今の人が住むのに適して居る場所は、三千年前の人にも住み好かったのに相違ない。水を得るのに便利で、前から日光の能《よ》く射す処で、後からの寒風を充分に防ぐ位置で無いと、其所に安楽な生活は続け難《にく》い。
此埋に従って多摩川の北岸は、石器時代の人民が住居を定めるのに、最も都合が好かったであろう。
今の丸子の渡口《わたしぐち》、下沼部《しもぬまべ》の台地などには、其人種の一集落が有って、住居も相当に有ったろう。人口も決して少くは無かったろう(1)。
其下沼部の日当りの好い台地に、其時代の乙女達が大勢、木の皮、草の蔓《つる》などで織った筒袖の衣服、それを正面合《まともあわ》せに着て居並び(2)、鹹水産《かんすいさん》の貝を小山の様に積んで、獣《けもの》の骨や鹿の角の先を尖《とが》らした道具(3)で剥身《むきみ》を製造すべく働いて居たのが想われる。
其時代に貝は非常に多く繁殖して居たろう。だが取るのには水に入るので寒い。又処としては洲《す》と洲との間が深いので、船を持って行く必用《ひつよう》も有る。それ故、山に猟するのが得意の者とは自《おのず》から別に、そればかり心掛けて居た者が有ったろう。それは、山に近きと、海に近きと、其住居の関係からしても、自然に分業と成って居たらしい。
それで、貝を取る者は貝。(魚も矢張同様に取ったであろうが)獣を狩る者は獣。各々《めいめい》そればかり食って居ては、自然に口に厭《あ》きるので、物と物と交換をする様に成って来るのが自然だ。すると、可成《かな》り遠い山野の方へ貝を送って遣《や》る場合に、食べられない貝殻は必用がない。運ぶのに第一重くて成らぬ。それよりも剥身にして遣るのが便利だと有って、これを専門に貝を剥く様にして居たと信じられる(4)。
斯《こ》ういう考えを脳裏に浮べながら、闇の夜道を歩いて居ると、忽ち暗中にコロボックルの酋長が現われて、
「其通りでした。あの下沼部の今の森庄兵衛という人の屋敷の後丘《うしろやま》に成って居る台地には我々種族の一集落が有りました。あの貝塚は明治の初年に鳥居龍蔵《とりいりゅうぞう》、内山|九三郎《くさぶろう》の二氏が発見されて、其後大学から坪井先生も来て掘られました。二条さんや徳川さんや、あの華族《かぞく》連も来て掘られましたが、最も猛烈に荒して行ったのは、貴郎《あなた》では有りませんか。や、三千年の昔ですが、斯《こ》ういう話が彼処《あそこ》で有りましたよ」と語り出した。