此所《ここ》へ走って来たのは一人の少年である。
「ヌマンベ、此所に居てか。今お前の家へ呼びに行こうと思
った処じゃと言って置いて、直《す》ぐと手に待つ乾栗(13)をポツリポツリ食い出した。
「誰が私を呼びに遣《つか》わした」とヌマンベは間い掛けた。
「酋長《かしら》から……」
「おう、それは幸い。私も是非酋長に会おうと思って居た」
とヌマンベは一言って身繕《みづくろ》いした。
「矢張《やはり》戦《たたかい》の事であろう」とタツクリの翁は言った。
「然《そ》うであろう。さらば老爺《おやじ》よ、少女《むすめ》達よ」
「さらば、ヌマンベ」
別れを告げた。
翁は未だ少女達に何か話そうとてか立留った。
少女達は既《も》う貝を剥《む》く処ではなく成ったと見えて、恐ろしき敵の居るという川の向うの遠き小山に、皆《みな》其《その》美しい眼を向けて居る。
此方《こなた》のヌマンベは少年と共に、枯草の間の細路を、酋長《しゅうちょう》の住居へと急いだ。
酋長の家は却々《なかなか》此所から遠い。此あたりで人家の多く集合して居る処は、上沼部《かみぬまべ》、奥沢、嶺、久《く》ヶ原《はら》、雪ヶ谷、上池上、根方《ねがた》、石原、祥雲寺山《しょううんじ》等であるが殊に大集落を成して居るのは馬籠《まごめ》(14)である。其所に酋長が住んで居るのだ。
馬籠には石鏃《せきぞく》製造所も土器製造所もある。総ての機関が整うて居る。此辺の小集落の住民は、皆馬籠の酋長の支配を受けて居るのである。
ヌマンベが馬籠へ着いたのは早や夕方で、四辺《あたり》が薄暗く成り掛けて居た。
酋長の家の前の広庭には、其部下の者等が猪《しし》を捕《と》り来《きた》って、今其皮を剥ぐべく石の皮剥具《かわはぎぐ》(15)を使用して居る処。血に塗《まみ》れた大石斧《だいせきふ》(16)も傍にある。
「おう、ヌマンベか。酋長《かしら》には待兼て居られるぞ」と誰彼《たれかれ》が声を掛けた。
「急いだけれど、つい遅う成った」とヌマンベは会釈《えしゃく》した。
茅《かや》で葺《ふ》いた屋根ばかりの家、浅く土を掘込んである其入口の柴戸は開いてある。中から煙が盛んに出て居る。其奥の方から。
「ヌマンベか。早く此所へ入れ」と太い太い声。
「はッ」とヌマンベは答えて恐《おそ》る恐る其入口まで進んだ。然《そ》うして石の如く身を堅くして立った。