放課後、演劇部に向かっていた瞳子は中庭に向かう人影を見つけた。
「祐巳さま?」
両耳の上でリボンを結んで髪を束ねた後ろ姿。
もう何度も見ている。何時の間にか頭の中でそのお顔をイメージできるようになってし
まった人。
間違えるはずはなかった。
「薔薇の館へ?何故?」
今朝の出来事を思い出していた。
下足箱で後ろから抱きつかれたあと、乃梨子さんにいっていたセリフ。
−今日の会議は中止になったから。
確かにそう連絡を伝えていたのを自分も聞いている。
なのに、何故?
瞳子は演劇部へ向かうはずの足を、祐巳さまを追いかけるべく薔薇の館に向けた。
追いかけて間もなく、祐巳さまは薔薇の館に入っていかれた。
見つけた場所からさほど距離も無かった為ほんのわずかな時間追いかけただけで目的地に
到着した。
瞳子は無意識に薔薇の館の扉を開け、2階へと昇っていった。
廊下を少し歩き、ビスケット扉の脇に立つと中からハミングするような祐巳さまの声が聞
えた。
そぉっと中を覗うと、祐巳さまが微笑みながらテーブルを拭いている。
−がく。
瞳子は心の中でこけた。
−掃除をしにきただけでしたのね…
何か秘め事を覗き見るような緊張と期待のような物が入り混じった微妙な気持があったの
だけど、現実はそう面白い結末でもなんでもなかったせいか妙にしらけた気分になってき
た。
−何を期待していたんだろう、瞳子は…
でも。ともう一度中を覗いてみる。
先ほどと同じように祐巳さまが掃除をしている。
テーブル拭きは終わったようで、今度はポットの蓋を開けて中を覗きこんでいる。
「どうしよう?洗って水だけ入れ替えておこう。うん」
自分で問い掛けて自分で答えて。
祐巳さまはポットを流しの方に持っていった。
瞳子は、ふっ。と気づいた。
祐巳さまを見ている自分の顔が緩んでいることに。
−何故!!
自分自身でも驚くほど、顔は微笑んでいた。
しかも、今朝までの心と正反対なほど今は穏やかだった。
何か安心できるような。
祐巳さまを見ていると、心が落ち着く。
暖かい気持になってくる。
「好き…だったんだ…」
呟いてみた。
そう、「好き」だったんだ。祐巳さまのことが。
祥子お姉さまを見たり、思ったりするときとはまた違う何かを感じた。
祥子お姉さまも大好きだけれども、こんな気持にはなった事はなかった。
いままで想った事のある「好き」とは違う「好き」。
それがどの「好き」に当るのかまで瞳子は理解できなかったけれども、祐巳さまがとて
も好きな事は間違いなかった。
そう確信した時、頬を何かが流れた。
−涙…!?
どうして?悲しい事などなにもないのに…
どうして涙が止まらないの?
なんとか涙を止めようと必死に心を落ち着かせようとしてみるけれど、何が原因で涙が
溢れるのかわからないから一向に流れは収まらない。
「瞳子ちゃん?」
「っ!」
不意に横から声を掛けられてそちらを向いた。
当然、この状況で瞳子に声をかけてきたのは祐巳さま以外にはない。
「ゆ、祐巳さま!ご…ごきげんよう」
そういって逃げるように祐巳さまに背を向けた。
理由もわからず涙を流している自分を見られたくない。
咄嗟にそう思った。でも、足は動かなかった。
「瞳子ちゃん、どうしたの!」
「な…なんでもありません」
「なんでもないって…泣いてるじゃない。瞳子ちゃん」
そういって祐巳さまは瞳子の肩を優しく抱きしめてくださる。
−駄目…そんな風に優しくしないで…
瞳子は心の中で叫んだ。声にはならなかった。
「何かあったの?わたしじゃ瞳子ちゃんの助けにならない?」
言いながら、祐巳さまはさっきよりほんの少し、瞳子を抱く腕の力を増した。
−祐巳さまが原因なんですっ!
そうは思ってみても声に出すことは出来なくて、ただ時間だけが流れていく。
祐巳さまはそれ以上何も言わず、瞳子を抱きしめ続ける。
涙は変らず溢れていたけれども、何だか心地よかった。
祐巳さまの腕が、背中に当る胸が、暖かかった。
「祐巳、さま…」
「何?」
「もう…少しだけ…このまま…」
「…うん」
祐巳さまはなにも聞かず、そっと瞳子を抱きしめ続けてくださった。
まだ涙はとまらないけれど、少しの間このまま祐巳さまの温かみのなかに甘えていた
かった。
瞳子の心はとても穏やかだった。
昨日までの、今朝までの心の中にたち続けていた小さな波はもう無くなっていて、ま
るで水鏡のように静かだった。
そして、心の中でそっと呟いた。
−マリア様。瞳子のお願いを聞き届けて頂いて有難うございます。
- f i n -
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