Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「裸足の猫」  第五話


 「わたしの記憶にあるお父さんは最初はとても優しいお父さんだった。お母さんとも仲が良くて、わたし
の事をとても大切にしてくれていた。だからわたしはお父さんもお母さんも大好きだった」
 美弥に向けていた顔を、本堂の前の庭に向けなおして佳乃さまが話し出す。
 「でも、小学校一、二年生の頃。何があったのか解らないけれど、急に……ね、お母さんに暴力を振るう
ようになった」
 すこし躊躇いがちに、佳乃さまが話を続ける。
 「それでも最初はお母さんもわたしも我慢していた。だってそれまではとても優しい、大好きなお父さん
だったから。でもね、それから二年ほどして、お母さんがお父さんの暴力と、それからくる心労で身体を壊
して、すぐに亡くなったの。それからはわたしはお父さんに憎しみしか感じなくなった。お母さんを殺した
のはこいつだ。って」
 「……」
 「お母さんが亡くなってから、お父さんの暴力はわたしに向けられたわ。家で晩御飯の仕度なんかしてい
ると、仕事から戻ってきたお父さんが突然髪の毛を掴んできたり、顔を殴られたりもした」
 佳乃さまの話に、美弥はなんの言葉も挟めない。
 というより、新聞やテレビのニュースでしか見たことのないような事が、目の前の人の口から真実として
語られる事に衝撃を受けていた。
 美弥も、ごく普通の家庭環境とは言えない境遇に身をおいてはいたけれど、切っ掛けがどうであれ、自分
から進んでいった道だったから、強制的にそういう立場に置かれるということなど考えた事もなかった。
 「それで中等部の頃は荒れていたわ。お母さんが亡くなって、お父さんが家庭内暴力でしょ。人間不信み
たいになって、学校も休みがちになって、友達も作らなかった。親戚なんかはまさかそんな事になっている
なんて思ってもいなかったらしいし。一昨年、わたし大怪我をしたのよ。お父さんに花瓶で殴られて。その
時、家から逃げ出したわたしを近所の人が助けてくれてね、警察やら救急やら一杯来たの。お父さんは逮捕
されて、わたしはお母さんの実家に引き取られた。それから家庭裁判所でお父さんの親権を放棄させたりや
なんやで、高等部への進学は諦めかけていたんだけど、学校側の配慮なんかもあったみたいで、今こうして
美弥ちゃんとも話が出来ているのね」
 「……」
 「わたしは自分がこの世で一番不幸だって思った。お母さんが亡くなって、お父さんから暴力を受けて。
でも、気が付いたのよ。それは自分が不幸だからっていう境遇に逃げているだけだって」
 「佳乃さま……」
 「だから、かな。美弥ちゃんの事がわかるのは。美弥ちゃんを見ているとあの頃のわたしと同じ風に見え
るの。多分間違っていないんじゃないかな」
 細かい境遇の違い、そういったものは全然違う。けれども、親が原因で他人との関わりを持とうとしない
ところはきっと同じなのだろう。
 「答えないと、いけませんか?」
 「ううん。別に構わない。無理に聞きたいとも思わないし」
 佳乃さまは小さく笑って答えた。
 「その、今でもやっぱり、お父さんの事は……」
 恐る恐る聞いてみた。
 だからお父さんを今でも殺してしまいたいと思っているのか。
 「今でも殺してやりたいって思ってる。お父さんにはお父さんなりの理由があったのかも知れない。けれ
ど、お母さんが死んだのはお父さんのせいだもの。だから今でも……」
 それ以上言葉を続けられず、美弥は黙り込む。
 佳乃さまの顔には苦しみや悲しみ、怒りがない交ぜになって、歪んでいるような表情が浮かんでいる。
 「お祖父さんとお祖母さんがね、そろそろ桜月にしないかって言ってるのよ」
 「桜月……お母さんの」
 「そう。谷木内はお父さんの姓。戸籍上はとっくに桜月になっているの。お父さんに親権が無くなったと
きから」
 「どうして」
 「お父さんに憎しみがあるうちは桜月になれない。そう決めたの。だってお母さんに申し訳ないもの。結
局、お母さんはわたしに一言の愚痴もこぼさなかった。それはきっとお父さんを信じていたからだと思う
の」
 庭を見つめていた佳乃さまは、赤く染まりつつあった空に顔を向ける。
 美弥は、一言一言を噛み締めながら話す佳乃さまを見ていられなくて、無意識のうちに視線を逸らしてし
まう。
 「お父さんを殺してやりたい、でも今はそんな事出来ない。お父さん、拘置所にいるのよ。だから手出し
なんて出来ないから」
 「もう……」
 視線をそらしたまま、搾り出すように呟いた。
 「もう……何?」
 佳乃さまはそんな美弥の声を聞き逃さなかった。
 「もう止めてください!」
 これ以上聞いていられなかった。違う、聞きたくなかった。
 佳乃さまの境遇はわかった。でも、だから美弥にどうしろと言うのだ。こんな話聞きたくなかった。
 「ごめんなさい。でもね、美弥ちゃんに聞いて欲しかったんだ」
 「どうしてわたしなんですか。佳乃さまにだったらもっと親しい人が居るでしょう」
 「居ないわ。居たとしても話したくなんてない」
 佳乃さまが言い切る。違えようもないくらいにはっきりと。
 「わたしは哀れんで欲しいからこんな事をあなたに話したんじゃないの」
 「ならどうしてなんですか!」
 佳乃さまの境遇、美弥の境遇。重なりそうで重ならない。
 哀れみを求めているのでないのなら、一体なぜ美弥にこんな話をするというのか。
 「そうね、きっと美弥ちゃんがわたしと同じだから」
 「同じ……」
 境遇が?違う。美弥の境遇は自分から選んだものだ。佳乃さまのように押し付けられた境遇じゃない。だ
から……。
 「同じよ。わたしも裸足の猫だったんだもの」
 その言葉を聞いて、美弥は佳乃さまと視線を絡めた。
 佳乃さまの瞳はとても綺麗だった。
 吸い込まれそうなほどに。
 「裸足の猫」
 それはここに来る前、佳乃さまが美弥を揶揄して言った言葉だった。


  −To Be Next−


 

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