ヌマンベは不意の人声に驚ぎながら、
「誰か?」と問《とい》掛けた。
「勇ましの若者! 我等|民族《なかま》の為に一身を犠牲《いけにえ》として、敵地に乗込んとするを見送りの為、馬籠の里からセンゾックが来て居る」と最初の人の声。
「大酋長殿《おおがしらどの》の御微行《おしのび》じゃぞ」と其次ぎに老いたる人の声。
「おう! 大酋長! タツクリの翁《おきな》も一緒にか?」と嬉し気にヌマンベは呼わりながら、其人の前に走り寄った。
「おう、ヌマンベ! 勇ましのヌマンベ! 今宵|屹《きつ》と行くと思うて、忍んで見送りに来て居った。タツクリの翁を誘い出して……」
「此霙《このみぞれ》の夜、寒い寒い霙の夜に、大酋長の身を以て、供をも連れず馬籠から、丸子の渡しの河岸まで、能《よ》うぞ出て来られましたな」
「寒い寒い霙《みぞれ》の夜に、半《なかば》は水の中に入って、敵地に行く和主《おぬし》の事を思えば、わしが此所まで出て来たのは、何んでも無い事である、其見送りは、わし計《ばか》りでは無い。他に是非とも見送ろうと言うた者があった。わしは其者を無理に留めた。何故なれば、其優しい心を和主は酌《く》んで呉れる事の出来る男。わざわざ姿を此所に見せいでも……」
「能うそれは分りました……能うそれは分りました」
感激したヌマンベ。其毛皮の毛の雪は、自然に振落される程に身を顫《ふる》わした。
タツクリの翁は壺形土器 (48) を取り出して、
「さア此中には海鹿《あじか》の脂肪《あぶら》が取ってある。いよいよ水に入る時には、体に塗って行くが好い。少しは寒さ冷めたさが違おうそ」
「おう、脂肪の用意、つい忘れて来た処。それは忝《かたじけの》う御座りまする。川中の洲に上って、其所で準備《したく》して行きましょうで……」とヌマンベは土器を受取った。
「さらば、ヌマンベ! 勇ましのヌマンベ! 首尾好く敵の船奪取って恙《つつが》なく還るのを待って居るぞッ」とセンゾックは声を励ました。
「行く時は筏《いかだ》の悲しさ。向うへ着くに手間取っても、帰りには敵の刳船《くりふね》矢よりも早く漕いで来ましょう。さらば、大酋長《おおがしら》!」
「行けッ、勇ましのヌマンベ!」
「さらば、タツクリの翁《おきな》!」
「行けよ、ヌマンベ! 勇ましのヌマンベ!」
行き掛けてヌマンベは、立留った。然うしてタツクリの翁を引寄せて、
「もし翌日《あす》……日が出ても、わしが還って来なんだら…母者人《ははじゃひと》が心配してであろう。其辺を能く其方に頼んだ……何時までたっても、わしの姿が、此方の岸に見えなんだら、猶更母者人の身の上を……な……頼みましたぞ」
と密語《ささや》いた。
「心配するなッ。大酋長も附いて居られるわい」
と強く翁は一言いながらも、孝子の心を酌分《くみわ》けては、胸が張裂く。
折も折、岸の氷も張裂ける響き!