Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『Jealousy and Fear』 −嫉妬、そして恐怖−


 どのくらい走ったろうか、突然足がもつれて前のめりに地面に倒れこん
 だ。幸いそこはまだ柔らかい下草が残っていて痛みはさほどなかった。
 そのまま、草を掴んで泣いた。
 通りかかった生徒達が何事かと遠巻きに自分を窺っていた。

 「う……祐巳……いや……いやよ……」

 嗚咽と共に呟いた。

 「祥子」

 懐かしい声に呼ばれて顔を上げる。

 「お、お姉さま……」

 夢でも見ているのだろうか?
 本来そこに居るはずの無い『お姉さま』水野蓉子さまが佇んでいらっしゃ
 った。隣には心配そうにこちらを窺う佐藤聖さまのお顔も見えた。

 「立てる?」

 そう仰られて手を差し伸べてくださる。
 涙でぐしゃぐしゃになっている顔を見られたく無くてすぐに顔を俯かせた。
 けれども、一瞬だけお姉さまのお顔を窺った。
 しかし、そのお顔にはかつてのように包み込んでくださる優しさを浮かべ
 てはいらっしゃらなかった。

 「祥子。あなたは一体何をしているの?」

 −何を…

 「わ、わたくしは……祐巳が……」

 ぱぁーーーーーーーーーーーーん。

 何が起こったのか理解できなかった。
 気がついたときには先ほどのように柔草の上に倒れこんでいた。

 「ちょっ!蓉子、なにもそこまで」
 「聖は黙っていて頂戴」

 ぶった…あの優しいお姉さまが。
 もう祥子は完全に混乱していた。祐巳には訣別され、今またお姉さまには
 頬を激しく打たれ。

 「お姉さま、わたしは……わたしは……」

 蓉子さまに頬を打たれたショックで一瞬だけ止まった涙が再び溢れてくる。
 なぜ、自分は妹にも姉にもこんな仕打ちを受けなければならないのか。
 混乱が混乱を呼び、もうなにも考えられなかった。

 「わたしは、あなたを甘やかしすぎたのかしら」
 「蓉子、これ以上は」

 聖さまの制止を払いのけ、蓉子さまの右手がもういちど振り上げられる。

 「お姉さま!!」

 そう叫んだ人影が祥子と蓉子さまの間に割って入った。
 その瞬間、再び甲高い音が響いた。

 「蓉子!!」
 「祐巳ちゃん!?」

 聖さまと蓉子さまの声が重なる。

 「もう止めてください!蓉子さま」

 祐巳だった。祐巳が自分をかばって蓉子さまにぶたれたのだった。

 「どいて頂戴。祐巳ちゃん」
 「どきません!悪いのはわたしなんです!」

 −祐巳……

 「いいえ、祥子が自分で解決しなければならない問題よ」
 「わたしが、わたしがお姉さまのお心も考えずにいたから」

 −まだ…お姉さまと、そう呼んでくれている。

 「祐巳…わたしを…わたしを捨てないで…」
 「お姉さま?」
 「お願い!わたしを置いていかないで!わたしを、わたしを捨てな
  いで!!」

 心のままに叫んだ。
 わたしを庇うように抱きしめてくれていた祐巳をきつくきつく抱き
 しめた。
 その姿はどんなにも無様だっただろう。
 顔中を涙でぼろぼろにして必死に祐巳にすがった。
 けれども祐巳に捨てられる恐怖から比べればそんなことはどうでも
 よかった。

 「お願い……捨てないで……」
 「お姉さま、祐巳がお姉さまを捨てるなんて。そんあことするはず
  がありません」
 「でも、でもさっきあなたはわたしにロザリオを返すって!」
 「へっ?」
 「祐巳ちゃん、それ本当?」
 「そんな事、そんな事するはずがありません!」

 祐巳は首をぶんぶんと振って否定した。

 「さっき、話していたことじゃない?祐巳さん」

 由乃ちゃんが言う。

 「さっきの……ああ!」

 祥子はびくっと背筋を丸めた。

 「あれは、祥子さまにお借りした本のお話で」
 「ほ……ん」
 「はい。先日お借りしたグリム萬話の」
 「疲れたっていうのは……」
 「読み終えたのでお返ししようと思って毎日持ってきていたんです
  けど、本自体がすごく重くて……それで」

 思い出した。確かにあの本は装丁が凝っていてかなり重い。
 教科書やらと一緒に鞄に詰めた時結構な重さになったはずだった。

 「お姉さまにお借りした、大事なご本だったから」

 そうだったの。さっきの「返す」や「疲れた」の言葉の意味はそう
 いう意味だったの。でも、最近の瞳子ちゃんへの構いようとわたし
 への距離の違いは……

 「じゃあ、瞳子ちゃんとお昼をとったり、わたしを避けたりは……」
 「お姉さまを避ける??」
 「今日のお昼……瞳子ちゃんと一緒だったのに、薔薇の館には来な
  かったのは……」

 そうだ。仲良くミルクホールを後にしていた理由。

 「あれは、お昼を教室で食べたあと、飲み物だけ買いに行ったんです。
  そしたら瞳子がいちご牛乳を飲んでいたから一緒に校舎に戻っただ
  けで……」

 そんな……それだけの事だったなんて。
 それだけの事でわたしは。

 「祥子」
 「ひっ」

 お姉さまの声にびくっとして顔を上げる。

 「蓉子!」
 「蓉子さま!」

 祐巳と聖さまが声を重ねる。

 「あのね、二人とも。そう、ぽんぽん大切な祥子をぶったりしないわよ」

 二人がほっとしたように蓉子さまを抑えようとした手を下ろす。

 「祥子、あなたと祐巳ちゃんが『姉妹』になったあとわたしもずっとあ
  なた達をそんな想いで見ていたのよ」

 お姉さまが……祐巳とわたしを……

 「だってそうでしょう。いつもわたしだけを見ていたあなたの瞳が祐巳
  ちゃんを妹にしてからは、ずっと祐巳ちゃんばかり見ていたのだから」
 「お姉さま……」
 「あなたが祐巳ちゃんにしていた事を祐巳ちゃんは瞳子ちゃんにしてい
  るだけでしょう」
 「それは……」

 自分の思い込みと、祐巳を信じることが出来なかった自分が悔しくて、
 恥ずかしくて。
 蓉子さまのお顔を見続ける事が出来なかった。
 このまま消えてしまいたい。そう思ってしまうほどだった。

 「祥子が祐巳ちゃんを信じられていればそんな疑いはおきるはずがなか
  ったのよ」

 その通りだった。
 自分が祐巳を信じてさえ居られれば、こんな気持ちにはならなかった筈
 だったのに。

 「祥子。あなたは本当に祐巳ちゃんの『姉』にふさわしいのかしら」
 「蓉子さま!」
 「祐巳ちゃんは口を挟まないで」

 祐巳の『姉』として。自分は祐巳の『姉』である資格があるのだろうか。
 わからない。わからない!

 「わかりません……でもわたくしは祐巳を、祐巳を愛しています」
 「お姉さま……」
 「そう、それでいいの」

 そう言って蓉子さまは祥子の頬に手を添えてくださった。

 「ふさわしい、ふさわしくないなんてどうでもいいの」
 「お姉さま……」
 「二人がお互いを想いあっていれば、そんなことはどうでもいいのよ」

 さきほど打たれて火照っていた頬にお姉さまの手が触れる。
 お姉さまの手のひらがひんやりして気持ちよかった。

 「祐巳ちゃん、こんな祥子だけどお願い」
 「お願いだなんて……祐巳はお姉さまを愛しています」
 「祐巳!!」

 祐巳の胸に顔を埋める。
 その温かみは蓉子さまの手と同じか、それ以上だった。

 「ごめんなさい、祐巳」
 「お姉さま、祐巳の方こそ」

 祐巳も自分を抱きしめてくれた。
 もう、離さない。たとえ瞳子ちゃんがいても、関係ない。
 祐巳が自分を要らないと言っても絶対に離れない。
 そうマリア様に誓った。


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