前節

13

 酋長の家を出たヌマンベは、贈られた両頭石斧と飾りの玉とを、大事に隠しの中に納め、替え松明《たいまつ》二三本片手に抱え、其一本に火を点じて片手に持ち、下沼部《しもぬまべ》の吾家を指して帰り出た。

 幾度となく振向いて見た酋長の家に火も見えず成った。

 送って出たテラゴとネカッタ。彼方《あちら》からも此方《こちら》の松明を、長く長く見守って居たろうか。

 此の寒風に耐切れず、疾《はや》く家内に駈込んで、入口の柴戸を締めたであろうか。其様な事をヌマンベは胸に浮べた。

 だが、彼方からも見えず、此方からも見えず、火と火との縁が切れた時には、今度は吾家に母の待つあるを思出した。 「早く帰って喜ばせねばならぬ」

 此心で足は自然に急いだ。

 後から吹かれる風の冷たさを防ぐ為に、肩に刎《は》ねて居た角頭巾《かくずきん》を取って、すッぽりと頭から冠った。

 今まで後の方の物音が能く開こえて居た。風に枯草のざわめくのが、テラゴとネカッタの密語《ささや》きでは無いかとまでに聴えて居た。それが既《も》う聴えなく成った。

 火に鷲いて行手の森に鳥の落ちる其羽ばたき。或いは路を横切る獣の走る音。それだけは漸《ようや》く聴えて居た。

 空には星も隠れた。翌日は雨か。雪か。

 雪ケ谷の集落を過ぎても、此所に家ありとは知られぬ程に暗くある。入口の柴戸を鎖《とざ》したので、火の光が見えぬからであろう。

 特別に狩する者の他には夜の道は滅多《めった》に人が歩かぬ。ヌマンベは此様に遅く此あたりを通るのは珍らしかった。

 来る時には使の少年が一緒で有った。彼は乾栗《ほしぐり》を隠しから出しては、ポツリポツリ食べて居った。ヌマンベは今別に物欲しゅうは思わぬけれど、酒食の後の事とて、喉が乾いてならぬ。と云って清水は此近くだと後戻りせねば無い。それ程でも無い。

 耐《こら》え耐えて余程歩いた。替え松明を焚き尽くして、今は手ばかりのと成った。家路も早や近い。

 空いた片手は無意識に隠しへ落ちた。触れたのは翡翠《ひすい》の名玉《めいぎょく》である。

 知らず知らずそれを取出した。

 片手の松明で照らして見た。(34

 美麗というは超して居る。神々しい様に光りもする。其《その》色艶は石とは見えぬ。空に雲一片無き朝に、底の知れぬ淵の水の色の、それの凝《こ》った一塊《ひとかたまり》かとも思われる。

 渇《かつ》して居たヌマンベは、之を口の中に含んで見た。

 溶けて失くなりは為《せ》ぬかと心着いて、急いで掌《てのひら》に吐き出した。

 気の所為《せい》か渇は少しく医せられた。

 然《そ》うして口中に濡れた玉の色は、更に更に色艶を増して見えた。

 思わず恍惚として其玉に見入り、歩みは知らぬ間に留《とどま》った。

 松明の焔の風に煽《あお》られる音が、さも息苦しい様に聴えて居る。

 突然後から、何者か、手を伸して、その玉を奪おうとした。

 吃驚《びっくり》して松明を差向けると、怪漢《くせもの》は周章《あわて》てそれを打《たたき》き落した。

 其閃きに皮頭巾眼深《まぶか》の、唯それだけ見えた。

 松明は落されたが、玉は大事に掌に握り締めた。其挙で暗闇を一ッ打った。

 巧く怪漢の頭に当った。

 驚いて彼は飛退った。

 何処やらで梟《ふくろう》が鳴き出した。 


34)玉を取出して途中で見るについて自己の経験がある。採集に歩いて遣物を得た時に−−別して磨製石斧或いは、玉の類−−幾度となく隠しから出して、見ながら歩く。殊に石質の美麗なのには、口中自から水気を催して来る。舌頭に載せたら溶けはしないかと感ずる事もある。
 

14」へ続く

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