前節

17

 雪は雨と成り、又雪に復り、後には雪と雨と打混《うちまじ》りて降り続き、夜に入《い》っても未だ歇《や》まぬ。

 玉川の岸の枯蘆には玉を連ねて結付《ゆいつ》けた様に、氷の破片《かけら》が附着して居る (46) 。

 流れる水も、満《あ》げる潮も、共に此所では氷り合って、広き河口《かわぐち》一面を封じ、今に其上を踏んで渡れそうに、常よりは変って見える。

 今宵の他に何時があろう。河の向うの敵人の油断を衝《つ》くには屈竟《くっきょう》であると、コロボックル第一の勇者ヌマンベは、密かに我家を立出でた。

 生きて還るは万が一。死を覚悟の首途《かどで》である。老いたる母に打明けて、心残りの無い様に訣別するのは知って居るが、それでは如何も心が鈍って、後髪を引かれて成らぬ。一層知らぬ間のそれが好かろうと、眠れる顔に無言の暇乞《いとまご》い、息切って踏出したのである。

 海鹿《あじか》の皮頭巾、海鹿の皮衣、霙《みぞれ》の他に濡れるのは、勇士の涙のそれ故である。

 これも併し民族《なかま》の為である。自分一人の安楽を考えたら、誰が此夜に出て行こうぞ。早くから若き妻を迎えて居る。それと炉辺《ろへん》に暖かく木の実酒飲んで当って居る。敵人襲来する時は、誰よりも先きに逃げるばかり。それでは我等は亡びるばかり。血のある男は見ては居られね。

 今宵一人敵地に乗入り、船下《ふなおろ》しに近き楠《くす》の刳船《くりぶね》、三十余隻を悉《ことごと》く奪い来らんは及ばぬながら、曳かれるだけを曳来らば、敵に取りて大きな損失。味方に取りて大きな利益。これより士気は振い来り、奪われたる土地取戻し得ずとも、此玉川の北岸から、又もや北へと追われまいであろう。

 真の楽しみはそれから得られる。此美しき里に睦《むつ》まじき我等の民族《なかま》。敵人に襲われる事さえなくば、互いに幸福が得られるのである。

 加之《しか》も我は馬籠《まごめ》の大酋長《おおがしら》センゾック殿よりして、両頭石斧《りょうとうせきふ》を授けられた。其妻のテラゴ殿は愛娘ネカッタ殿の飾りの玉を与えられた。今度の大役《たいやく》を仕遂《しと》げて帰ればネカッタ殿は何を祝って呉れられるか。

 ヌマンベの心は再び勇んだ。霙の中を行きながら、全身燃ゆるが如く熱して来た。岸に繋げる筏《いかだ》 (47) の上には、雪が白く積もって居る。

 途中までは筏に乗って行こう。敵前《てきぜん》近く成ってから、水中に入《い》って密行しようと、岸の氷を踏砕き、雪の筏に乗ろうとした。

 千鳥《ちどり》連《しき》りに啼《な》いて散る。

「ヌマンベ! ヌマンベ! 今宵行くか?」

 突然、枯蘆の間から声がした。


46) 本朝俗諺志に−−この川の氷は大指の麦程つつに丸く氷りて、川岸の枯草枯蘆に閉じ合いて玉を連げる如く、只水晶の珠数を乱せるに似たり。この川の水にあらねば、斯く氷らず。この故に玉川の名あり、など云えり−−とあり。もとより俗説だが、岸の枯蘆に氷りの附くは事実である。
47) 筏は無論組立てたろう。八木獎三郎氏、日本考古学において之を説いている。
 

18」へ続く

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