石槍の柄《え》 (49) を水馴棹《みなれざお》にして、氷の川に雪の筏を乗出したヌマンベの勇ましの姿は、忽ち霙の間に掻消《かきけ》されて見えず。
岸頭に立ってこれを見送る大倉長のセンゾック、故老《ころう》のタツクリ。少時《しばらく》は無言で有った。
水瀬の音か、上《かみ》の方《かた》。海潮《うしお》の声か、下《しも》の方。
蘆の枯葉に、さらさらと小霙の当る音。
岸の小石に、ひたひたと流氷《ながれこおり》の触る音。悉《ことごと》く二人の耳に入って、神経の興奮は頂上に達して居る。
忽《たちま》ち河心《かしん》の方に叫びの声!
ヌマンベが敵の斥候《ものみ》と衝突したかと、胸を轟かして、猶能《なおよ》く聴けば、海鴎《かもめ》の鳴くそれであった。
忽ち又下流の方に、船を漕ぐ櫓の響き!
敵船来ると耳を立てれば、一連《ひとつら》の雁《かり》の鳴き渡る。
「何時まで此所にも居られますまい。一先ずわしの小屋まで……」とタツクリの翁《おきな》はセンゾックに説いた。
「さればな。吉相《きっそう》は暁方であろう。それまで厄介《やっかい》に成るとしようか」
センゾックは漸く岸を去って高地の方に向わんとした。
「はて! 不思議!」と呼《よば》わった。
「何事で御座りまするか」とタツクリの翁は問掛けた。
「見よ、亀甲山 (50) の方!」
「何? 亀甲山の方?」
「霙は今|小歇《こや》みなるが、老《おい》の眼には未だ見えぬか、あの火! あの火! あの怪しの火!」
「おう、あの火!」
「二ツ高く見え、三ツ低く見え、あれあれ三ツ並んで見え……忽ち又一ツ高く、二ツ低く……又変るわ……種々《さまざま》に変るわ」
「おう、あれで御座りまするか」
「何んという怪しの火ぞ!」
「あれは、少しも怪しい火では御座りませぬ」
「何故か」
「あれは時々遣《や》る事で……」
「誰が?」
「嶺の千鳥窪《ちどりくぼ》の老|巫女《みこ》ウノキが、神に祈りを上げる時には、あの様に暗夜、火を点《とも》しまする」
「なに、老巫女が……神に祈る……暗き夜に……あの様にして……や、怪しとも怪し。それは以前より其様《そのよう》に致すのか」
「いや近頃で御座りまする」
「敵人と川を隔《へだ》ちて相対する此頃、川添の家にては、火の光を外に漏らさじと、心|為《せ》ぬは無い中に、殊更《ことさら》深夜高台にて、火を動かすとは奇怪千万。老巫女、敵人に心を寄せ、火の手にて合図すると見ても言訳あるまい」
「寔《まこと》にそれは其通り……や、然うとは、つい気着《きづ》きませなんだ」
「さなきだに我には合点《がてん》行かざる、あの老巫女……今宵ヌマンべの行くを知って、敵人に合図するのでは有るまいか……疑えば限り無し……密かに亀甲山《きっこうやま》に行き、之から老巫女の挙動《ふるまい》を窺《うかが》い呉《く》れん」
「果して然らば憎《につ》くき妖婆《ようば》! 老爺《おやじ》も御供致しましょう」「来れ、翁《おきな》! これは、一大事じゃ!」