Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「裸足の猫」  第六話


 美弥はお寺から逃げ出した。
 違う、佳乃さまから逃げ出したのだ。
 怖かった。
 佳乃さまの話を聞いて、美弥が佳乃さまと同じだと告げられて。
 なにが裸足の猫なのか。
 確かに美弥が選んだ世界は誰もそんな事を望んでいたのではないのかもしれない。
 けれども、他でもない美弥自身が望んだ世界のはずだった。
 「誰も望んでいない険しい道。そう、自分だって望んでいないのに、一人でわざわざそんな世界を選んで
歩いている。わたしも、美弥ちゃんも」
 「違う!わたしは自分で望んで選んだんです」
 「違わないよ。自分は不幸なんだ、自分は辛い境遇なんだって、思い込もうとしてわざとそうしているだ
け。本当は心の中で誰かに助けて貰いたがっているのに、猫みたいに一人で居ようとする」
 佳乃さまの表情は優しかった。けれど、そこには怖いほど冷たいものが感じられた。
 だから、逃げ出した。
 行きに降りたバス停まで美弥は走った。
 丁度、駅へ向かうバスが近くまで来ていたから、そのバスに飛び乗った。
 佳乃さまは追いかけてきたりはしなかった。
 バスの中、美弥は自分の肩を抱えて、駅に着くまでの間、ずっと俯いていた。
 住宅街にある高層マンション。
 美弥の今の家。つまりは叔母の家が見えてくる。
 玄関の前にあるセキュリティキーにカードを通してドアを開く。
 モダンなデザインの大きな玄関ホールを通り抜け、二基あるエレベータのうち、タイミング良く一階に着
床していた右側のエレベータに乗り込む。
 エレベータの中で背中を壁に預けて、目をつむる。
 「美弥ちゃんは目の前の道を進むことを怖がって、逃げているだけ…」
 逃げ出す直前、佳乃さまに言われた言葉が、佳乃さまの表情が、浮かんでくる。
 「違う……」
 「逃げているだけ、なのよ。あのときの私みたいに」
 「違う、違う!」
 佳乃さまの言葉が頭の中で、何度も何度も繰り返し聞こえてくる。
 同じフレーズばかりが何度も。
 振り払うように頭を大きく振ってみるけれど、効果はなかった。
 「ちが……う……」
 カタン。
 エレベータが止まり、扉の開く音に気がついて目を開ける。
 すると、未だに見慣れない風景が目の前に広がっていて、佳乃さまの姿は消え去っていった。
 「……」
 エレベータを降り、廊下に出ると玄関ホールに入った時にはやや明るさを残していた残照もすでになくな
っていて、廊下から見える風景は夜の景色になっていた。
 佳乃さまのお母さんの眠るお寺で聞かされた言葉。
 あの言葉を聞いてからここに戻ってくるまで、訳のわからないもやもやとした気持ちがずっと続いている。
 その気持ちの正体は何か見当もつかない。ただ、嬉しさや楽しさといった類のものではないことは解って
いた。
 「お帰りなさい、美弥。遅かったのね、少し心配したわ」
 「ただいま帰りました、千香子さん」
 家の玄関を開くと、まるで待ちかまえていたように叔母の桑坂千香子さんが立っていた。
 「ごめんなさい。少し友達と寄り道をしていたの」
 「そうだったの、クラブにはまだ入っていないって言っていたから。お友達と一緒だったの。いいのよ、
お友達は大切だもの」
 「ありがとうございます」
 「もうすぐお夕飯にしますから、着替えて待っていてちょうだい」
 「はい」
 この家に美弥が来たのはリリアン女学園に入学する一週間前だった。
 お母さんのことがあって、お父さんが姉である千香子さんに相談したという事だった。
 千香子さんは以前からお母さんとあまり仲が良くなかった為か、その話をお父さんから聞かされた時、す
ぐに美弥を預かると言ってくれたそうだった。
 千香子さんは夫である弘一郎さんと二人住まいで、子供はいない。
 だからだろうか、美弥がこの家にやってきたときからずっと、二人は美弥にとてもよくしてくれた。ただ
優しいだけではない。
 しなければならないことをしなかったり、約束を守らなかったりすればきつく叱られたりもする。二人は
美弥をただ預かるというのではなく、ちゃんと育てようとしてくれているのだった。
 それは美弥にもよくわかっていた。けれども、美弥にはまだ二人が家族だと考えることができなかった。
 本当の両親と、姉。生まれてからずっと一緒に暮らしてきた家族との生活をそう簡単に忘れてしまえるわ
けもなかったから。
 たとえ自分のしたことの結果、二度と一緒に暮らすことができないだろうという事が解っていたとしても
……。
 「今日一緒にいたお友達は同じクラスの人?」
 「いえ、二年生の先輩です」
 夕飯の後、食器を片付けていた千香子さんが、片付けを手伝っていた美弥に声をかけてきた。
 「まあ、もしかしてその二年生の人は美弥のお姉さまなのかしら」
 「違います」
 「美弥?」
 「ごめんなさい、そういうのとは違います。ただ、時々お話をしたりするくらいで」
 思わず大きな声を出してしまった。
 千香子さんはリリアン女学園の出身ではなかったはずだったけれど、リリアンの姉妹制度のことを知って
いたのだろうか。
 「そうなの、リリアン女学園では仲の良い上級生と下級生が姉妹の契りを結ぶって昔聞いていたから、て
っきりそうなのかと思ってしまったわ」
 「わたしの方こそごめんなさい、大きな声を出してしまって」
 頭を下げて、先ほどのことを謝る。
 「いいのよ。誰にだってあまり深入りして欲しくないことだってあるものだから、気にしなくていいわ
よ」
 千香子さんは微笑みながら、美弥の肩にそっと手を載せて洗い物を始めた。
 テーブルの上に乗っていた食器類はすべて運び終え、シンクの前は千香子さんの一人舞台になってしまっ
た。
 今のところ、美弥の手伝えるようなことは何もなかった。
 「美弥、ありがとう。もうここはいいから部屋に戻ってゆっくりしてらっしゃい」
 「はい」
 言われるまま、美弥は自分の部屋に戻った。
 部屋に戻ったからと言って、何かするべき事があるわけでもない。
 真新しい、ベッドに腰を下ろし、そのまま後ろに上半身を倒す。
 美弥が来るまでは弘一郎叔父さんの書斎だったという部屋は、美弥のために家具から壁紙までがすべて真
新しいものに替えられていた。
 揃えてもらった家具類以外、ほとんど物のない部屋。
 家を出るとき、持ってきた物は大きめのバッグに収まるくらいの衣類くらいだった。
 それ以外の物は家に残してきた。
 遠からず、処分されることを知った上で。
 ぼーっと天井を見つめる。
 すると、直ぐに美弥を睡魔が包み込んできた。
 そのことに美弥はすこし驚いた。体はさほど疲れたりはしていないのに。
 ほんの少しの間、そんなことを考えていたけれど、それも億劫に感じられて、美弥は身体が求めるまま、
まぶたを閉じた。
 パジャマに着替える気も起こらないまま、美弥はそのまま眠りに落ちていった。

  −To Be Next−


 

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