の刀で弄《なぶ》り殺しにされたなら、どの位無念|口惜《くちお》しかろう。ヌマンベは如何しても死なしたく無い。
それを救うの道、全く無いのなら是非に及ばねが、一縷《いちる》の望みは未だ有るのだ。それを見す見す消滅させるのは、惰に於て忍ぶべくもあらぬ。
大酋長センゾックの胸の内には玉川の水悉く流れ込んで、瀬々の漲《みなぎ》りを現《げん》じたるかと計《ばか》り。
「さらば」と潮く決心して、センゾックは口を切った。
「どの道妾を殺すであろうな。馬籠の広原に連れて行って、大石斧で首を斬るか」と妖婆ウノキの毒吐《どくづ》きは益々度を加えて来た。
「いや、殺さぬ」
「矢張、婿は助けたいか」
「和主《おぬし》の命も助けるに由って、急いで二度目の合図をせよ」
「その合図して了うたら、最早や用の無い妾……其所で和主等は殺そうとするのであろう。其手に乗ろうか。其手に乗ろうか」
何処まで心が曲って居るのか。
タツクリの翁は其《その》つもりで居た。それを見抜かれたので一泡吹いた。
センゾックは思案が違う。
「いや、わしも大酋長《おおがしら》じゃ、一旦助けると云ったからは、決して和主を殺しはせぬ」
「殺さねとか……」
「其代り……我等に仇《あだ》する老巫女を、川の此方の土地には断じて居らせぬ」
「なる程なア」
「二度の合図で敵の見張りの手配りが解けたなら、亀甲山《きつこうやま》の麓から、直ちに川の向うへ去れッ」
「川の向うへ去れ?」
「我等には敵、汝には、味方の居る川の向うへ去れッ」
「と云って筏も無し、船も無し」
「水の中を泳いで行けッ」
「此寒中……霙の夜に……」
「あら、笑止《しょうし》や。和主は巫女では無いか、水行には馴れて居ろうが」
「む、む……」
「さア急げッ。コロボックル第一の勇者は、早や中洲あたりまで進んで居よう。早く助けずば一大事、早く、早くッ」