前節

 古《いにしえ》を語るタツクリの翁は、危《あやう》き足下《あしもと》を踏締めて、杖に力をこ籠めながら、更に前の説を補うべく口を開いた。

「我々の先祖の初めに居た北の北の端《はし》の国には、氷の山、氷の原、氷を積んで造った家、それはそれは寒いのであった。一年の内に大方は雪の中で働かねば成らぬので、如何しても雪や氷に当る日の光の為に、眼を悪くして困ったものじゃ。それで、其《その》光を遮《さえぎ》る為には細く切目《きりめ》を造った(11)。だが、段々暖かい処へ来るに連《つ》れて雪は次第に少く成った。既《も》うそれは入らなく成って了ったので、今日では誰も用いない。お前達は其遮光器《ひかりよけ》を見た事もあるまい。私もそれは用いた事は無い。だが其遮光器を其儘に、土器の模様に画いてあるのは、お前達も知って居よう。これが北から我々の先祖が来た証拠の中の一ツじゃ」と口を結んだ。

11)エスキモー人種は、現に海馬の皮にて製したる遮光器を用いている。土俗品の標本として人類学教室に所蔵されてある。一寸目、鬘《かつら》に似て居る。鼻の当る処には突起のある塩梅《あんばい》は、旧式の老人眼鏡にも似ている。この遮光器を嵌めている形の土偶は東北地方から沢山発見されている。が、関東方面から以西へ掛けての発見の土偶には、遮光器を掛けたと認めるのがない。雪が少ないのでその必要を感じないからであろう。然るに注意して土器の模様を見ると、確かに遮光器に意匠を取ったのが出 て来る。楕円形の中部に細く二条の横線を引いたのを、幾個か連続さしてある。その連続目に土器としては無用の突起点さえ附してある。どう見ても遮光器模様である。この一事は余の発見である。これで考えて見ると、単に南から北へ進んだ族ならば、関東方面に居る間に、遮光器の必要を感じないのだから(土偶にその形跡無し)、遮光器を知り様が無いのである。従って模様として書き様が無いのである。北から来て南へ進んだとすれば、遮光器を知って居る者の製作に土器の模様のあるのは不自然では無い。北より南説の一論拠とするに足ると思う。

 此時、第一の少女は心細さ限り無しという声を絞《しぼ》って、「それでは又|妾《わたし》達は、其遮光器《ひかりよけ》とやらを眼の端に当てる様な寒い寒い処へ、之から追遣《おいや》られて了うのか」と問掛けた。

「いや、一気に其様な事も有るまい。此玉の溶けて流れる如き清き水の川の守りは、思いの外に長かった。白く高く煙を吐く山(富士山)と角《つの》の二ツある山(筑波山)との間は、寔《まこと》に住み心持の好い処。なるべく敵に渡さぬ様にしたいもの。お前達の子の代、其子の子の代、其間《そのうち》には次第次第に此細長い国の端《はし》まで行こう。又大きな島(北海道)へも渡ろう。それから又細長い島(樺太《からふと》)へも渡ろう。それからの先きは氷の上を……いやいや、そんな事の無い様に、石の御神《みかみ》に祈るが好い」とタツクリの翁は少女達に教えた。

「おう石の神(12)、まことにそれを祈るのが第一であろう」とヌマンベも言い添えたが、好き機《おり》と見て老爺に向って、

「老爺さん、あの石の神様だて。あれは酋長《かしら》殿の大事な宝物に能く似て居るでは無いか。我等を戦《たたかい》の時に指揮《さしず》するのに、必ず手に持って居られる、あの両方に頭のある石の棒に、石の神様の形は似て居る。小さいと大きいとの差がある。一方は手に持てるが、一方は二人三人でも持てぬ程、大きなのもある。一方には綺麗な彫刻《ほりもの》があれど、一方には滅多に無い。だが形は同じだ。頭の一ツのもある。両方に無いのもある。あれで如何して大きなのが石の神として祭られるのか」と問掛けた。

「おう、それは斯《こ》うじゃ。古い古い昔には、人と争うのに何も持たぬ握拳《にぎりこぶし》で殴り合った。其後《そののち》木の枝の節くれ立ったので殴り合うのが、手よりも都合が好いと成った。併し其枝は折れ易い。それで石で造り出した。これなら堅固《けんご》じゃ。したが、それは却々《なかなか》造《つく》り難《にく》い。石斧《いしおの》の様に沢山に数は無い。然《そ》うして居る間に又、弓矢が発明された。遠くから射台うので傍に寄って闘う事が少なく成った。其所で石棒《せきぼう》は酋長《かしら》の手に形式として残る様に成った。それで人々を指揮する様に成った。酋長でなければ石棒は持たれぬ、石棒が酋長の表象《しるし》の様に成った。さア其所で其酋長が死んで了《しも》うて、其体が無く成って見ると、其酋長を記念する物が留《とど》めて置きたい。斯う成ると何よりも石棒が其物に適《かな》って居る。人々は石棒を祭り出した。それは亡き人を尊敬し、崇拝する心からじゃ。従って伝える人の方から云えば、後の世に永く残すには、なるべく大きなのが好いという心もあろう。又伝えられる者供《ものども》の方から云えば、我等の先祖は此様に大きな物を持ち得たという誇りからして、長さ人の丈よりも高く、二人三人で持切れぬ様なのも造り出したであろう。それが伝わり伝わって、今では神様じゃ。我等の先祖の体は死んでも、魂は生きて居られる。我等は先祖の豪《えら》い人を崇拝する、尊敬する。其魂の乗移って居られるのが石の神じゃ。能《よ》く拝《おが》め。能く拝め」と翁《おきな》は答えた。

12)石棒については諸説粉々である。武器というのと、日用品──杵の類──というのと、道標というのと、墓標というのと、或いは織物の用具、或いは錨、其他種々出て居る。生殖器を模したので、その崇拝のためというのもある。単に神体として宗教的の意味に解したのもある。或いは斯くの如き大きな物を我が集落には有するという、自慢の飾り物と考えたのもある。学説は一定して居ない。生殖器云々は近世の道祖神の神体に結びつけ易いけれども、如何にせん、頭部を両端に有するのが多いので、その説は成立ち難い。余は前記の如く、小さく手頃にした精製の方を、酋長の指揮刀の如くに考え、大きくして粗製の方を祖先崇拝の標的の如くに考えている。その出所の意外の辺にあるのは住民他に移動の時、それを運ぶの不可能なる場合に、隠匿した結果と見ている。石棒の破砕されたり、又廃物利用の痕跡あるのは、他集落の者の所業と見れば崇拝物を粗末にした理由も解ける。
 

「6」へ続く

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