前節

 今の人が住むのに適して居る場所は、三千年前の人にも住み好かったのに相違ない。水を得るのに便利で、前から日光の能《よ》く射す処で、後からの寒風を充分に防ぐ位置で無いと、其所に安楽な生活は続け難《にく》い。

 此埋に従って多摩川の北岸は、石器時代の人民が住居を定めるのに、最も都合が好かったであろう。

 今の丸子の渡口《わたしぐち》、下沼部《しもぬまべ》の台地などには、其人種の一集落が有って、住居も相当に有ったろう。人口も決して少くは無かったろう(1)。

 其下沼部の日当りの好い台地に、其時代の乙女達が大勢、木の皮、草の蔓《つる》などで織った筒袖の衣服、それを正面合《まともあわ》せに着て居並び(2)、鹹水産《かんすいさん》の貝を小山の様に積んで、獣《けもの》の骨や鹿の角の先を尖《とが》らした道具(3)で剥身《むきみ》を製造すべく働いて居たのが想われる。

(1)現に同所字宮の上に貝塚が有って、そこから石器時代の遺物が沢山出た。
(2)織物の有った事は、土偶、土器等にその布目の押形を留めたので分る。又婦人の衣服の正面合せなのは、婦人と認むべき土偶の多くが、その通りに製作されてあるので考えられる。
(3)骨器角器の先を尖らしたのは、肉刺とも見られて居る。又漁具とも見られている。余はその他に貝剥きに使用したとも考えている。

 其時代に貝は非常に多く繁殖して居たろう。だが取るのには水に入るので寒い。又処としては洲《す》と洲との間が深いので、船を持って行く必用《ひつよう》も有る。それ故、山に猟するのが得意の者とは自《おのず》から別に、そればかり心掛けて居た者が有ったろう。それは、山に近きと、海に近きと、其住居の関係からしても、自然に分業と成って居たらしい。

 それで、貝を取る者は貝。(魚も矢張同様に取ったであろうが)獣を狩る者は獣。各々《めいめい》そればかり食って居ては、自然に口に厭《あ》きるので、物と物と交換をする様に成って来るのが自然だ。すると、可成《かな》り遠い山野の方へ貝を送って遣《や》る場合に、食べられない貝殻は必用がない。運ぶのに第一重くて成らぬ。それよりも剥身にして遣るのが便利だと有って、これを専門に貝を剥く様にして居たと信じられる(4)。

(4)遺跡の地形上から見て住居を構え得らるる面積から、その家の数及び人口を想定して、それに不似合の大貝塚が各地に有る。これは長期間貝食した為に、貝塚が斯く大きく成ったと解釈する人もあるが、実際貝塚を発掘して貝層の模様を見ると、そうした時代の差を認められぬ。例外として、一度廃絶した貝塚の上に、時を置いて又新たに貝塚を築いたのもある。則ち一貝塚で新古両層の有るものもあるが、それは別の研究である。それから又一方には、貝の産する海辺に遠からぬ遺跡で、可成りの大集落が有ったらしい処でも、全然貝塚の無いのもある。これは此所の住民が貝を絶対に食わなかったとも思われぬ。剥身を輸入したと考えるのが適当であろう。此を確めるには、他の一方に於て、地形上大きな動物の棲息を許さぬ所の貝塚の中から、猪や鹿や其他の動物の骨が沢山出る。物品交換の一例である。この研究からして、今までの貝塚に与えられた定義は、もう少し委しく説かねば成らぬ必要が生じている。

 斯《こ》ういう考えを脳裏に浮べながら、闇の夜道を歩いて居ると、忽ち暗中にコロボックルの酋長が現われて、

「其通りでした。あの下沼部の今の森庄兵衛という人の屋敷の後丘《うしろやま》に成って居る台地には我々種族の一集落が有りました。あの貝塚は明治の初年に鳥居龍蔵《とりいりゅうぞう》、内山九三郎《くさぶろう》の二氏が発見されて、其後大学から坪井先生も来て掘られました。二条さんや徳川さんや、あの華族《かぞく》連も来て掘られましたが、最も猛烈に荒して行ったのは、貴郎《あなた》では有りませんか。や、三千年の昔ですが、斯《こ》ういう話が彼処《あそこ》で有りましたよ」と語り出した。

 

「2」へ続く

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