前節

 家の中は真赤に輝いて居る。盛んに焚火をして居るからである。多摩石《たまいし》で端《はし》を取った囲炉裏《いろり》(18)の中には、枯枝が盛んに焼《も》えて居る。其周囲には、底の小さな長形《なががた》の土器(19)が下部を灰の中に生けられて、三箇ばかり置いてある。其土器には、鳥の嘴《くちばし》の如き形をした把手《とって》(20)のもある。獣の頭の如き形をした把手のもある。貝の形をした把手のもある。其把手は無論実用から来て、後には装飾に変しては居ても、場合では食物を入れる部類分《わけ》の記号《しるし》にも成って居て、鳥は鳥、獣は獣、貝は貝と、肉を各々に分けて入れてある。斯うして炉《ろ》の端《はた》に置いてあると、自然に土器の内部の肉は煮えて来る。

 炉の前に熊の皮を敷いて、井上に胡座《あぐら》を掻《か》いて居る酋長は、年の頃四十五六か、未だ黒い髪を後で結んで居る。髯《ひげ》は無い(21)。併し頬から鼻下《びか》へ刺青《いれずみ》をして居るのが青黒く見えて居る。

 首の周囲には、海鹿《あじか》の牙に孔を穿《うが》ったのを数多く連ねて輪となし、それを飾りとして(22)掛けて居る。手首には猪《しし》の牙を削り、孔を穿ち、それを二ツ合せて嵌《は》めて(23)飾りとして居る。

 衣服は、鹿の皮の裏がえしに、大腿骨《だいたいこつ》つなぎの模様を朱《しゅ》の色鮮かに画いた裘《かわごろも》である。

 其《その》酋長の後には、木の枝を組合せて、草の蔓《つる》で吊った棚がある。其上には緑泥片岩《りょくでいへんがん》を磨きて、それに美しき彫刻してある両頭の石棒《せきぼう》が載せてある。土偶《どぐう》もある。土版《どばん》もある。香炉形土器《こうろがたどき》もある。飾りの石玉《いしだま》。鹿角器《ろっかくき》。獣骨器《じゅうこつき》。牙器《がき》。貝器《ばいき》。総て貴重なる品が載せてある。

 酋長の名は、センゾックと呼ぶ。

「ヌマンベ、今日は大事の用じゃ。許す程に入《い》れえ」

「はッ」

 ヌマンベは家の中に入ったけれど、炉の端《ふち》から遠い草莚《くさむしろ》(24)の上に膝を折って窮屈そうに坐った。

「玉の如く清き川の端を守る勇ましい若者。和主《おぬし》は川を渡って、沼地を過ぎて敵の居る処へ忍寄り、様子を探って来居ったとか。天晴《あっぱれ》の強者《つわもの》! 能く行き居ったな」と酋長は誉《ほ》め称《たた》えた。

「気遣《きづか》わしさに耐えませぬで……」とヌマンベは答えた。

「真に我々民族《なかま》の上を心配して居る、和主の様な若者が多かッたら、次第次第に我等は追われまいもの。余りに今の若者は弱過ぎるぞ。自分自身の事ばかり考えて多くの人の集まりには心せぬ。色の美しい花、音《ね》の好い鳥、其様な物を見たり聴いたりするのを喜び、月が好いとて少女達と踊り、雪が好いとて木《こ》の美《み》酒飲み、此頃では男子が朱で顔を塗るさえあるという。何んといういまわしい事であろうか。其様にして益益滅亡《ほろ》び行くのを急ぐのじゃ。前には一人で持てた石皿も、今の若者等は二人掛らねば成るまいが。同じ石斧造るのでも、大きなのより、小さいのを好み、蛇紋《じゃもん》の石や碧玉の石の綺麗な質《たち》のみ選び居る。見ろ、あの庭の大石斧、片手で敵人《てきじん》の間者《しのび》の首(25)斬って落したのは何者じゃ。年取った私ではなかったか。今の若者で誰が片手で持ち得るぞ」と酋長センゾックの言は激して、顔面に血は充ちた。焚火も今燃盛った。

「否《いや》、私にも持まするぞ!」とヌマンベも連《つ》れて意気を漲《みなぎ》らした。

「いや、和主《おぬし》ばかりじゃ! 和主ばかりしや! 其所で今日わざわざ此所へ呼んだ。今夜は各所の小酋長《こがしら》を呼集める其他に、大森の酋長《かしら》にも来て貰う。権現台《ごんげんだい》の酋長にも来て貰う。猪の肉が美味《うま》く煮える頃には、此所へ皆来て大軍議を始める筈。敵人に備える大軍議じゃ。それが為家内《かない》の者は、皆此所から出して居らしめぬ」

「大軍議!」

「其通りじゃ。其中に和主を一人加えたい。和主も大軍議に予《あず》かれえ」

「え、え、我如《われごと》き青二歳が、酋長達の大軍議の席に……」

「おう、然《そ》うして敵が、どの様な事して此方を攻め様として居るか、其模様を委《くわ》しく人々に、和主の口から語って聴かせえ」

「大軍議の席に連《つらな》れるは身の誉れ。はッ忝《かたじけの》う御座りまする!」

18)囲炉裏の跡と見る個所を、貝層の下部に発見する事がある。そこには多摩石が敷並べてある。周囲もそれで取ってある。そうして焼土、灰、炭など一杯に満ちて居る。
19)土器の口径大にして底部極めて小さく、とてもその儘に直立させるのは危険な程のが能く出る。その外面の上部は燻りたる色が附き、下部は火気の強く焼けた痕跡を認める。底を炉の灰に生けたのが想像出来る。
20)土器の把手の研究は最も複雑である。その形の出もいろいろだが、意匠を動物に取ったのも少くない。これは既に先輩が説いて居る。しかし此把手を、貯蔵食物分類の記号と見たのは、余の初めて発表する処である。
21)土偶しらべの結果、石器時代の人民は多く無髯である。そこがアイヌと異なる処であるとは先輩の数々説かれたのであるが、その後有髯と認められる土偶の顔面が数個発見された。無髯に対し有髯は併し何百分の一というに過ぎない。それから土偶顔面に朱を塗ったのがあり、鯨面と認められる線を引いたのもある。
22)海獣の牙に孔を穿ち、それを連ねて首飾りにするは現に南洋原地人にある。その品が遺跡からも発見されている。土偶の首の周囲に玉をつらねた形のがある。故坪井先生は矛製の首飾りを曲玉の起原と考えられた。
23)猪牙の腕輪は現に台湾人が用いて居る。博物館にも陳列してある筈。遺跡より矢張同じ品が発見せられている。
24)草の莚、敷物として織られた藺や真菰の類の有ったのは土器の底に押形として残っているので解る。その織方も様々ある。
25)貝層の中から時々人骨が出て来る。モールス氏が大森貝塚で既に発見されている。余の助手たる望蜀生は、先年下沼部にて頭蓋骨のみを掘出した。今は大学の解剖学教室に廻した。小金井先生御研究の一材料と成っている。
 

「8」へ続く

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