Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『ココロ ニ タツ チイサナナミ』


 「ごきげんよう、瞳子さん」
 「ごきげんよう、乃梨子さん」

 マリア様の前で昨日決めたとおりにお願い事をしていたときクラスメイトの二条乃梨子さんが声
 が声を掛けて来た。

 「いつもは瞳子とお呼びになるのに」

 昨日までと違う呼ばれ方をした事に違和感を覚えたので聞いてみた。
 言いたい事は言う。気になることは問う。
 やはり普段の自分がここにあると実感できてすこし安心した。
 昨日は妙な考えに取り付かれていただけだったのだ。

 「あはは、やっぱ気になる?」
 「気にもなりますわ、何かあるのかと思ってしまいますわよ」
 「そっかー」

 乃梨子さんは少し考え込むように目を閉じて首を傾ける。

 「何かございまして?」
 「昨日ね、志摩…お姉さまに言われたのよ」
 「白薔薇さまに?」

 乃梨子さまは同じ1年でありながら白薔薇さまのつぼみだった。
 白薔薇さま…藤堂志摩子さまの妹になられたのは1学期の中ごろ。マリア祭の少しあとだった
 はずだけれども、もともと優等生然としていたせいか既に貫禄のようなものさえ感じることが
 できた。
 もっとも、それはあくまで表面的な事に過ぎなくて本当はいろいろ焦ったり戸惑ったりしてい
 る事があるのはクラスでもそう何人も知っている事ではないけれども。

 「うん。昨日、 瞳子 って声を掛けたじゃない?放課後に」
 「そうでしたわね。薔薇の館の前で」
 「そう。そのとき2階から見ていたらしいのよ、お姉さま。」
 −駄目よ?乃梨子。同級生は「さん」付けでお呼びしないと。
 「って…」
 「ふふふ、そうでしたの」

 やれやれと言う感じで乃梨子さんは苦笑する。

 「でも乃梨子さんがリリアンに馴染まれてくるのは良い事ですわ」
 「まあ意識して−さんをつけてるんだけどね」

 ははは、って照れ隠しのように乃梨子さんが微笑む。

 「こうも、今までと習慣が違うとそんなにすぅっとは慣れないわね。やっぱり」
 「瞳子から見れば十分馴染んでいらっしゃるように見えますけど?」

 微笑みながら答える。
 やはり白薔薇さまの影響が特に大きいのだろう。

 乃梨子さんと、他愛も無いお喋りをしながら下足箱に来た時それは起こった。

 「瞳子ちゃん!」
 「きゃあっ!!」

 突然後ろから首に腕が巻きついてきた。
 自分でもすこし驚くくらい大きな悲鳴を上げてしまった。まったく気配を感じないまま奇襲を
 うけたせいだろうか?
 もちろん、犯人はわかっていた。今現在このリリアン女学園で瞳子にこんな事をするのは一人
 しかいない。

 「祐巳さまっ!」

 いいながら、首に巻かれた腕を解き一歩あとづさる。
 祐巳さまは「つれないなぁ、瞳子ちゃん」なんて、ぶつぶついながら微笑んでいる。
 
 「ごきげんよう、祐巳さま」
 「ごきげんよう、乃梨子ちゃん。瞳子ちゃん」
 「…ごきげんよう、紅薔薇さまのつぼみ。2年生の下足箱はこちらではございませんわよ」
 「なんか刺があるなぁ…瞳子ちゃん」
 
 すこし拗ねたような言い方になってしまった。いつもなら「ごきげんよう、祐巳さま」と挨拶
 を返すのに。

 「乃梨子ちゃんに連絡があったから」

 やはり祐巳さまに接近されると落ち着かない。

 「わたしにですか?」

 さっきまではあんなに穏やかだった心に大きくはないけれども波が立ち始める。
 不思議と抱きつかれた事自体には何も感じなかった。

 「うん。今日の会議はなくなったから」
 「そうなんですか?」
 「そうなんです。令さまと由乃さんが剣道部のほうで外せない用事ができたって言ってたから」
 「判りました」

 瞳子の心中など顧みず、祐巳さまと乃梨子さんが山百合会の連絡を確認していた。
 判らない。祐巳さまが瞳子の近くにいるというだけなのに。どうしてこんなにも心が掻き乱され
 るのか。嫌いではない。いらいらするのでもない。ただ、落ち着かない。

 「志摩子さんにも伝えておいてくれるかな。お昼一緒するんでしょう?」
 「祐巳さまはいらっしゃらないんですか?お昼休みは薔薇の館には」
 「今日は多分いけないと思うから。じゃあ、お願いね乃梨子ちゃん」
 「了解しました」

 わからない。わからない。わからない。

 それじゃあね、瞳子ちゃん」

 祐巳さまが笑顔を残して少し早足で2年生の下足箱に向かっていくのが見えたけど瞳子の頭の中
 では「わからない」が反芻していて返事も返せなかった。

  「瞳子ってば」

  乃梨子さんに肩をゆすられてやっと我に帰った。

 「また、瞳子ってお呼びになる…」
 「あ、ごめん。でも早く行かないと予鈴がなるよ」
 「ごめんなさい。乃梨子さん」
 「いいよ。行こ」
 「ええ」

 手早く上履きに履き替え、教室に向かう。

 −マリア様…瞳子のお願いは聞き入れていただけないのですね。

 歩きながら瞳子は少しマリア様に嘆いてみた。


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