玉の如く清き水の川口に遠からぬ嶺の千鳥窪 (36) に、生ける神の如く貴《とうと》き老|巫女《みこ》が一人住んで居る。
病める男、姙《はら》める女、心に憂愁《うれい》ある考、身に罪障《つみさわり》のある者、遠く近くより集まり来りて、皆その悩みを消滅せしめるべく、老巫女の祈祷を請《こ》うのである。それも空手で来る著は一人も無い。供物《そなえもの》にとて種々の食物、或は毛皮、宝石なんどをさえ持来って居る。
重患の者には神符《しんぷ》として土板《どばん》 (37) を授けられ、難産の者には厭勝《えんしょう》として土偶 (38) を与えられる。土板や、土偶や、皆それは老巫女の手元に、これのみを造る技術者《わざもの》の手から引取られて、用意されてある。それが又全治した者は、同じ物を新たに求めて、御礼として納めもする。
老巫女の名はウノキと呼び、年の頃六十余り。顔には小波《さざなみ》の如き皺を寄せ、頭《かしら》には白雪の如き髪を束ねて居る。首のまわりには、青き翡翠《ひすい》、赤き瑪瑠《めのう》、白き水晶、色々の玉を連ねて飾りとして居る。
今日も朝早くから多くの人を見た。然《そ》うして、それぞれの祈祷をして与えたので、正午の頃には聊《いささ》か疲労《つかれ》をも覚えて来た。
「今日はこれで止めにして、誰が来ても見まいぞ」とつぶやきながらも、積重ねたる供物の数々を見て、今日も多数に収人を得たりと、自然に微笑《ほほえみ》を漏らして居る処ヘ、甚だ不調子の足音がして、次第に此方《こちら》へ近づいて来た。
それは足を引きながら久《く》ケ原《はら》の著者カンニャックが来たのである。
「巫女殿、お助けを乞いに参りましたぞ」と呼《よば》わりながら、入口の方からよろばい込んだ。
「いや、既《も》う今日は見ぬ事にした。翌日ならば祈祷して進ぜよう。出直して来なされ」と老巫女は断った。
「それまで如何して待たれましょう。此痛い事!」とカンニャックは心細い声を出した。「今の若さに痛いなんど……」
「それが真実痛いので……其痛い足を引摺り引摺り、やッと此所まで参りましたのじゃ」
「来られる程ならば未だ好いでは無いか」
「でも巫女殿にわしの家まで来て貰う事も出来ませぬでな」
「その様に難儀な足の為に、何も持って来る事が出来なんだか? 御供物《おそなえもの》を持って来ぬのは、それ故《ゆえ》でか? いや、縦令《たとい》如何ような御供物を持って来ようとも、今日は既う祈祷は止めじゃ」
「巫女殿、その御供物に就て、是非是非お耳に入れて置かねば成らぬ事が御座りまする。全くの一大事?」
「なに、一大事?」
「わしの足の怪我も、それに関わって居る事じゃ」
「何という?
「近い間に、此庭一杯の御供物が持込まれまするぞ。その中には、異国から遥々持って来た石の玉 (39) 。貝を数多《あまた》破《わ》って見て漸《ようや》く其中から一ツ取り得た玉 (40) 。巧みに孔を穿《うが》った玉 (41) 。朱で塗った土器の数々 (42) 。細かな鹿の角細工。磨いた猪《しし》の牙細工。それから珍らしい穀物 (43) 。滅多に取れぬ魚や鳥や。毛皮なら、白熊《しらぐま》のも、白狐《しろぎつね》のも、亦《また》黒貂《くろてん》のも……」
「これこれそれは和主《おぬし》が持込むのか……いや。和主が持込むのでは有るまい。夢に見たのを語るのであろう。それ程の御供物は、一人の力で如何して揃えられよう。此あたりの酋長達が気を揃えねば、却々《なかなか》以て集まりはせぬぞ」
「それで御座りまする。馬籠の大酋長センゾック殿を初めとして、大森の酋長、権現台の酋長、其他大井のや石原のや、諸方の酋長達が打集《うちつど》い、是非とも巫女殿に旗んで、大祈祷をして頂かねば成らぬと有って……」
「おう、酋長達が打揃うて、此のわしに大祈祷を頼もうとや。おう、おう、それは然うのうては適《かな》わぬ事」と見る見る老巫女の顔は輝き出した。
カンニャックは又顔を顰《しか》めて、足の底の痛さを大袈裟《おおげさ》に示しながら、
「その大祈祷をお頼みするのは、何の為という事、それから未だ未だ一大事に就て、申上げる事も御座りますれど、痛や此足……これを治してからにして下さりませぬか」と巧い処で療治を頼んだ。