歌う女

女が歌っていた。
理由は今もってわからない。
ともかく歌っていた。

事の発端は愛用の地下鉄に乗り込む時に、ちょうど発車寸前だったので、
最後尾の車両に乗り込んだことに端を発する。
いつもなら、降りる駅でエスカレータに近い乗り場から乗車するのが常だが、
この日はちょっといつもと違う行動をしていた事になる。
さて、一駅目を無事出発し、次の駅に電車が滑り込んだときである。

後方から接近する影。
不意に現れ、私の目の前2メートルまでやってきたのであった。
なにやら鈍器で頭を殴られたような錯覚。
過去に記憶が一瞬にして蘇り、そして再び私をパニックに叩き込んだのである。

女はハミングしていたらしい。
しかも笑顔を浮かべながら・・・・・・。
いや、別にハミングをしているからといって、それが私の人生において、
致命的なダメージを与えたり、修正不能な汚点を残されるとか、
会社のマシンがフリーズを頻発するようになるとか、
ましてやハードディスクがクラッシュしたり、貴重なデータが消えて泣きを見るとか、
ダウンロードに失敗したり、メールサーバがダウンしたり、
Oracle8が使えなくて、ユーザー登録が出来なくなるとか、
おおよそ自分の人生において不利な状況が発生するというわけではない。
でもね・・・・、
ヘッドフォンをして、音楽を聴いている私の位置から、
それがはっきりわかるという事は、少なからず歌う貴女の周囲5メートル以内には、
その貴女の歌声が確実に届いているとみて間違いないでしょう。
その証拠に、周囲の人々が、目を合わせないようにしながらも、
しっかり不審げな視線を貴女に投げているではありませんか。

歌う女はハミングをやめようとはしない。
パニックを引き起こしつつ、平静を装うこの私を無視するように、その歌声は車内に響く、
周囲の人も、無関心を装いながらもこの歌う女の動向を窺っている。
しかし歌は続く・・・・・。
頼む、早く周囲の空気を読んでくれ!!!
そんな私の懇願もむなしく、この行為は私の降車する駅に着くまで続き、
精神的に朝から大ダメージを喰らった私はどことなくふらふらした足取りで、
駅への第一歩を踏み出そうとしたのである。
そして過去の記憶を忘れさせまいと思わせるかの如く、
私の横を改札に向かって突撃していくその姿・・・・・・。

気付いていた。
私の前に立ったその時から、私は既に気付いていた。
なにか一つの疑問が氷解した気にもなった。
それすら私の思い過ごしかも知れない。
しかし、その解答を得た気になっても、また一つの疑問を投げかける結果を生む。

そう、貴女は先日の「笑う女」様ではありませんか?!!
(いつから様付けになったかは、本人も不明)
貴女はひょっとして、舞台俳優、または芸能を目指して、日々特訓しているんでしょうか?

やはり疑問は解けない。
そして私もそれをたずねる勇気は無い。

やはり私はチキンなんだなぁ・・・・・・・・。

と、改めて思い知らされた、そんな朝の風景であった。

2000年3月12日



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