前節

「何も知らぬ少女《むすめ》達、まア貝を剥く手を休めて、私の語るのを、耳飾り(7)から漏らさぬ様に、能《よ》ッく聴けッ」と若者の声は一段と張上った。

 少女達は、末《ま》だそれでも貝を剥く手を止めなかった。

「見ろ! 少女達、此川の向うを! 其所には恐ろしい敵が居るでは無いか」と若者は更に高く声を張上げた。

 初めて少女達は貝を捨て、真面目に耳を貸す様に成った。

「潮の満干《さしひき》する川の向うの、其又向うに遠く遠く小山が連《つらな》るのが見える。黒くも見える。薄黒くも見える。時としては紫草の花の色の様にも見える。あの向こうの小山!彼処《あそこ》には我々と生活方《くらしかた》を全然《まるで》違えて居る人々が沢山に居る。恐ろしい鉄《かね》の刀《かたな》、鉄の鏃《やじり》、それで我々を追捲《おいまく》って来た。我々は石の斧、石の鏃、石の槍、石の剣、それより他には待たぬ悲しさ。敗けては退き、敗けては退き、到頭《とうとう》此所まで来たでは無いか。それは未だお前達の子供の時ではあるが」と云いつつ若者が、遠き向うの小山を指示《さししめ》して居る。其指の先はわなわなと顫《ふるえ》て止まぬ。向うを見詰めたる其面《そのおもて》には、悲憤の色が浮んで血の燃えるかとも見られるのである。

「幸いにして、向うの小山と比方《こちら》の小山との間に、潮の満干する川がある。然うして又川の他に沼もある。洲《す》もある。草原もある。河原もある。距離《あいだ》が可成り遠くある。歩いて来るにも、船で来るにも、一寸それが難儀な為に、敵の全然《すべて》が此方へは渡って来ない。いや、幾度か渡って来ようとしたが、我々はそれを一生懸命に防いだ。戦《たたかい》は何度となく開かれたが、此方の岸を近く水が流れるので、其水を渡ろうとする敵人に、味方は地の利を占めた高岸の上から矢を射るので、辛《かろ》うじて此所で防ぎ止めて居るでは無いか。此川の一筋が(8)どの位我々種族《なかま》に幸いして居るか知れないのだ。此所でも、此下流《しも》でも、此上流《うえ》でも、皆我々の軍勢が勝って居る。だが、それが何時まで保つと思って居るか。考えると心細い事ばかりだ。お前達は、川の端《ふち》で物を洗って居る時に、芦間隠《あしまがく》れに忍んで来る敵の物見の強者《つわもの》を、折節見出して驚くであろう。あの様にして絶えず此方を狙って居るのだ。我々を追捲《おいま》くらねば、承知せぬのだ。今に大軍は川を渡って、押寄せて来ようぞ」

 少女達は今更の如く驚きの色を浮べた。然《そ》うして又悲し気に打沈んで、今は若者の語る事を謹んで聴くに至った。

 若者は猶《なお》も川の向うを睨《にら》みつつ、

「だが物見に来たのは彼方《あちら》ばかりでは無い。此方《こちら》からも敵の様子を探りに行った強者《つわもの》があるのを覚えて居てくれ。一人密《ひそか》に川を渡り、沼地草路を巧みに進んで、敵人の目に触れぬ様に、遠き向うの小山まで行った、その大胆な働きしたのは、他でも無い、私《わし》じゃ。ヌマンベじゃ」と名乗ってトンと胸を拳で打った。

「ほー」と少女達は感じの強い声を発し揃えた。

 若者ヌマンベは語り進んだ。

「行って向うの様子を探ると、楠《くす》の木を伐《き》り倒し、クリ船(9)を造り掛けて居る。其数決して少く無い。十《とお》を三度《みたび》重ねて数えた。鉄《かね》の道具を持つ者は、如何しても勝味《かちみ》だ。火で焼いたり、打石斧《だせきふ》で伐ったりして、大きな木をえんやらやっと倒し、それを焼いては又石斧で削って、漸《ようや》く船を造る我々とは大層な相違。今にあの船が出来揃うたら、一時に川下《かわしも》の海の方から、不意に攻めて来るに極《きま》って居る!」

「おう!」と少女等は叫び連《つ》れた。

「人と人となら何んで敗けよう。私は彼等の四五人を、唯一人で相手にもして見ようが、鉄《かね》の刀と石の剣《つるぎ》と切結び、鉄の鏃《やじり》と石の鏃と射合っては、迚《とて》も此方に勝目は無い」とヌマンべは急に打萎《うちしお》れた。

「味方が敗けて如何しよう!」と突然、少女の一人は悲痛な声で叫び出した。

 ヌマンベは腕を拱《こまね》き、顔を上に向けて、天を仰ぐ様にして「我々は又次の川のある処まで退《しりぞ》くのだ。それより他には無い。強《しい》て此所《ここ》に留《とどま》って居れば、女は彼等の俘囚《とりこ》となり、男は皆殺されて了うだろう。家は焼かれ、器《うつわ》は破られ……残る物は貝殻の山だけであろう」と言って嘆息《たんそく》した。

(7)耳飾り。滑車形の小さき土製品にして、美術的製作少からず。耳朶に孔を穿《うが》ち、それに嵌入《かんにゅう》して身体装飾の一とした。これは故坪井先生の説である。余はこの品の一対揃って居るのを二組蔵して居る。
(8)川を隔てて敵と対峙するは、今も昔も変らぬであろう。それに多摩川のみの例で見ても、南岸と北岸との両遺跡の遺物を比較研究すれば、精粗の別に於て一時代を劃し得るのである。南岸が粗で、北岸が精。
(9)石器時代の船として、最近に発表せられた茨城県小沼発見(人類学教室所蔵)のは疑問である。船としては余りに小形に過ぎる。それに他の木材を結付けたという説もあるが、真に結びつけたか如何か、その証拠は未だ発見されて居らぬ。それに他の木材を結付けたとすれば、船より寧ろ筏に近くなる。それよりも、常陸国真壁郡大宝神社の社殿に有る大宝沼発見の方が、船として立派に認められる。但し石器時代の物と断言は出来ぬが、確かに古い事は古い。
 

「4」へ続く

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